私の会社の「変なルール」― 私たちを縛る“枠”は、いかにしてつくられるのか?
「えっ!?持ってこなかったの?」
課長の驚きと呆れの入り混じった声が聞こえてきた。
あなたは今、職場の先輩たちを前に、呆然と立ち尽くしている。
今日は、あなたが社会人としての最初の一歩を踏み出し始めた初出社の日。
朝からずっと緊張しながら周りに気を使い続け、少し疲れを感じ始めていたときに、ちょうど迎えた休憩時間のことだった。
「やっと、一息つける」とトイレに行った後、自動販売機でミルクティーを買って、席のあるエリアに戻ってくると……。
職場の先輩たちは、皆、休憩スペースに集まっていた。
あなたは、ずっと緊張しっぱなしだったので、少し一人でリラックスしたい気分ではあったが、この雰囲気では、一人で席に戻るわけにもいかない。
(なんて声をかけて入るのが自然かな……?)
そんなことを考えながら、先輩たちの輪に近づいて行くが、何か様子がおかしい。
先輩たちは、皆一様に、あなたのことを見つめている。心なしか、先輩たちの表情には苛立ちの雰囲気が感じられる。
(なんかマズイことしちゃったかなぁ。怒られたら嫌だなぁ~。)
あなたは、恐る恐る、声をかけた。
「あの、すいません。私もご一緒させてもらってもいいですか……?」
「もちろんだよ。」
課長は、そう言った。
文字にしてしまえば、歓迎の言葉だが、その声色からはやはり苛立ちが読み取れる。
「明日からは、時間通りに来るようにね。」
課長は、そう続けた。
(えっ?休憩時間なのに、ここに集合しなきゃいけないの?でも、まぁ、初日から嫌われるわけにもいかないし、ここは謝っておこう。)
「すいませんでした。休憩時間に、ここに集まるなんて知らなかったもので……。明日からは気をつけます。」
「まぁいいや。じゃあ、お菓子出して。」
「お菓子……、ですか。ミルクティーなら、今ちょうど買ってきたところなんですけど……。」
「えっ!?持ってこなかったの?」
課長の驚きと呆れの入り混じった声が聞こえてきた。
その表情には、「初出社の新人が、先輩たちへの挨拶のお菓子も持ってこないなんて信じられない」とでも書いてあるようだった。
釈明の言葉を口にしようとしたあなたを遮るようにして、優しそうな先輩が口を開いた。
「まあまあ、課長。新人なんだから知らなくても仕方ないですよ。この会社では常識でも、世間では常識というわけでもないですから。」
課長をなだめたかと思うと、今度は、あなたに向かって説明を始めた。
「明日からは、みんなの分のお菓子を持ってくるようにしてね。慣れるまでは違和感を感じるかもしれないけど、各自がお菓子を持ち寄って、それを休憩時間に分け合って食べるのが、この会社の伝統だから。」
なんでも、この会社の創業期は、まだまだ世の中全体が貧しく、従業員同士がお互いに食べ物を持ち寄って助け合っていたらしい。
そんな文化がきっかけとなって、この制度の始まったのだった。
後に、もう少し詳しく聞いた話では、創業期の従業員たちは、皆仲が良く、それこそ家族のような雰囲気で助け合っていたらしい。
しかし、世の中が豊かになってくると、次第に食べ物に困るようなこともなくなり、この助け合いも、自然消滅的になくなっていったということだった。
そんな時、当時の重役の一人が「せっかくの良い文化が失われるのは、もったいない!」と、休憩時間にお菓子を持ち寄る決まりをつくったということだった。
しかし、そんな重役の思いとは裏腹に、ちょうどこの頃から、従業員同士の家族のような親密さは失われ、ギスギスした空気が生まれ始めてしまったのだと言う……。
(古臭くて、めんどくさいルールだなぁ……。お菓子なんて、自分が食べたいのを、自分で選んで買った方がいいに決まってるのに。)
あなたの正直な感想は、こうだった。
しかし、心の中ではそう思っても、「郷に入りては、郷に従え」。
入社して早々に上司から目を付けられるわけにもいかない。
あなたは、その次の日から、渋々ながらもお菓子を持っていくことにした。
それにしても、このお菓子の持ち寄り制度。
いざ始めてみると、なかなか奥が深い。
クッキーのような甘いお菓子ばかりを持ってくる人もいれば、お煎餅のような塩味のお菓子ばかりを持ってくる人もいる。
毎日、同じようなお菓子を持ってくる人に、色んなバリエーションのお菓子を持ってくる人。
したたかに課長好みのお菓子をチョイスする人がいれば、ひたすら自分が食べたいものを持ってくる人もいる。
職場の人間関係の縮図のようで、観察していると、なかなか面白い。
最初は、種類、分量、値段と色々と悩んでいたあなたも、数カ月の時間がたつうちに、あなたなりの落ち着くポジションを見つけ、面倒だった「決まり」も、慣れてしまえば当たり前の日常の一部に溶け込んでいった。
事件が起きたのは、あなたが入社してからちょうど1年後。次の新人があなたの職場に入ってきた時のことだった。
あなたの次に入ってきた新人も、当然のことながら、初日にお菓子は持ってこなかった。
もちろん、それは仕方がない。
なんと言っても、あなた自身も、自分が初出社の日にはお菓子など持ってきていなかったのだから。
こんなルールがあるのなら、入社前に人事部門から案内しておけばいいのにとは思いそうなものではあるが、人事部の上のほうの人の考えでは、「そのくらいのことは自主的に出来ていてほしい」のだそうだ。
職場二年生のあなたは、教育係として、新人にお菓子持ち寄り制度を説明することになった。
