知らなかったら損をする! ― 私たちを影から操る“プログラム”の正体を探る
私たちの人生は、ある“自動プログラム”によって支配されている……。
いや、私たち一人ひとりの人生どころか、私たちの社会そのものが、その“自動プログラム”によって操られている――。
もし、私がそう言ったとしたら、あなたは私の言葉を信じてくれるでしょうか?
「怪しい……。」
そう思われるのが、当然です。
ですが、怪しいのは承知の上で、あと5分、いやあと3分だけでいいので、この記事を読んでみてください。
記事を読み進めるうちに、きっと、ただの怪しい記事ではないことがわかっていただけると思います。
そして、このページを読み終わる頃には、「あとのきページを閉じなくてよかった」と思っていただけるだけの内容になっていると思います。
さてさて。
ところで、この“自動プログラム”というのは、いったい何なのでしょうか?
“プラグラム”と言っても、それは、C言語とか、Javaとか、PHPなどというようなコンピュータで動作するプログラムのことではありません。
私たち自身の中や、私たちがつくる集団の中で動作する、プログラムです。
しかも、そのプログラムは、誰に頼まれることがなくても、自動で動き続けます……。
そのプログラムは、本人も気づかぬうちに、私たちの人生を暗転させてしまったり、そうかと思えば、幸せに導いてくれることもあります。
私たちの社会の仕組みだって、つくりだすことが出来ます。
例えば、私たちが一定の年齢になると、毎日学校に通うようになるのも、仕事に行くようになるのも、このプログラムと無関係ではありません。
そもそも、ほとんどの人が「お金」のために仕事をしているわけですが、この「お金」そのものが、その“自動プログラム”によってつくられたものなのです。
もちろん、いわゆる「ブラック企業」問題や、過労、格差社会も、この“プログラム”と無関係ではありません。
家族や夫婦の問題、友人関係に与える影響だって甚大です。
もっと大きな視点では、戦争や、世界の貧困問題にまで、このプログラムは関係しています。
こう書くと、なんとも恐ろしげで、読んだあとに「知らなきゃよかった」と後悔しそうに思えるかもしれませんが、決して、そうではありません。
なぜならば、この“プログラム”が私たちの人生や社会に、それだけ大きな影響を与えているのなら、もしその“プログラム”を変えることが出来れば、私たちの人生や世界は、もっと明るいものになるからです。
では、その“自動プログラム”というのは、いったい何なのでしょうか?
順を追って、考えていきましょう。
“観念”こそが、ほとんどの人が気づかぬうちに、ひっそりと、私たち一人ひとりの人生や、私たちの世界を影から操っている“自動プログラム”の正体なのです[※1]。
証拠を、お見せましょう。
(内容が多岐にわたるため、一つひとつについて詳しく説明できないため、詳細は、参考リンクを読んでみてください。また、この記事は、一度で消化するのは難しいと思います。この記事を一通り読んだ後に、リンクを貼ってある参考記事を読んで、もう一度この記事を読んでみることをお勧めします。)
まずは、このプログラムが、いかにして個人の人生を裏から操っているのかについてです。
例えば、ある人に、「私には派手な服装は似合わない。地味な服装があっている。」という“観念”を植え付けることに成功したとしましょう。
するとその人は、プログラミングされたコンピュータのように、自動的に地味な服装をするようになります。
あるいは、「お前はダメな人間だ!」という“観念”を植え付けたとしたらどうでしょう。
「自分にできるわけがない」、「どうせダメに決まってる」。
こういう前提からスタートすれば、挑戦していれば成功していたかもしれない場面でも、行動が出来なくなってしまいます。
「自分には地味な服装がふさわしい」と思っている人が、自然と地味な服装を選んでしまうのと同じように、「自分はダメだ」だと思っている人は、自然とダメな結果に結びつく選択(「何もしない」ことも、「何もしない」という選択をしているということ)をしてしまうのです。
逆に、「自分には出来る」と思っている人は、何のためらいもなく、行動を起こすことが出来るでしょう。
まあ、これは、考えるまでもなく当たり前のことですね?
ところで、「自分はダメな人間だ」という“観念”を信じることの恐ろしさは、行動が出来なくなることだけではありません。
例えば、「自分はダメな人間だ」と信じることに付随して、「こんなダメな自分に、良いチャンスがやってくるわけがない」と信じていたとします。
すると、本当に、チャンスがやって来なくなってしまうのです。
もう少し正確に言うと、チャンスが目の前にやって来たとしても、そのチャンスに気づくことができなくなってしまうのです。
運が逃げて行ってしまうのですね。
ウソだと思うなら、是非、次の参考記事で紹介している「注意力テスト」を受けてみてください。
きっと、結果に驚くことになると思います。
それとは逆に、「自分はチャンスに恵まれているのだ」という“観念”を信じている人であれば、一見失敗に見えることですら、チャンスに変えてしまうことが出来ます。
ここまでの説明を読むだけでも、“観念”のプログラムが、人生にどれだけ大きな影響を与えているのかが理解できると思います。
服を買うような日常の1コマから、人生を変えてしまうような大きなチャンスとの出会いに至るまで、私たちは、“観念”のプログラムによって、影から操られているのです。
しかし、“観念”のプログラムが私たちの人生にとって重要なのは、その作用の大きさだけではありません。
それは、一度プログラミングされた“観念”は、一度きりだけではなく、継続的にはたらき続けるということです。
“観念”には、まるで生物のような「自己保存」のメカニズムが備わっているのです。
どういうことかと言えば、一度、ある“観念”を受け入れてしまうと、その“観念”を信じ続けさせようとする力がはたらくということです。
つまり、一度、「自分はダメな人間だ」と信じてしまうと、なかなかその思い込みから抜け出せなくなってしまうということです。
そのメカニズムを、簡単に説明しましょう。
例えば、「自分はダメな人間だ」と信じている人は、「自分がダメな人間だという証拠」ばかりを見つけるようになります。
これは、先ほど紹介した「カクテルパーティー効果」によって説明することができます。
もし、運よく「本当は、自分にもこんないいところがあった」という証拠が見つかったとしても、「でも、そんなこと大したことないし」と過小評価してしまったりします。
人間には、自分の“観念”に沿った方向にバイアスをかけて、ものごとを認識する傾向があるのです。
さらに、「人間は感情で決めて、理屈で正当化する生き物である」という言葉があるように、一度、「自分は無価値だ」という結論を決めてしまえば、それを正当化する理屈など、いくらでもつくり出すことができます。
自分で好きな前提を決めてしまえば、論理的に、好きな結論を導くことが出来るからです。
さらに、“観念”には、感情や行動を通して固定化されていく傾向もあります。
例えば、「自分はダメな人間だ」という“観念”を信じるから、事あるごとに「自分はダメなんだ」と感じる。
「自分はダメなんだ」と感じるから、「やっぱり、自分はダメな人間に違いない」と、さらに“観念”を強化するというようなスパイラルです。
このように見てみると、一度、“観念”のプログラムが動き始めるとロックがかかってしまい、簡単にはプログラムを書き換えられなくなってしまうということがわかります。
そう。
“観念”のプログラムは、私たちの人生を影から操っているだけでなく、そのプログラムが容易には書き換えられないように出来ているのです。
だから、幼少期の体験によってつくられた“観念”のプログラムが、その人の一生を左右し、生涯にわたって影響を与え続けるということも普通にあり得ることなのです。
とは言っても、私たちに影響を与えているプログラムはたった1つではありません。
普通の人は、数え切れないほどの数のプログラムを並列処理で回していることでしょう。
だから、時には、自分の中に矛盾する“観念”のプログラムが存在することもよくあります。
例えば、人前でちょっと面白いミスをして笑われてしまった時、「恥ずかしい」という気持ちと、「注目を受けてうれしい」という気持ちが同居しているような場合があるでしょう。
これは、この人の中に「笑われることは、恥ずかしいことだ」という“観念”と、「笑われることは、おいしいことだ」という“観念”が同居しているということでしょう。
こういう状態を考えるためには、数学の時間にやったベクトル(矢印)の計算が参考になると思います。
(画像をクリックで拡大できます)
「笑われること」をポジティブにとらえる方向性の“観念”と、ネガティブにとらえる方向性の“観念”の強さのバランスで、総合的な“観念”の作用がかわってくるのですね。
このように考えると、私たちの中では、たくさんの“観念”のプログラムがせめぎ合いをしながら、私たちの人生に影響を与えているのだと考えることができます。
では、“観念”の力が影響を与えるのは、私たち一人ひとりの人生についてだけなのでしょうか?
もちろん、そんなことはありません。
実は、“観念”のプログラムは、私たちが暮らしている社会を動かしてしまうほどの力も持っているのです。
人が集まってできる集団(社会)を思い浮かべてみてください。
学校でも、職場でも、はたまた国や民族でも構いません。
例えば、同じ「学校という社会」でも、ある学校と別の学校では、全然、雰囲気が違うことってありますよね?
一言で言えば、「校風」です。
学校以外にも、会社であれば「社風」、国であれば「お国柄」「国民性」という言葉があるように、これは会社組織や国についても同じことが言えます。
では、その「社風」や「校風」をつくりだしているものは、いったい何なのでしょうか?
私は、ここでも“観念”が大きな役割を果たしていると思っています。
例えば、「常識」という言葉があります。
「常識」というのは、その集団の人々のほとんどが受け入れている“観念”だと考えることができるでしょう。
例えば、現代の日本人であれば、ほとんどの人が「人の命を弄ぶことは悪いことだ」という“観念”を持っています。
このように、一人ひとりの個人が“観念”を持っているのと同じように、人が集まってつくりだされた集団についても、その集団全体で共有する“観念”が存在すると考えられます[※2]。
もちろん、一人ひとりが持っている“観念”の方向性は微妙にバラついているということもあるでしょうし、中には正反対の“観念”を持つ人もいるでしょう。
一人の個人の中ですら、笑われることを「恥ずかしい」と捉える“観念”と、「おいしい」ととらえる“観念”が同居していたりするのですから、それが集団ともなれば、色々な“観念”が入り乱れるのは当然です。
しかし、それらのベクトルを全て足し合わせ、最大公約数的な答えを導けば、その集団が全体として受け入れている“観念”が浮き彫りになると考えられます。
毎回こんな長い説明を書くのは面倒なので、以降は、この「集団が全体として共有している“観念”」のことも、単に“観念”と呼ぶことにしましょう。
このような、集団が受け入れている“観念”は、その集団に大きな影響を与えます。
ある人が受け入れた“観念”が、その人の人生に大きな影響を与えるのと同じようにです。
例えば、「約束した時間を守るのは大切なことだ」という“観念”を持った集団と、「数時間の遅れなんて、遅刻とは言えない」という“観念”を持った集団がつくりだす“場の空気感”は、まったく違ったものになるでしょう。
このような“観念”が国レベルで共有されていれば、その“観念”が「国民性」や「お国柄」に反映されるでしょう。
あるいは、「都会」や「華やかさ」などを大切にする価値“観”を持った人が集まりやすい大学と、「堅実さ」を大切にする価値“観”を持った人が集まりやすい大学では、その校風も変わってくるでしょう。
これも、価値“観”という“観念”が、その集団がつくる空気に影響を与えている例です。
ところで、個人レベルについて考えてみた時に、一度受け入れられた“観念”には、その“観念”を維持し続ける力がはたらくことはすでに説明しました。
これは、集団レベルになっても同じことが言えるのでしょうか?