あなたの説明を聞く新人の顔には、「そんな面倒なことをするの?」という困惑の表情が浮かんでいる。
これも、まあ、仕方がない。
あなただって、面倒に思っていたわけだし、きっと1年前には同じような表情を浮かべていたはずだ。
あなたは、気を取り直して、説明を続けます。
「最初は、面倒に感じるかもしれないけど、慣れれば普通になるよ。手間だとは思うけど、明日からよろしくね。」
「ハイ……。わかりました。」
翌日、その新人は、約束通り、ちゃんとお菓子を持ってきた。
まあ、値段が「相場」より少し高めで、周りに気を使わせてしまいそうなお菓子ではあったが、最初だから気を使ったのだろう。
あまり金銭的負担が大きくなってしまうのは本人の為にもよくないし、あなたは、後でこっそりと相場を教えてあげた。
その翌日、さらにその翌日と、だんだんと慣れてきているようだったので、あなたも少し安心してきたときのことだった。
事件が起きたのは、週が明けた月曜日。
なんと、その新人がお菓子を持ってくるのを忘れてしまったのだった。
聞けば、週末にリラックスし過ぎてしまい、つい忘れてしまったとのことだった。
あなたは自分の心に、一瞬、イラっとした感情が浮かんできたことに気付いたが、グッとこらえて、教育係として皆に謝罪した。
驚いたのは、課長が、「この会社で長く続く伝統で、社長もとても大切にしている。二度と忘れないように!」と想像以上に怒っていたことだった。
後で知った話では、この「お菓子タイム」の運営状況が、課の運営状態の指標として使われているらしく、「お菓子タイム」の出来が、課長の評価にも響いてくるらしいということだった。
新人も、しっかりと反省したようで、次の日には「昨日の分と、今日の分です。」と、いつもの二倍のお菓子を持ってきていた。
そして、その週は、忘れることなくしっかりとお菓子を持ってきていた。
それにしても、自分でもちょっと気になったのは、お菓子を忘れてきた新人に、ほんの少しでも怒りの感情がわいたことだった。
自分が新人の時には、このルールを面倒に感じて、いつも「お菓子なんて持ってくる必要ないのに」と思っていた。
にもかかわらず、いざ本当にお菓子を持ってこない人を目の前にすると、怒りの感情がわいてきてしまったのだった。
それは、まるで、自分が「お菓子持ち寄り制度」の“守護者”にでもなったような心境だった。
「まあ、でも、これがルールだし……。」
あなたは、自分にそう言い聞かせて、そのことについてはあまり深く考えずに、気持ちを切り替えて仕事に取り組むことにした。
そうして時が経ち、その次の週が明けた月曜日――。
「また忘れたのかっ!?」
課長の声が響いている。
「反省文を提出するようにっ!それから、再発防止のための対策会議をするぞ!!」
あろうことか、また、お菓子を忘れてしまったということだった。
2週連続のお菓子忘れに、課長は怒り爆発で、「対策会議をする」とまで言っている。
あなたも、2週連続のお菓子忘れには、さすがに腹が立ってきたし、同時に、呆れる気持ちもわいてきた。
その対策会議では、まず、どうして2週連続で忘れてしまったのかの原因追求から始まった。
「なんで忘れたの?」
誰もが本音では、「すっかり忘れていただけだろう」と思っていた。
しかし、形式上は、一応、忘れた理由の聞き取りから始まった。
新人は、「すっかり忘れていました。」などとはとても言えない雰囲気に負けて、「用意していたのですが、満員電車で押されるうちに、どこかに行ってしまいました。」と苦しい言い訳をしていた。
肝心の再発防止策は、次のようなものになった。
(そんな対策なら、わざわざ原因追究なんてしなくても思いついたのでは……?)
そんな言葉が、ふと頭をよぎったが、もちろん、そんなことは口に出来ない。
今は、そんなことよりも、この会議の後に、新人に何と声をかけるのが正解なのか、そして、ただでさえ溜まってしまっている上に、この会議でさらに遅れてしまった仕事をどうやって片付けるかだ。
そんなあなたの心境を知ってか知らずか、別の人が話し始めた。
「あの……。せっかくの機会なので、私もひとつ、いいですか?実は、前から思ってたんですけど、休暇を取ったときのお菓子の扱いが平等じゃないと思うんですよ。現状では……」
なんと、新しい議題を提案する人が現れたのだった。
すると、それに呼応するように、「実は、私も思ってたのですが……」と、次々と新しい議題を提案する人が現れ始めた。
30分もかからずに終わると思っていた会議は、結局、2時間を超える長丁場になってしまった。
ようやく会議が終わり、立ち上がったあなたのもとへ係長がやってきて、声をかけてきた。
「さっきの、17:30にお菓子を集める話だけど……。」
「はい、何でしょうか?」
「翌日のお菓子を忘れないように前日に集めることになったけど、17:30の時点でも、忘れてる人がいたら、課長が激怒すると思うんだ。ウチの係のメンバーが事の発端だから、なおさらね。」
「たしかに……。そうかもしれませんね。」
どうも、嫌な予感がしてきた。
「そこで、お願いがあるんだけど、チェックシートをつくって、朝の時点で皆がお菓子を忘れていないか確認してくれないかな?それで、忘れてる人がいたら、昼休みのうちに買ってくるように伝えてもらいたいんだけど。」
(そこまで、やりますか……。)
そう思いながらも、あなたの口は、「ハイ、わかりました」と答えていた……。
※ 当然のことながら、この物語はフィクションです。