私は、集団が受け入れた“観念”についても、同じような力がはたらくと考えています。
その力は、例えば、「理不尽なルール」ですら固定化してしまうほどの力を秘めています。
また、集団の“観念”が影響を及ぼすのは、「校風」や「国民性」といったような雰囲気や、「特定の会社に存在するちょっとしたルールや伝統」だけに止まりません。
“観念”のプログラムは、私たちの社会の根本にかかわるような仕組みにまで大きな影響を与えています。
例えば、私たちが暮らしている「資本主義経済」が成立するためには、「資本主義の“観念”」が必要不可欠だという指摘があります。
さらには、「命の次に大切なもの」とまで言われることもある「お金」だって、“観念”の力がなければ存在できません。
知っている人にとっては常識レベルの事実ではありますが、「お金に価値がある」という“観念”は幻想でしかありません。
その幻想を、みんなで信じることによってはじめて、「お金」は「本当に価値がある存在」として創造されるのです。
このように、“観念”は私たちの社会の基本的な仕組みまでつくりだす力を持っているのですね。
そう。
まさに、“観念”は社会を動かすプログラムとして機能しているのです。
たしかに、ここまでの説明を読んでみると、“観念”はまるで「私たちを影から操る支配者」のようにも見えてしまいます。。
そして、このイメージは、必ずしも間違ってはいません。
一面では、それも真実だと思います。
しかし、“観念”のプログラムにはネガティブな側面しか存在しないのかといえば、そんなことはありません。
もし、“観念”のプログラムの作用が消えてなくなってしまったとしたら、私たちは、まともに生きることもできなくなってしまうのです。
例えば、「笑われることは恥ずかしいことだ」という“観念”も、「笑われることはおいしいことだ」という“観念”もなくなってしまえば、私たちは、笑われたとしても何も感じない「無感情人間」になってしまうでしょう。
ある種、「悟りを啓く」ことが出来るかもしれませんが、そんな人生は楽しそうには思えません。
いや、それどころか、もし“観念”の作用がなくなってしまったら、文字を読むことすら出来なくなってしまうでしょう。
“観念”が、まるで生命体であるかのように「自己保存」する作用だって、同じことです。
この作用がなければ、例えば、今日は「どんなことでも前向きにとらえるスーパーポジティブ人間」が、次の日には「何でも後ろ向きに捉える超ネガティブ人間」になってしまうかもしれません。
こんなにコロコロと“観念”が変わってしまっては、私たちの人格が破綻してしまいます。
社会についても、同じことです。
今日の日本は「自由資本主義社会の“観念”」が主流だったと思ったら、次の日の朝には「狩猟採集社会の“観念”」が主流になり、その日の昼ごろには「封建社会の“観念”」が勢いづいたりしたとしたら、もはや社会はグチャグチャの混乱状態です。
このように考えると、“観念”のプログラムの作用が、私たちにとって必要不可欠な作用だということがわかると思います。
コンピュータのプログラムと同じように、“観念”のプログラムも一種の「仕組み」であり、「システム」です。
別に、“観念”のプログラム自体が「悪」なのではなく、「悪を生み出す仕組み、システム」が「悪い結果」をもたらすだけなのです。
それは、良い方向に使っているときには便利なコンピュータのプログラムも、コンピュータウイルスのようなプログラムになれば大きな被害をもたらすのと同じことです。
だから、「良いプログラム」を走らせることができれば、“観念”のプログラムは、私たちに大きな恩恵をもたらしてくれるでしょう。
これまでに見てきた説明から、“観念”のプログラムが、一人ひとりの人生や、社会を動かす大きな力になっていることはよくわかりました。
そして、個人の場合にも、社会の場合にも、一度動き始めた“観念”のプログラムには、まるで生命体が自己保存をするかのような力がはたらき、現状の“観念”を維持し続けようとする作用があることも納得しました。
さらに、“観念”のプログラム自体は、コンピュータのプログラムと同じような単なる「仕組み」や「システム」であって、「良い、悪い」があるわけではないことも理解しました。
その仕組みやシステムが、どういう結果を生み出す方向に動くのかが、私たちが恩恵を受け取れるのか、それとも迷惑を被るのかの違いをうみだすわけです。
ですが、まだ納得できないことがあります。
それは、私たちの“自由意志”の問題です。
もし、“観念”にそんなに莫大な力があり、しかも、「自己保存」のはたらきまであるのだとしたら、私たちは、ただただ“観念”のプログラムに支配されるだけの存在なのかもしれないという疑問がわいてきます。
私たちは、“観念”のプログラムに操られる「操り人形」に過ぎないのでしょうか?
私たちが暮らす社会も、“観念”のプログラムという台本に沿って上映される、単なる演劇に過ぎないのでしょうか――?
もちろん、そんなことはありません。
たしかに、“観念”の力は莫大です。
しかし、だからと言って、私たちを支配することはできません。
だって、考えてもみてください。
“観念”が「プログラム」だということは、その「プログラム」をつくる「プログラマー」がどこかに存在するということです。
もし、過去に一度たりとも「プログラミング」が行われたことがなければ、“観念”のプログラムは存在しないはずです。
つまり、“観念”は絶対的な支配者などではなく、さらに上位の存在として「プログラマー」が存在するということです。
だから、“観念”のプログラムがよい結果をもたらすのか、悪い結果をもたらすのかは、結局は、プログラマーの“意図”と“能力”次第ということになります。
もし、プログラマーが悪意を持ってプログラムを書けば、そのプログラムは悪い結果をもたらすでしょう。
あるいは、良い結果を意図していたとしても、プログラマーとしての能力が未熟であれば、結果として悪いプログラムをつくってしまったり、プログラムをつくることが出来ないこともあるはずです。
書き換えたいと思うプログラムも、「自己保存」の力が強すぎて書き換えられないことも往々にしてあるでしょう。
その“観念”が、私たちにとってあまりにも当たり前になりすぎているために、その“観念”の存在に気付くことすらできず、ましてや書き換えることなど出来ないという場合もあるでしょう。(「魚は水を発見できない」のです)
もっと言ってしまえば、ここまでは便宜上、「良いプログラム」とか「悪いプログラム」という言葉を使ってきましたが、本来、「絶対的な善」や「絶対的な悪」というものは存在しません。
「善」も「悪」も、相対的なものでしかないのです。
ある時代のある人たちにとっては「良い行い」が、別の時代の別の人々にとっては「信じられないような悪い行い」に映るということが普通にあり得るのです。
では、いったい何が「善」を「善」として存在させ、「悪」を「悪」として存在させるのかと言えば、それが“観念(善悪観)”の力です。
私たちは、自分の善悪“観”に「善」と書かれていることを「善」と認識し、「悪」と書かれていることを「悪」と認識するのです。
そして、この善悪“観”のような“観念”を書きかえることこそが、「“観念”のプログラマー」に与えられた権能なのです。
例えば、これまでは「ツラくても仕事を頑張らないのは悪いことだ」という“観念”を持っていた人が、その“観念”を手放し、「限界まで身を削ってまで働くのは悪いことだ」という“観念”を新しく受け入れることを決めたとしたら、それが「プログラマー」としての能力を発揮したということです。