今回の記事も、なんとも息苦しい物語から始まりました。
この物語を通してお伝えしたかったことは、2つあります。
まず1つ目は、“取り繕った和”や“外発的動機付けによる管理”の問題点についてです。
このことについては、これまでにも何度も記事を書いてきましたので、この記事では詳しくは触れません。
近いうちに、秩序の4つのレベルについて解説した記事を公開する予定ですので、そちらをご覧いただければ、わかりやすいと思います。
( ▶ 連載を開始しました。「秩序1.0 ― 弱肉強食」からスタートして4つのレベルの秩序について解説していく予定です。 )
そして2つ目である今回の記事メインテーマは、ルールや制度の自己強化性についてです。
どういうことかと言えば、一度、ルールや決まりが出来て、それを皆が受け入れると、そのルールはどんどん自己強化をしていくということです。
そのルールが、まるで命を持った生き物であるかのように、自己保存をし、恒常性(ホメオスタシス)を持っているように振る舞うのです。
もう少し詳しく、説明していきましょう。
当時は、従業員同士が、まるで家族のような助け合いの精神で支え合っていました。
その助け合いの精神を象徴していたのが、「食べ物の持ち寄り」による支え合いです。
おそらく、自宅で育てた野菜や、裏山で取れたタケノコ、田舎から送られてきたミカンなどを、皆が持ち寄っては、お互いに譲り合って食べていたのでしょう。
しかし、そんな食べ物の持ち寄りも、社会全体が豊かになり、誰もが食べ物に困らなくなってくると、自然消滅的に解消されてしましました。
その様子を見ていた会社の重役が、「このままでは、我が社の良い雰囲気が失われてしまう」と心配して新たに定めたルールが、「お菓子の持ち寄りのルール」です。
ここで、1つ気付いていただきたいことがあります。
それは、そのルールが出来るまでの間は、食べ物の持ち寄りは善意で行われていたということです。
しかし、この「ルール化・制度化」を境に、お菓子を持ってくることは義務となり、お菓子を持ってこないことは罪となってしまったのです。
言い方を変えれば、新しいルールが出来たことによって、これまでは罪ではなかったことが、新しい罪として創造されたと言うことができるでしょう。
この「罪の創造」については、「罪悪感は癒せるのか?」というテーマで別の記事に書いていますので、興味があればご覧ください。
また、このように自然発生的に生まれた文化が、義務感(外からの強制)をともなうルールに変わるとき、その場をつつむ雰囲気は、人間的な信頼や思いやりの空間から、機械的な契約のような空間に変質してしまう傾向があります。
温かい人間関係が、ギスギスした関係に変わってしまうのです。
例えば、上の物語の主人公は、最初、そのルールの存在を知って、面倒に感じていました。
それはそうでしょう。
現代社会の一般的な感覚では、「会社にはお菓子を持ち寄るのは当然だ」という感覚を持っている人は少ないと思います。
(中には、本当に、そのようなルールがある会社も存在するかもしれませんが……。)
ですから、もし、職場の同僚のためにお菓子を持ってきてくれる人が居たとしたら、「わざわざ、ありがとう。気がきくね。」という反応が一般的かと思います。
逆に、お菓子を持ってこない人がいたとしても、それが普通なので、そのことに腹が立つこともないはずです。
物語の主人公も、最初はそのような感覚を持っていたので、この会社のルールに戸惑っていました。
しかし、1年の月日が流れ、そのルールが当たり前になるくらい慣れ親しんでしまうと、すこし、様子が変わってきます。
なんと、自分が新人の頃には「なんで、お菓子なんて持ってこなきゃいけないんだろう?」と疑問に感じていたこの物語の主人公が、お菓子を忘れてしまった新人に怒りの感情を抱いていたのです。
つまり、「お菓子を持ち寄るルール」の中で過ごしているうちに、主人公は、いつのまにか「お菓子を持ち寄るルール」の守護者に変身していたのです。
物語の中では、主人公は「これは、お菓子を持ってこなかったことではなくて、ルールを破ったことに怒っているのだ」と自分を納得させていました。
つまり、「私は、あくまでもルールを破ったことに対して怒っているのであって、別に、お菓子持ち寄り制度に賛成しているわけではないんだ!」と自己説得しているわけですね。
しかし、本当に「ルール」を破ったという理由だけで怒っていたのでしょうか?
例えば、「お菓子の持ち寄り制度」が、明文化されたルールではないけれど、職場の皆が参加する、職場の常識になっていたとしたらどうでしょう?
周囲との関係を大切にする主人公は、「郷に入りては郷に従え」の精神で、「たとえルールとして決まっているわけではなくても、それがここの常識なら」と一年間、毎日欠かさずお菓子を持ってきていました。
そこに入ってきた新人が、「別に、決まりなわけじゃないから」とお菓子を持ってくる気配を見せなければ、きっと、少しくらいは怒りの感情をもつはずです。
典型的には、「私は頑張って、毎日欠かさずお菓子を持ってきたっているっていうのに、なんでこの人は、悪びれる様子もなく、平気な顔をしてお菓子を持ってこないの!?」という感じでしょうか……?
つまり、主人公が怒りの感情を感じた本当の原因は、決められたルールを破ったからだというわけではないのです。
では、その怒りは、いったいどこからやってくるのでしょうか?
それは、別の記事にも既に書いたように、「思い込み(“観念”)」からやって来ます。(少なくとも、大きく依存しています。)
つまり、その会社での1年間の生活で、「この会社の従業員なら、毎日、会社にお菓子を持ってくるのが当然だ」という常識(“観念”)が出来上がってしまったから、怒りを感じるようになったのです。
その理由を探るなら、例えば、認知的不協和の作用が、その原因(の少なくとも1つ)でしょう。
どういうことかといえば、1年間も、「お菓子持ち寄り制度」のために、時間や、お金、精神力(周囲への気づかいなど)などのエネルギーを注ぎ続けることで、「お菓子持ち寄り制度」にそれだけの価値があるように感じるようになるということです。
なぜならば、もし、「お菓子持ち寄り制度」に参加することにそれだけの価値がないと考えを改めてしまったら、それまでに注ぎこんできたエネルギーが無駄だったということになってしまうからです。
そんな気持ちにはなりたくないので、「お菓子持ち寄り制度」にはそれだけの価値があると思い込もうとする方向の力がはたらくのです。
こうやって書くと単純ですが、この効果は、案外バカにはできません。
何を隠そう、こんな記事を書いている私自身、この認知的不協和の罠にハマって、怒りを感じてしまうことがよくあるのです。
それは私の不徳が致すところに他ならないのではありますが、怒りを感じている時は、その怒りに気を取られてしまって、後になってからこのメカニズムが働いていたことに気付かされれて後悔することが少なくありません。
このメカニズムを知っていてもこれなのですから、このメカニズムを知らない人であれば、罠にはまったまま抜け出せないことも少なくないでしょう。
そんな場合には、「今年の新人はあり得ない!」とか「最近の若い者は!」とイライラし続けることになってしまうのです。
ちなみに、まったく怒りがわかなかったような場合でも、決して、“観念”が何も仕事をしなかったというわけではありません。
例えば、「『自分は自分、人は人』だから、私は別に、お菓子を持ってこない人が居たとしても気にしないよ」という信条(“観念”)を持った人が居たとしましょう。
(頭でそう考えようとしているということではなく、腹の底からそう信じているという状態のことです。)
その人は、たとえ新人がお菓子を持ってこなかったとしても、「『人は人』だから。」と気にする様子はないでしょう。
もちろん、ルールとして決まっているような場合などには、教育係の仕事として指導することはあるかもしれません。
しかしそれは、怒りの感情とは無関係な、単なる教育係の「役割」としての行動なのです。
と言っても、その「役割」を何度も演じているうちに、「行動が、観念をつくりだすプロセス」が発動したりすることもあります。
話がややこしくなって、収拾がつかなくなってしまうので、このくらいにしておきましょう。
ここまで、主人公が、どのようにして「お菓子持ち寄り制度」を大切に思う“観念”を育ててきたのかについて書いてきました。
当然のことながら、その会社に勤めている他のメンバーについても、同じことが起こると考えるのが普通でしょう。
勤続年数が長い分、主人公以上にその“観念”を強く持っている人も多いはずです。
何が言いたいのかというと、それは次のようになります。
最初は仕方なくルールに従っていた主人公が、ふとした瞬間に、まるで自分が「お菓子持ち寄り制度の“守護者”」であるかのような心境になってしまったことに驚いていたことが、それを象徴しています。
体育会系の組織にありがちな理不尽なルールでも、1年もその組織の中で過ごしていれば、それが体に染み付いてしまい、翌年に新しく入って来た人にもそれを強制してしまうことと似ていますね。
ありがちな例で言えば、新人の時は「なんで週末まで、上司の付き合いでゴルフなんかしなきゃいけないんだよ?」と思っていた人が、自分が先輩になったときには、もう「後輩がゴルフに付き合うのは当然」と思い込んでいるような場合です。
そして、毎年4月や5月頃には、「今年の新入りは、ゴルフに誘ったら、『ちょっと用事がありますので』だってさ。俺たちの頃は、ゴルフの日は、朝早く起きて上司の家まで車で迎えに行くのが当たり前だったのに……、信じられないよ!」と話に華を咲かせるわけです。
あるいは、別の記事に書いた「チャーハンの味付けのルール」だって、私たちにとっては滑稽ですが、その世界に生まれ、それが当たり前の環境の中で育っていれば、それが当たり前になってしまいます。
たとえ、「そんなに細かいルール、必要ないんじゃないの?」 と思ったとしても、疑問の声を上げるためには、それなりの勇気が必要です。
「お前は、国民の健康なんて、どうでもいいと言いたいのかっ!?」
「私たちは、いままでずっと、そうやって生きてきたんだから!」
「そういう考え方もあるかもしれませんが、もし何か問題が起こった時に、あなたは責任をとれるんですか?」
などなどと、各方面から叩かれることが予想されるからです。
それとは逆に、いま私たちが生きている、こちら側の世界で、「チャーハンの味付けルール」のようなルールを導入しようなんて提案しようものなら、「何、バカなこと言ってるの?財源は?」と叩かれるわけです。
どちらの世界にも、「それまでの世界のカタチ」を維持し続けようとする力が働いているのですね。
もっと言ってしまえば、幻想にしか過ぎない「お金」という仕組みが、世界を動かすほどの力を持ち続けていることの裏側でも、同じメカニズムが働いています。
長くなってしまうのでこの記事では触れませんが、気になる場合は、次の参考記事を読んでみてください。
もし、ルールや制度が、それ自体を維持し続けようとする「ある種の固さ」を突然失ってしまったら、社会は崩壊してしまうかもしれません。
しかし、その「固さ」のネガティブな面に目を向けると、そこには、人々を縛る“枠”が存在しているという側面もあります。
どういうことかと言えば、「こういう人はOK。こういう人はNG。」という“枠”をつくり、それを固定化してしまうということです。
この記事の例でいえば、「お菓子を持ってくる人はOK。お菓子を持ってこない人はNG。」という境界線が1度出来てしまえば、そこで生きる人々には「お菓子を持ってくる人であれ」というプレッシャーがかかり続けることになります。
その枠は、明文化されたルールに限らず、「当たり前」や「常識」といった仮面をかぶって、私たちを縛りつけてくることもあります。