別に、どちらの考え方が「正しい」とか、「間違っている」という話ではありません。
「何が正しくて、何が間違っているのか」を決めるのが「プログラマー」の仕事なのです。
何が言いたいのかといえば、私たちが「プログラマー」となることができれば、私たちは“自由意志”を発揮することが出来る存在になれるということです。
私たちは、“観念のプログラム”を上手く利用して、“自由意志”を効率的に現実にしていくことができます。
逆に、自らが「プログラミング」をする能力を失えば、最悪の場合、“観念の奴隷”になってしまうこともあり得ます。
“観念の奴隷”にならないための、そして誰かを“観念の奴隷”にしてしまわないための注意点です。
「何が正しくて、何が間違っているのか」を決めるのは、それぞれの「プログラマー」の自由ですので、私が、誰かの決定に口をはさむことをするつもりはありません。
ただ、もし皆が「私はこれが正しいと決めたから、これに従え!」、「いや、私はこれを正解と決めたいんだ!!」と言い始めると、終わらない争いが始まることになります。
もちろん、それが健全な議論になることもあるでしょう。
だから、そういった対立が必要な場面もあるはずですし、必ずしも、それを否定したいとは思いません。
しかし、それがエスカレートすれば、「永遠の対立」か「強者による“観念”の支配」が待っています。
(詳しくは、いずれ「秩序」のレベルについての記事を書く予定ですので、それを読んでいただければよくわかると思います。)
「永遠の対立」はわかると思いますが、「強者による“観念”の支配」については説明が必要でしょう。
これも文字通りの意味ではあるのですが、「“観念”の操作に長けた強者が、人々や社会の“観念”を操作する」という意味です。
例えばそれは、洗脳によって“観念”を植え付けることかもしれませんし、マスコミを支配して社会の常識という“観念”を操作することかもしれません。あるいは、学校で子供たちに「特定の“観念”」を信じ込むように教育を施すことかもしれません。
もちろん、夫が妻に自分の価値観を強制することも含まれます。上司と部下、親と子でも同じことです。
もし万が一、それが成功したら、“観念”を操作された人々の人生は、知らず知らずのうちに、“観念”を操作した人に操られているということになってしまいます。
言い方を変えれば、自分の“観念”をプログラミングするプログラマーとしての能力を明け渡してしまったということです。
場合によっては、「強者」の一存で、社会の“観念”を書きかえることで、影から歴史を動かすことだって、原理的には出来てしまいます。
もちろん、「“観念”を操作してやろう」と意図した誰かが存在していなくても、例えば、「常識だから」というだけで、無条件に何かしらの“観念”を受け入れているような場合には、同じことが起こります。
あえて過激な言い方をすれば、プログラマーとしての権能を放棄した、“観念の奴隷”状態になってしまっているのです[※3]。
私には、それはが望ましい状態だとは思えません[※4]。
だから私は、「自分の正解を自分で決めること」については何の問題もないと思っていますが、「他人にまで、自分の正解を強制すること」は避けた方が良いと思っています。
私が記事を書く時には、(それがどこまで成功しているかは別として)できるだけ、このことを心がけています。
「こういう正解を選ぶという選択肢もありますよ?」と提案はするけれども、「これ以外の正解は認めません」というスタンスにならないように気をつけているのです。
私は、“和楽の道”での活動を通して、その考えに共感してくれる人を増やし、“和楽の観念”を普及させたいと考えています。
そして、“和楽の観念”に共感してくれた人々の中から、自然と“和楽のプログラム”が起動し始め、やがて世界を変えていくことを夢見ています。
別に、“和楽”の考え方を世界標準にしてやろうなどとは考えていません。
私は、「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」が、互いに矛盾せずに、お互いの足りない部分をサポートしあうように存在しているのと同じように、“和楽のプログラム”も、“これまでの世界のプログラム”と矛盾なく同居できると考えています。
だから、別に世界中のすべての人に、“和楽”の考え方に共感して欲しいとは思っていません。
自然と共感してしまう方だけに、共感していただければよいと思っています。
だから、“和楽の観念”が普及していくプロセスは、強制的なものであってはなりません。
それは、“和楽”の考え方に反するからです。
それが、私の決めた「正解」であり、“和楽の道”は、“和楽の観念”に共感してくれた方に対しての『一緒にその「正解」を選びませんか?』という提案なのです。
“和楽の道”は、共通のビジョンのもとに集った、自由参加型のオープンソースプロジェクトでありたいと思っています。
少し話が飛んでしまいましたが、“観念の奴隷”にならないため、そして、誰かを“観念の奴隷”にしてしまわないためには、このようなことを心がける必要があると思います。
今回の記事で扱った“観念のプログラム”については、今後も、記事にしていきたいと思っています。
<初めての方へ : 和楽の道について >いや、私たち一人ひとりの人生どころか、私たちの社会そのものが、その“自動プログラム”によって操られている――。
もし、私がそう言ったとしたら、あなたは私の言葉を信じてくれるでしょうか?
「怪しい……。」
そう思われるのが、当然です。
ですが、怪しいのは承知の上で、あと5分、いやあと3分だけでいいので、この記事を読んでみてください。
記事を読み進めるうちに、きっと、ただの怪しい記事ではないことがわかっていただけると思います。
そして、このページを読み終わる頃には、「あとのきページを閉じなくてよかった」と思っていただけるだけの内容になっていると思います。
さてさて。
ところで、この“自動プログラム”というのは、いったい何なのでしょうか?
“プラグラム”と言っても、それは、C言語とか、Javaとか、PHPなどというようなコンピュータで動作するプログラムのことではありません。
私たち自身の中や、私たちがつくる集団の中で動作する、プログラムです。
しかも、そのプログラムは、誰に頼まれることがなくても、自動で動き続けます……。
そのプログラムは、本人も気づかぬうちに、私たちの人生を暗転させてしまったり、そうかと思えば、幸せに導いてくれることもあります。
私たちの社会の仕組みだって、つくりだすことが出来ます。
例えば、私たちが一定の年齢になると、毎日学校に通うようになるのも、仕事に行くようになるのも、このプログラムと無関係ではありません。
そもそも、ほとんどの人が「お金」のために仕事をしているわけですが、この「お金」そのものが、その“自動プログラム”によってつくられたものなのです。
もちろん、いわゆる「ブラック企業」問題や、過労、格差社会も、この“プログラム”と無関係ではありません。
家族や夫婦の問題、友人関係に与える影響だって甚大です。
もっと大きな視点では、戦争や、世界の貧困問題にまで、このプログラムは関係しています。
こう書くと、なんとも恐ろしげで、読んだあとに「知らなきゃよかった」と後悔しそうに思えるかもしれませんが、決して、そうではありません。
なぜならば、この“プログラム”が私たちの人生や社会に、それだけ大きな影響を与えているのなら、もしその“プログラム”を変えることが出来れば、私たちの人生や世界は、もっと明るいものになるからです。
では、その“自動プログラム”というのは、いったい何なのでしょうか?
順を追って、考えていきましょう。
私たちの人生を操る“プログラム”の正体
まず、結論から言ってしまえば、その“自動プログラム”の正体は、私たちの“観念”です。“観念”こそが、ほとんどの人が気づかぬうちに、ひっそりと、私たち一人ひとりの人生や、私たちの世界を影から操っている“自動プログラム”の正体なのです[※1]。
証拠を、お見せましょう。
(内容が多岐にわたるため、一つひとつについて詳しく説明できないため、詳細は、参考リンクを読んでみてください。また、この記事は、一度で消化するのは難しいと思います。この記事を一通り読んだ後に、リンクを貼ってある参考記事を読んで、もう一度この記事を読んでみることをお勧めします。)
まずは、このプログラムが、いかにして個人の人生を裏から操っているのかについてです。
例えば、ある人に、「私には派手な服装は似合わない。地味な服装があっている。」という“観念”を植え付けることに成功したとしましょう。
するとその人は、プログラミングされたコンピュータのように、自動的に地味な服装をするようになります。
【 参考記事 】
あるいは、「お前はダメな人間だ!」という“観念”を植え付けたとしたらどうでしょう。
「自分にできるわけがない」、「どうせダメに決まってる」。
こういう前提からスタートすれば、挑戦していれば成功していたかもしれない場面でも、行動が出来なくなってしまいます。
「自分には地味な服装がふさわしい」と思っている人が、自然と地味な服装を選んでしまうのと同じように、「自分はダメだ」だと思っている人は、自然とダメな結果に結びつく選択(「何もしない」ことも、「何もしない」という選択をしているということ)をしてしまうのです。
逆に、「自分には出来る」と思っている人は、何のためらいもなく、行動を起こすことが出来るでしょう。
まあ、これは、考えるまでもなく当たり前のことですね?
ところで、「自分はダメな人間だ」という“観念”を信じることの恐ろしさは、行動が出来なくなることだけではありません。
例えば、「自分はダメな人間だ」と信じることに付随して、「こんなダメな自分に、良いチャンスがやってくるわけがない」と信じていたとします。
すると、本当に、チャンスがやって来なくなってしまうのです。
もう少し正確に言うと、チャンスが目の前にやって来たとしても、そのチャンスに気づくことができなくなってしまうのです。
運が逃げて行ってしまうのですね。
ウソだと思うなら、是非、次の参考記事で紹介している「注意力テスト」を受けてみてください。
きっと、結果に驚くことになると思います。
【 参考記事 】
これは、目の前にチャンスが落ちているにもかかわらず、そのチャンスに目を向けずに、「どうせ自分には……」とふてくされているような状態ですから、もったいないとしか言いようがありません。それとは逆に、「自分はチャンスに恵まれているのだ」という“観念”を信じている人であれば、一見失敗に見えることですら、チャンスに変えてしまうことが出来ます。
【 参考記事 】
※1 実際には、一方的に、“観念”が現実世界を動かすプログラムとして作用するのではなく、現実世界での体験が“観念”のプログラムを書き換える方向の作用も存在していると私は考えています。
とは言っても、それは、“観念”が現実世界を動かすプログラムとしての力を否定するものではありません。
参考:『引き寄せの法則』 は、本当に正しい!?―『“観念”と“現実”の法則』 としてモデル化してみた。
とは言っても、それは、“観念”が現実世界を動かすプログラムとしての力を否定するものではありません。
参考:『引き寄せの法則』 は、本当に正しい!?―『“観念”と“現実”の法則』 としてモデル化してみた。
“観念”は、まるで生き物!? ― 思い込みから抜け出せないメカニズム
いかがでしょうか?ここまでの説明を読むだけでも、“観念”のプログラムが、人生にどれだけ大きな影響を与えているのかが理解できると思います。
服を買うような日常の1コマから、人生を変えてしまうような大きなチャンスとの出会いに至るまで、私たちは、“観念”のプログラムによって、影から操られているのです。
しかし、“観念”のプログラムが私たちの人生にとって重要なのは、その作用の大きさだけではありません。
それは、一度プログラミングされた“観念”は、一度きりだけではなく、継続的にはたらき続けるということです。
“観念”には、まるで生物のような「自己保存」のメカニズムが備わっているのです。
どういうことかと言えば、一度、ある“観念”を受け入れてしまうと、その“観念”を信じ続けさせようとする力がはたらくということです。
つまり、一度、「自分はダメな人間だ」と信じてしまうと、なかなかその思い込みから抜け出せなくなってしまうということです。
そのメカニズムを、簡単に説明しましょう。
例えば、「自分はダメな人間だ」と信じている人は、「自分がダメな人間だという証拠」ばかりを見つけるようになります。
これは、先ほど紹介した「カクテルパーティー効果」によって説明することができます。
【 参考記事 】
もし、運よく「本当は、自分にもこんないいところがあった」という証拠が見つかったとしても、「でも、そんなこと大したことないし」と過小評価してしまったりします。
人間には、自分の“観念”に沿った方向にバイアスをかけて、ものごとを認識する傾向があるのです。
【 参考記事 】
さらに、「人間は感情で決めて、理屈で正当化する生き物である」という言葉があるように、一度、「自分は無価値だ」という結論を決めてしまえば、それを正当化する理屈など、いくらでもつくり出すことができます。
自分で好きな前提を決めてしまえば、論理的に、好きな結論を導くことが出来るからです。
【 参考記事 】
もちろん、それは他人から見れば違和感のある理屈かもしれませんが、本人の中では整合性のある論理体系として構築することができるのです。さらに、“観念”には、感情や行動を通して固定化されていく傾向もあります。
例えば、「自分はダメな人間だ」という“観念”を信じるから、事あるごとに「自分はダメなんだ」と感じる。
「自分はダメなんだ」と感じるから、「やっぱり、自分はダメな人間に違いない」と、さらに“観念”を強化するというようなスパイラルです。
【 参考記事 】
このように見てみると、一度、“観念”のプログラムが動き始めるとロックがかかってしまい、簡単にはプログラムを書き換えられなくなってしまうということがわかります。
そう。
“観念”のプログラムは、私たちの人生を影から操っているだけでなく、そのプログラムが容易には書き換えられないように出来ているのです。
だから、幼少期の体験によってつくられた“観念”のプログラムが、その人の一生を左右し、生涯にわたって影響を与え続けるということも普通にあり得ることなのです。
とは言っても、私たちに影響を与えているプログラムはたった1つではありません。
普通の人は、数え切れないほどの数のプログラムを並列処理で回していることでしょう。
だから、時には、自分の中に矛盾する“観念”のプログラムが存在することもよくあります。
例えば、人前でちょっと面白いミスをして笑われてしまった時、「恥ずかしい」という気持ちと、「注目を受けてうれしい」という気持ちが同居しているような場合があるでしょう。
これは、この人の中に「笑われることは、恥ずかしいことだ」という“観念”と、「笑われることは、おいしいことだ」という“観念”が同居しているということでしょう。
こういう状態を考えるためには、数学の時間にやったベクトル(矢印)の計算が参考になると思います。
(画像をクリックで拡大できます)
「笑われること」をポジティブにとらえる方向性の“観念”と、ネガティブにとらえる方向性の“観念”の強さのバランスで、総合的な“観念”の作用がかわってくるのですね。
このように考えると、私たちの中では、たくさんの“観念”のプログラムがせめぎ合いをしながら、私たちの人生に影響を与えているのだと考えることができます。
“観念”のプログラムは、社会や歴史をも動かす
ここまでお読みいただければ、私たちの人生が、いかに“観念”の力の影響をうけているのかを納得していただけると思います。では、“観念”の力が影響を与えるのは、私たち一人ひとりの人生についてだけなのでしょうか?