挙げ始めたら、キリがありません。
それぞれの“枠”についての賛否は置いておくことにして、ここで注目してほしいのは、どの場合にも「人々を“枠”の中に捕え続けようという力」が働いているというという共通点があるということです。
たしかに、現実の世界を見ていても、最初は先進的で珍しかったルールや制度、考え方や規範が、やがて常識となり、人々が互いに縛り合う“枠”として固定されてしまうことは、珍しいことではありません。
ところで、ちょっと考えてみてください。
この“枠”が、誰にとっても役に立つかたちで機能している場合は、なんの問題もないでしょう。
しかし一方で、人々を、不便で窮屈で、気分の悪い“枠”に閉じ込めてしまっていることもあるはずです。
例えば、信号機の「赤は止まれで、青は進んでもよい」というルールであれば、おそらく異論のある人は、ほとんど居ないでしょう。
ほとんどの人が、そのルールの恩恵に与るとともに、そのルールの必要性を感じていると思います。
他にも、例えば、「人を傷つけてはいけない」、「盗んではいけない」というようなルールも同様でしょう。
しかし、それとは逆に、メリットが少なくデメリットだらけになってしまっているルールも少なくありません。
(この「メリット」、「デメリット」も、結局は、その人の“観念”がつくり出している感覚に過ぎないのですが……。)
例えば、別の記事に書いたような「チャーハンの味付けまで細かく決めるようなルール」があったとしたら、うっとうしくて仕方がありません。
もちろん、この記事で書いた「お菓子持ち寄り」のルールも、デメリットが多い“枠”だと感じる人が多いでしょう。
もし、ルールや制度に、それ自体がどんどん自己強化していく性質があるのだとしたら、1度動き始めてしまったルールや制度は、永遠に強化され続け、失われることはないはずです……。
もちろん、実際の世界では、そんな風にならないことは、私たちがよく知っている通りです。
ここに、“枠”に縛られないためのヒントが隠されています。
少し、考えてみましょう。
あるルールを肯定する思い込み(“観念”)は、そのルールや制度を守り維持する方向の力を生み出します。
これは、すでに説明したとおりです。
もしその力から逃れたいとしたら、その力を緩めるか、それよりも強い力で別の方向に向かうなどの方法があるでしょう。
具体的には、どのような場合が考えられるでしょうか?
「新人がゴルフに付き合わない問題」の場合についても、考えてみましょう。
例えば、「たとえ休日であっても、上司の誘いは断らないのが当然」という風潮が原因で、何かしらの世間を騒がせる事件が起こったことしましょう。
それをきっかけに、テレビ番組で有識者と名乗る人たちがが「こういった古い考え方が……」、「欧米では……」等々と、一斉に叩かれたりすれば、風向きが変わるかもしれません。
もし、「それまで通り」を維持しようとする力よりも、「テレビ」、「有識者」、「欧米」などの権威の力が強ければ、そういった風潮を見直す議論が同時多発的に発生するかもしれません。
ここでポイントになるのは、「テレビ」、「有識者」、「欧米」などが正しいかということではなくて、その権威と、私たちが「これまで通り」を維持しようとする力のどちらが強いかです。
その“綱引き”の結果次第で、状況が動くのです。
ただし、この方法は、“綱引き”が発生する都合上、「“綱引き”のデメリット」が発生する可能性があります。
簡単に説明すれば、「ある“観念”」と「別の“観念”」を“綱引き”させるということは、ブレーキを踏みながら、アクセルを踏み込むような状態になってしまうということです。
それは、無駄なガソリンを消費することにもつながりますし、車体に負担もかけるでしょう。ムリな力がかかったことで、様々な場所で、軋轢(あつれき)が起こるかもしれません。
この「“綱引き”のデメリット」については、近いうちに、別の記事にまとめたいと思っています。
なんにしても、“綱引き”の方法論ですと、デメリットが発生する可能性がありますので、出来れば、次に紹介する方法の方がお勧めです。
それは、「ある“観念”」と「別の“観念”」を“綱引き”させるのではなく、不要になった“観念”を消し去る方法です。
少し言い方を変えれば、“枠”を固定し続けようとする力を緩めるということです。
もし、固く重苦しかった“枠”を、柔らかく和らげる(やわらげる)ことが出来れば、その“和”らいだ空間には、もっと“楽(らく)”で、“楽”しい世界(世界観)を構築することができるでしょう。
では、もう少し具体的な例を見てみましょう。
先ほどと同じように、ゴルフの例でも考えてみましょう。
この場合は、何かをきっかけにして、新人を強制しようとしていた先輩が、自分自身で「仕事でもない休日の使い方まで強制するのは、理不尽かもしれないなー」と気付いたような場合ですね。
詳しくは、また別の機会に書きたいと思っていますが、私たちが持っている“観念”というのは、最終的には誰かがつくり出したものだと、私は考えています。
“観念”を“プログラム”の一種だと例えるなら、その“観念(プログラム)”を書いたプログラマーが存在するということです。
ですから、徹底的な観察という方法を使えば、究極的には、どんな“観念”によってつくられた“枠”も取り去ることができるだろうと思います。
そのために有効な方法の1つが、「文章を書くこと」、「“言葉の力”を使うこと」なのですが、それについても、また別の機会に触れたいと思います。
とにかく、今回の記事で、覚えておいていただきたいことは、次の5つです。
詳しいことは、また別の機会に譲ることにして、今回の記事はこれで終わろうと思います。
<初めての方へ : 和楽の道について >課長の驚きと呆れの入り混じった声が聞こえてきた。
あなたは今、職場の先輩たちを前に、呆然と立ち尽くしている。
今日は、あなたが社会人としての最初の一歩を踏み出し始めた初出社の日。
朝からずっと緊張しながら周りに気を使い続け、少し疲れを感じ始めていたときに、ちょうど迎えた休憩時間のことだった。
「やっと、一息つける」とトイレに行った後、自動販売機でミルクティーを買って、席のあるエリアに戻ってくると……。
職場の先輩たちは、皆、休憩スペースに集まっていた。
あなたは、ずっと緊張しっぱなしだったので、少し一人でリラックスしたい気分ではあったが、この雰囲気では、一人で席に戻るわけにもいかない。
(なんて声をかけて入るのが自然かな……?)
そんなことを考えながら、先輩たちの輪に近づいて行くが、何か様子がおかしい。
先輩たちは、皆一様に、あなたのことを見つめている。心なしか、先輩たちの表情には苛立ちの雰囲気が感じられる。
(なんかマズイことしちゃったかなぁ。怒られたら嫌だなぁ~。)
あなたは、恐る恐る、声をかけた。
「あの、すいません。私もご一緒させてもらってもいいですか……?」
「もちろんだよ。」
課長は、そう言った。
文字にしてしまえば、歓迎の言葉だが、その声色からはやはり苛立ちが読み取れる。
「明日からは、時間通りに来るようにね。」
課長は、そう続けた。
(えっ?休憩時間なのに、ここに集合しなきゃいけないの?でも、まぁ、初日から嫌われるわけにもいかないし、ここは謝っておこう。)
「すいませんでした。休憩時間に、ここに集まるなんて知らなかったもので……。明日からは気をつけます。」
「まぁいいや。じゃあ、お菓子出して。」
「お菓子……、ですか。ミルクティーなら、今ちょうど買ってきたところなんですけど……。」
「えっ!?持ってこなかったの?」
課長の驚きと呆れの入り混じった声が聞こえてきた。
その表情には、「初出社の新人が、先輩たちへの挨拶のお菓子も持ってこないなんて信じられない」とでも書いてあるようだった。
釈明の言葉を口にしようとしたあなたを遮るようにして、優しそうな先輩が口を開いた。
「まあまあ、課長。新人なんだから知らなくても仕方ないですよ。この会社では常識でも、世間では常識というわけでもないですから。」
課長をなだめたかと思うと、今度は、あなたに向かって説明を始めた。
「明日からは、みんなの分のお菓子を持ってくるようにしてね。慣れるまでは違和感を感じるかもしれないけど、各自がお菓子を持ち寄って、それを休憩時間に分け合って食べるのが、この会社の伝統だから。」
なんでも、この会社の創業期は、まだまだ世の中全体が貧しく、従業員同士がお互いに食べ物を持ち寄って助け合っていたらしい。
そんな文化がきっかけとなって、この制度の始まったのだった。
後に、もう少し詳しく聞いた話では、創業期の従業員たちは、皆仲が良く、それこそ家族のような雰囲気で助け合っていたらしい。
しかし、世の中が豊かになってくると、次第に食べ物に困るようなこともなくなり、この助け合いも、自然消滅的になくなっていったということだった。
そんな時、当時の重役の一人が「せっかくの良い文化が失われるのは、もったいない!」と、休憩時間にお菓子を持ち寄る決まりをつくったということだった。
しかし、そんな重役の思いとは裏腹に、ちょうどこの頃から、従業員同士の家族のような親密さは失われ、ギスギスした空気が生まれ始めてしまったのだと言う……。
(古臭くて、めんどくさいルールだなぁ……。お菓子なんて、自分が食べたいのを、自分で選んで買った方がいいに決まってるのに。)
あなたの正直な感想は、こうだった。
しかし、心の中ではそう思っても、「郷に入りては、郷に従え」。
入社して早々に上司から目を付けられるわけにもいかない。
あなたは、その次の日から、渋々ながらもお菓子を持っていくことにした。
それにしても、このお菓子の持ち寄り制度。
いざ始めてみると、なかなか奥が深い。
クッキーのような甘いお菓子ばかりを持ってくる人もいれば、お煎餅のような塩味のお菓子ばかりを持ってくる人もいる。
毎日、同じようなお菓子を持ってくる人に、色んなバリエーションのお菓子を持ってくる人。
したたかに課長好みのお菓子をチョイスする人がいれば、ひたすら自分が食べたいものを持ってくる人もいる。
職場の人間関係の縮図のようで、観察していると、なかなか面白い。
最初は、種類、分量、値段と色々と悩んでいたあなたも、数カ月の時間がたつうちに、あなたなりの落ち着くポジションを見つけ、面倒だった「決まり」も、慣れてしまえば当たり前の日常の一部に溶け込んでいった。
事件が起きたのは、あなたが入社してからちょうど1年後。次の新人があなたの職場に入ってきた時のことだった。
あなたの次に入ってきた新人も、当然のことながら、初日にお菓子は持ってこなかった。
もちろん、それは仕方がない。
なんと言っても、あなた自身も、自分が初出社の日にはお菓子など持ってきていなかったのだから。