もちろん、そんなことはありません。
実は、“観念”のプログラムは、私たちが暮らしている社会を動かしてしまうほどの力も持っているのです。
人が集まってできる集団(社会)を思い浮かべてみてください。
学校でも、職場でも、はたまた国や民族でも構いません。
例えば、同じ「学校という社会」でも、ある学校と別の学校では、全然、雰囲気が違うことってありますよね?
一言で言えば、「校風」です。
学校以外にも、会社であれば「社風」、国であれば「お国柄」「国民性」という言葉があるように、これは会社組織や国についても同じことが言えます。
では、その「社風」や「校風」をつくりだしているものは、いったい何なのでしょうか?
私は、ここでも“観念”が大きな役割を果たしていると思っています。
例えば、「常識」という言葉があります。
「常識」というのは、その集団の人々のほとんどが受け入れている“観念”だと考えることができるでしょう。
例えば、現代の日本人であれば、ほとんどの人が「人の命を弄ぶことは悪いことだ」という“観念”を持っています。
このように、一人ひとりの個人が“観念”を持っているのと同じように、人が集まってつくりだされた集団についても、その集団全体で共有する“観念”が存在すると考えられます[※2]。
もちろん、一人ひとりが持っている“観念”の方向性は微妙にバラついているということもあるでしょうし、中には正反対の“観念”を持つ人もいるでしょう。
一人の個人の中ですら、笑われることを「恥ずかしい」と捉える“観念”と、「おいしい」ととらえる“観念”が同居していたりするのですから、それが集団ともなれば、色々な“観念”が入り乱れるのは当然です。
しかし、それらのベクトルを全て足し合わせ、最大公約数的な答えを導けば、その集団が全体として受け入れている“観念”が浮き彫りになると考えられます。
毎回こんな長い説明を書くのは面倒なので、以降は、この「集団が全体として共有している“観念”」のことも、単に“観念”と呼ぶことにしましょう。
このような、集団が受け入れている“観念”は、その集団に大きな影響を与えます。
ある人が受け入れた“観念”が、その人の人生に大きな影響を与えるのと同じようにです。
例えば、「約束した時間を守るのは大切なことだ」という“観念”を持った集団と、「数時間の遅れなんて、遅刻とは言えない」という“観念”を持った集団がつくりだす“場の空気感”は、まったく違ったものになるでしょう。
このような“観念”が国レベルで共有されていれば、その“観念”が「国民性」や「お国柄」に反映されるでしょう。
あるいは、「都会」や「華やかさ」などを大切にする価値“観”を持った人が集まりやすい大学と、「堅実さ」を大切にする価値“観”を持った人が集まりやすい大学では、その校風も変わってくるでしょう。
これも、価値“観”という“観念”が、その集団がつくる空気に影響を与えている例です。
ところで、個人レベルについて考えてみた時に、一度受け入れられた“観念”には、その“観念”を維持し続ける力がはたらくことはすでに説明しました。
これは、集団レベルになっても同じことが言えるのでしょうか?
私は、集団が受け入れた“観念”についても、同じような力がはたらくと考えています。
その力は、例えば、「理不尽なルール」ですら固定化してしまうほどの力を秘めています。
【 参考記事 】
また、集団の“観念”が影響を及ぼすのは、「校風」や「国民性」といったような雰囲気や、「特定の会社に存在するちょっとしたルールや伝統」だけに止まりません。
“観念”のプログラムは、私たちの社会の根本にかかわるような仕組みにまで大きな影響を与えています。
例えば、私たちが暮らしている「資本主義経済」が成立するためには、「資本主義の“観念”」が必要不可欠だという指摘があります。
【 参考記事 】
さらには、「命の次に大切なもの」とまで言われることもある「お金」だって、“観念”の力がなければ存在できません。
知っている人にとっては常識レベルの事実ではありますが、「お金に価値がある」という“観念”は幻想でしかありません。
その幻想を、みんなで信じることによってはじめて、「お金」は「本当に価値がある存在」として創造されるのです。
【 参考記事 】
このように、“観念”は私たちの社会の基本的な仕組みまでつくりだす力を持っているのですね。
そう。
まさに、“観念”は社会を動かすプログラムとして機能しているのです。
※2 このように書くと、「人の命を弄ぶことは悪いことだ」などということは、現代の日本人にとっての常識などではなく、人類に共通する普遍的な真理なのでは?という意見もあるかもしれません。
しかし、決してそんなことはありません。
例えば、映画「グラディエーター」の舞台となったことなどで有名な、古代ローマの闘技場では、人間同士の殺し合いをショーとして楽しんでいました。
一部の人たちの特殊な趣味というわけではなく、多くの民衆が熱狂したと言います。
しかし、決してそんなことはありません。
例えば、映画「グラディエーター」の舞台となったことなどで有名な、古代ローマの闘技場では、人間同士の殺し合いをショーとして楽しんでいました。
一部の人たちの特殊な趣味というわけではなく、多くの民衆が熱狂したと言います。
【 参考記事 】
ということは、私たちのとっては当たり前に思える「人の命を弄ぶことは悪いことだ」という常識(“観念”)も、決して普遍的な真理などではなく、「特定の時代」の「特定の社会」でしか受け入れられていない常識なのです。“観念”のプログラムは、私たちの「敵」なのか?「味方」なのか?