こんなルールがあるのなら、入社前に人事部門から案内しておけばいいのにとは思いそうなものではあるが、人事部の上のほうの人の考えでは、「そのくらいのことは自主的に出来ていてほしい」のだそうだ。
職場二年生のあなたは、教育係として、新人にお菓子持ち寄り制度を説明することになった。
あなたの説明を聞く新人の顔には、「そんな面倒なことをするの?」という困惑の表情が浮かんでいる。
これも、まあ、仕方がない。
あなただって、面倒に思っていたわけだし、きっと1年前には同じような表情を浮かべていたはずだ。
あなたは、気を取り直して、説明を続けます。
「最初は、面倒に感じるかもしれないけど、慣れれば普通になるよ。手間だとは思うけど、明日からよろしくね。」
「ハイ……。わかりました。」
翌日、その新人は、約束通り、ちゃんとお菓子を持ってきた。
まあ、値段が「相場」より少し高めで、周りに気を使わせてしまいそうなお菓子ではあったが、最初だから気を使ったのだろう。
あまり金銭的負担が大きくなってしまうのは本人の為にもよくないし、あなたは、後でこっそりと相場を教えてあげた。
その翌日、さらにその翌日と、だんだんと慣れてきているようだったので、あなたも少し安心してきたときのことだった。
事件が起きたのは、週が明けた月曜日。
なんと、その新人がお菓子を持ってくるのを忘れてしまったのだった。
聞けば、週末にリラックスし過ぎてしまい、つい忘れてしまったとのことだった。
あなたは自分の心に、一瞬、イラっとした感情が浮かんできたことに気付いたが、グッとこらえて、教育係として皆に謝罪した。
驚いたのは、課長が、「この会社で長く続く伝統で、社長もとても大切にしている。二度と忘れないように!」と想像以上に怒っていたことだった。
後で知った話では、この「お菓子タイム」の運営状況が、課の運営状態の指標として使われているらしく、「お菓子タイム」の出来が、課長の評価にも響いてくるらしいということだった。
新人も、しっかりと反省したようで、次の日には「昨日の分と、今日の分です。」と、いつもの二倍のお菓子を持ってきていた。
そして、その週は、忘れることなくしっかりとお菓子を持ってきていた。
それにしても、自分でもちょっと気になったのは、お菓子を忘れてきた新人に、ほんの少しでも怒りの感情がわいたことだった。
自分が新人の時には、このルールを面倒に感じて、いつも「お菓子なんて持ってくる必要ないのに」と思っていた。
にもかかわらず、いざ本当にお菓子を持ってこない人を目の前にすると、怒りの感情がわいてきてしまったのだった。
それは、まるで、自分が「お菓子持ち寄り制度」の“守護者”にでもなったような心境だった。
「まあ、でも、これがルールだし……。」
あなたは、自分にそう言い聞かせて、そのことについてはあまり深く考えずに、気持ちを切り替えて仕事に取り組むことにした。
そうして時が経ち、その次の週が明けた月曜日――。
「また忘れたのかっ!?」
課長の声が響いている。
「反省文を提出するようにっ!それから、再発防止のための対策会議をするぞ!!」
あろうことか、また、お菓子を忘れてしまったということだった。
2週連続のお菓子忘れに、課長は怒り爆発で、「対策会議をする」とまで言っている。
あなたも、2週連続のお菓子忘れには、さすがに腹が立ってきたし、同時に、呆れる気持ちもわいてきた。
その対策会議では、まず、どうして2週連続で忘れてしまったのかの原因追求から始まった。
「なんで忘れたの?」
誰もが本音では、「すっかり忘れていただけだろう」と思っていた。
しかし、形式上は、一応、忘れた理由の聞き取りから始まった。
新人は、「すっかり忘れていました。」などとはとても言えない雰囲気に負けて、「用意していたのですが、満員電車で押されるうちに、どこかに行ってしまいました。」と苦しい言い訳をしていた。
肝心の再発防止策は、次のようなものになった。
当日になってお菓子がないということがないように、前日の17:30に課長立会いの下、各自の持ってきたお菓子を、新たに用意する「お菓子箱」に入れる。
(そんな対策なら、わざわざ原因追究なんてしなくても思いついたのでは……?)