色々と書いてきましたが、これまでの説明を読むと、もしかしたら、“観念”のプログラムに対してネガティブなイメージを持たれたかもしれません。たしかに、ここまでの説明を読んでみると、“観念”はまるで「私たちを影から操る支配者」のようにも見えてしまいます。。
そして、このイメージは、必ずしも間違ってはいません。
一面では、それも真実だと思います。
しかし、“観念”のプログラムにはネガティブな側面しか存在しないのかといえば、そんなことはありません。
もし、“観念”のプログラムの作用が消えてなくなってしまったとしたら、私たちは、まともに生きることもできなくなってしまうのです。
例えば、「笑われることは恥ずかしいことだ」という“観念”も、「笑われることはおいしいことだ」という“観念”もなくなってしまえば、私たちは、笑われたとしても何も感じない「無感情人間」になってしまうでしょう。
ある種、「悟りを啓く」ことが出来るかもしれませんが、そんな人生は楽しそうには思えません。
いや、それどころか、もし“観念”の作用がなくなってしまったら、文字を読むことすら出来なくなってしまうでしょう。
【 参考記事 】
“観念”が、まるで生命体であるかのように「自己保存」する作用だって、同じことです。
この作用がなければ、例えば、今日は「どんなことでも前向きにとらえるスーパーポジティブ人間」が、次の日には「何でも後ろ向きに捉える超ネガティブ人間」になってしまうかもしれません。
こんなにコロコロと“観念”が変わってしまっては、私たちの人格が破綻してしまいます。
社会についても、同じことです。
今日の日本は「自由資本主義社会の“観念”」が主流だったと思ったら、次の日の朝には「狩猟採集社会の“観念”」が主流になり、その日の昼ごろには「封建社会の“観念”」が勢いづいたりしたとしたら、もはや社会はグチャグチャの混乱状態です。
このように考えると、“観念”のプログラムの作用が、私たちにとって必要不可欠な作用だということがわかると思います。
コンピュータのプログラムと同じように、“観念”のプログラムも一種の「仕組み」であり、「システム」です。
別に、“観念”のプログラム自体が「悪」なのではなく、「悪を生み出す仕組み、システム」が「悪い結果」をもたらすだけなのです。
それは、良い方向に使っているときには便利なコンピュータのプログラムも、コンピュータウイルスのようなプログラムになれば大きな被害をもたらすのと同じことです。
だから、「良いプログラム」を走らせることができれば、“観念”のプログラムは、私たちに大きな恩恵をもたらしてくれるでしょう。
私たちに“自由意志”は与えられているのか?
ところで、ここで1つ疑問があります。これまでに見てきた説明から、“観念”のプログラムが、一人ひとりの人生や、社会を動かす大きな力になっていることはよくわかりました。
そして、個人の場合にも、社会の場合にも、一度動き始めた“観念”のプログラムには、まるで生命体が自己保存をするかのような力がはたらき、現状の“観念”を維持し続けようとする作用があることも納得しました。
さらに、“観念”のプログラム自体は、コンピュータのプログラムと同じような単なる「仕組み」や「システム」であって、「良い、悪い」があるわけではないことも理解しました。
その仕組みやシステムが、どういう結果を生み出す方向に動くのかが、私たちが恩恵を受け取れるのか、それとも迷惑を被るのかの違いをうみだすわけです。
ですが、まだ納得できないことがあります。
それは、私たちの“自由意志”の問題です。
もし、“観念”にそんなに莫大な力があり、しかも、「自己保存」のはたらきまであるのだとしたら、私たちは、ただただ“観念”のプログラムに支配されるだけの存在なのかもしれないという疑問がわいてきます。
私たちは、“観念”のプログラムに操られる「操り人形」に過ぎないのでしょうか?
私たちが暮らす社会も、“観念”のプログラムという台本に沿って上映される、単なる演劇に過ぎないのでしょうか――?
もちろん、そんなことはありません。
たしかに、“観念”の力は莫大です。
しかし、だからと言って、私たちを支配することはできません。
だって、考えてもみてください。
“観念”が「プログラム」だということは、その「プログラム」をつくる「プログラマー」がどこかに存在するということです。
もし、過去に一度たりとも「プログラミング」が行われたことがなければ、“観念”のプログラムは存在しないはずです。
つまり、“観念”は絶対的な支配者などではなく、さらに上位の存在として「プログラマー」が存在するということです。
だから、“観念”のプログラムがよい結果をもたらすのか、悪い結果をもたらすのかは、結局は、プログラマーの“意図”と“能力”次第ということになります。
もし、プログラマーが悪意を持ってプログラムを書けば、そのプログラムは悪い結果をもたらすでしょう。
あるいは、良い結果を意図していたとしても、プログラマーとしての能力が未熟であれば、結果として悪いプログラムをつくってしまったり、プログラムをつくることが出来ないこともあるはずです。
書き換えたいと思うプログラムも、「自己保存」の力が強すぎて書き換えられないことも往々にしてあるでしょう。
その“観念”が、私たちにとってあまりにも当たり前になりすぎているために、その“観念”の存在に気付くことすらできず、ましてや書き換えることなど出来ないという場合もあるでしょう。(「魚は水を発見できない」のです)
もっと言ってしまえば、ここまでは便宜上、「良いプログラム」とか「悪いプログラム」という言葉を使ってきましたが、本来、「絶対的な善」や「絶対的な悪」というものは存在しません。
「善」も「悪」も、相対的なものでしかないのです。
ある時代のある人たちにとっては「良い行い」が、別の時代の別の人々にとっては「信じられないような悪い行い」に映るということが普通にあり得るのです。
では、いったい何が「善」を「善」として存在させ、「悪」を「悪」として存在させるのかと言えば、それが“観念(善悪観)”の力です。
私たちは、自分の善悪“観”に「善」と書かれていることを「善」と認識し、「悪」と書かれていることを「悪」と認識するのです。
【 参考記事 】
そして、この善悪“観”のような“観念”を書きかえることこそが、「“観念”のプログラマー」に与えられた権能なのです。
例えば、これまでは「ツラくても仕事を頑張らないのは悪いことだ」という“観念”を持っていた人が、その“観念”を手放し、「限界まで身を削ってまで働くのは悪いことだ」という“観念”を新しく受け入れることを決めたとしたら、それが「プログラマー」としての能力を発揮したということです。
別に、どちらの考え方が「正しい」とか、「間違っている」という話ではありません。
「何が正しくて、何が間違っているのか」を決めるのが「プログラマー」の仕事なのです。
何が言いたいのかといえば、私たちが「プログラマー」となることができれば、私たちは“自由意志”を発揮することが出来る存在になれるということです。
私たちは、“観念のプログラム”を上手く利用して、“自由意志”を効率的に現実にしていくことができます。
逆に、自らが「プログラミング」をする能力を失えば、最悪の場合、“観念の奴隷”になってしまうこともあり得ます。
“観念の奴隷”をつくらないために注意すべきこと
だから、どうしても、ここで書いておきたい注意点があります。“観念の奴隷”にならないための、そして誰かを“観念の奴隷”にしてしまわないための注意点です。
「何が正しくて、何が間違っているのか」を決めるのは、それぞれの「プログラマー」の自由ですので、私が、誰かの決定に口をはさむことをするつもりはありません。
ただ、もし皆が「私はこれが正しいと決めたから、これに従え!」、「いや、私はこれを正解と決めたいんだ!!」と言い始めると、終わらない争いが始まることになります。
もちろん、それが健全な議論になることもあるでしょう。
だから、そういった対立が必要な場面もあるはずですし、必ずしも、それを否定したいとは思いません。
しかし、それがエスカレートすれば、「永遠の対立」か「強者による“観念”の支配」が待っています。
(詳しくは、いずれ「秩序」のレベルについての記事を書く予定ですので、それを読んでいただければよくわかると思います。)
「永遠の対立」はわかると思いますが、「強者による“観念”の支配」については説明が必要でしょう。
これも文字通りの意味ではあるのですが、「“観念”の操作に長けた強者が、人々や社会の“観念”を操作する」という意味です。
例えばそれは、洗脳によって“観念”を植え付けることかもしれませんし、マスコミを支配して社会の常識という“観念”を操作することかもしれません。あるいは、学校で子供たちに「特定の“観念”」を信じ込むように教育を施すことかもしれません。
もちろん、夫が妻に自分の価値観を強制することも含まれます。上司と部下、親と子でも同じことです。
もし万が一、それが成功したら、“観念”を操作された人々の人生は、知らず知らずのうちに、“観念”を操作した人に操られているということになってしまいます。
言い方を変えれば、自分の“観念”をプログラミングするプログラマーとしての能力を明け渡してしまったということです。
場合によっては、「強者」の一存で、社会の“観念”を書きかえることで、影から歴史を動かすことだって、原理的には出来てしまいます。
もちろん、「“観念”を操作してやろう」と意図した誰かが存在していなくても、例えば、「常識だから」というだけで、無条件に何かしらの“観念”を受け入れているような場合には、同じことが起こります。
あえて過激な言い方をすれば、プログラマーとしての権能を放棄した、“観念の奴隷”状態になってしまっているのです[※3]。
私には、それはが望ましい状態だとは思えません[※4]。
だから私は、「自分の正解を自分で決めること」については何の問題もないと思っていますが、「他人にまで、自分の正解を強制すること」は避けた方が良いと思っています。
私が記事を書く時には、(それがどこまで成功しているかは別として)できるだけ、このことを心がけています。
「こういう正解を選ぶという選択肢もありますよ?」と提案はするけれども、「これ以外の正解は認めません」というスタンスにならないように気をつけているのです。
私は、“和楽の道”での活動を通して、その考えに共感してくれる人を増やし、“和楽の観念”を普及させたいと考えています。
そして、“和楽の観念”に共感してくれた人々の中から、自然と“和楽のプログラム”が起動し始め、やがて世界を変えていくことを夢見ています。
別に、“和楽”の考え方を世界標準にしてやろうなどとは考えていません。
私は、「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」が、互いに矛盾せずに、お互いの足りない部分をサポートしあうように存在しているのと同じように、“和楽のプログラム”も、“これまでの世界のプログラム”と矛盾なく同居できると考えています。
【 参考記事 】
だから、別に世界中のすべての人に、“和楽”の考え方に共感して欲しいとは思っていません。
自然と共感してしまう方だけに、共感していただければよいと思っています。
だから、“和楽の観念”が普及していくプロセスは、強制的なものであってはなりません。
それは、“和楽”の考え方に反するからです。
【 「“和楽”の考え方」についての参考記事 】
- 和をもって楽となし、楽をもって和となす。いまそれぞれの、その道を行こう。
- 地球と人類とあなた自身のために、今あなたに出来ること
- なぜ、人生は“楽”しく、世界は平“和”なのか?
- 和と我―大切なのはどっち?天使と悪魔の分かれ道
- ソニー神話から導く、あなたの神話のつくり方―井深大さんのマネジメントと和楽の空間
それが、私の決めた「正解」であり、“和楽の道”は、“和楽の観念”に共感してくれた方に対しての『一緒にその「正解」を選びませんか?』という提案なのです。
“和楽の道”は、共通のビジョンのもとに集った、自由参加型のオープンソースプロジェクトでありたいと思っています。
少し話が飛んでしまいましたが、“観念の奴隷”にならないため、そして、誰かを“観念の奴隷”にしてしまわないためには、このようなことを心がける必要があると思います。
今回の記事で扱った“観念のプログラム”については、今後も、記事にしていきたいと思っています。
※3 必ずしも、「常識」というものを否定したいわけではありません。自分の“自由意志”で、その「常識」を受け入れることを決めたなら、それは立派な「“観念”のプログラマー」としての在り方です。問題なのは、それが「常識」だからという理由だけで、無条件に、“観念”を受け入れてしまうことです。
※4 私は、そのような答えを正解として選ぶことを決めたというだけのことで、当然のことながら、あなたが別の正解を選ぶことを否定するつもりはありません。
※4 私は、そのような答えを正解として選ぶことを決めたというだけのことで、当然のことながら、あなたが別の正解を選ぶことを否定するつもりはありません。
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