そんな言葉が、ふと頭をよぎったが、もちろん、そんなことは口に出来ない。
今は、そんなことよりも、この会議の後に、新人に何と声をかけるのが正解なのか、そして、ただでさえ溜まってしまっている上に、この会議でさらに遅れてしまった仕事をどうやって片付けるかだ。
そんなあなたの心境を知ってか知らずか、別の人が話し始めた。
「あの……。せっかくの機会なので、私もひとつ、いいですか?実は、前から思ってたんですけど、休暇を取ったときのお菓子の扱いが平等じゃないと思うんですよ。現状では……」
なんと、新しい議題を提案する人が現れたのだった。
すると、それに呼応するように、「実は、私も思ってたのですが……」と、次々と新しい議題を提案する人が現れ始めた。
30分もかからずに終わると思っていた会議は、結局、2時間を超える長丁場になってしまった。
ようやく会議が終わり、立ち上がったあなたのもとへ係長がやってきて、声をかけてきた。
「さっきの、17:30にお菓子を集める話だけど……。」
「はい、何でしょうか?」
「翌日のお菓子を忘れないように前日に集めることになったけど、17:30の時点でも、忘れてる人がいたら、課長が激怒すると思うんだ。ウチの係のメンバーが事の発端だから、なおさらね。」
「たしかに……。そうかもしれませんね。」
どうも、嫌な予感がしてきた。
「そこで、お願いがあるんだけど、チェックシートをつくって、朝の時点で皆がお菓子を忘れていないか確認してくれないかな?それで、忘れてる人がいたら、昼休みのうちに買ってくるように伝えてもらいたいんだけど。」
(そこまで、やりますか……。)
そう思いながらも、あなたの口は、「ハイ、わかりました」と答えていた……。
※ 当然のことながら、この物語はフィクションです。
今回の記事も、なんとも息苦しい物語から始まりました。
この物語を通してお伝えしたかったことは、2つあります。
まず1つ目は、“取り繕った和”や“外発的動機付けによる管理”の問題点についてです。
このことについては、これまでにも何度も記事を書いてきましたので、この記事では詳しくは触れません。
近いうちに、秩序の4つのレベルについて解説した記事を公開する予定ですので、そちらをご覧いただければ、わかりやすいと思います。
( ▶ 連載を開始しました。「秩序1.0 ― 弱肉強食」からスタートして4つのレベルの秩序について解説していく予定です。 )
そして2つ目である今回の記事メインテーマは、ルールや制度の自己強化性についてです。
どういうことかと言えば、一度、ルールや決まりが出来て、それを皆が受け入れると、そのルールはどんどん自己強化をしていくということです。
そのルールが、まるで命を持った生き物であるかのように、自己保存をし、恒常性(ホメオスタシス)を持っているように振る舞うのです。
もう少し詳しく、説明していきましょう。
新たな「罪」が創造されるとき
物語の中に出てきた、「お菓子を持ち寄るルール」ですが、このルールができたきっかけは、この会社の創業期にまでさかのぼるといいます。当時は、従業員同士が、まるで家族のような助け合いの精神で支え合っていました。
その助け合いの精神を象徴していたのが、「食べ物の持ち寄り」による支え合いです。
おそらく、自宅で育てた野菜や、裏山で取れたタケノコ、田舎から送られてきたミカンなどを、皆が持ち寄っては、お互いに譲り合って食べていたのでしょう。
しかし、そんな食べ物の持ち寄りも、社会全体が豊かになり、誰もが食べ物に困らなくなってくると、自然消滅的に解消されてしましました。
その様子を見ていた会社の重役が、「このままでは、我が社の良い雰囲気が失われてしまう」と心配して新たに定めたルールが、「お菓子の持ち寄りのルール」です。
ここで、1つ気付いていただきたいことがあります。
それは、そのルールが出来るまでの間は、食べ物の持ち寄りは善意で行われていたということです。
しかし、この「ルール化・制度化」を境に、お菓子を持ってくることは義務となり、お菓子を持ってこないことは罪となってしまったのです。
言い方を変えれば、新しいルールが出来たことによって、これまでは罪ではなかったことが、新しい罪として創造されたと言うことができるでしょう。
新たなルールが出来るとき、世界には、新たな罪が創造される。
この「罪の創造」については、「罪悪感は癒せるのか?」というテーマで別の記事に書いていますので、興味があればご覧ください。
また、このように自然発生的に生まれた文化が、義務感(外からの強制)をともなうルールに変わるとき、その場をつつむ雰囲気は、人間的な信頼や思いやりの空間から、機械的な契約のような空間に変質してしまう傾向があります。
温かい人間関係が、ギスギスした関係に変わってしまうのです。
【 参考記事 】
どのようにして、人は、理不尽なルールの「守護者」に生まれ変わるのか?
面白いのは、このようなルールが出来てしまうと、そのルール自体が、まるで命を持った生き物であるかのように、自己強化を始めるということです。例えば、上の物語の主人公は、最初、そのルールの存在を知って、面倒に感じていました。
それはそうでしょう。
現代社会の一般的な感覚では、「会社にはお菓子を持ち寄るのは当然だ」という感覚を持っている人は少ないと思います。
(中には、本当に、そのようなルールがある会社も存在するかもしれませんが……。)
ですから、もし、職場の同僚のためにお菓子を持ってきてくれる人が居たとしたら、「わざわざ、ありがとう。気がきくね。」という反応が一般的かと思います。
逆に、お菓子を持ってこない人がいたとしても、それが普通なので、そのことに腹が立つこともないはずです。
物語の主人公も、最初はそのような感覚を持っていたので、この会社のルールに戸惑っていました。
しかし、1年の月日が流れ、そのルールが当たり前になるくらい慣れ親しんでしまうと、すこし、様子が変わってきます。
なんと、自分が新人の頃には「なんで、お菓子なんて持ってこなきゃいけないんだろう?」と疑問に感じていたこの物語の主人公が、お菓子を忘れてしまった新人に怒りの感情を抱いていたのです。
つまり、「お菓子を持ち寄るルール」の中で過ごしているうちに、主人公は、いつのまにか「お菓子を持ち寄るルール」の守護者に変身していたのです。
物語の中では、主人公は「これは、お菓子を持ってこなかったことではなくて、ルールを破ったことに怒っているのだ」と自分を納得させていました。
つまり、「私は、あくまでもルールを破ったことに対して怒っているのであって、別に、お菓子持ち寄り制度に賛成しているわけではないんだ!」と自己説得しているわけですね。
しかし、本当に「ルール」を破ったという理由だけで怒っていたのでしょうか?
例えば、「お菓子の持ち寄り制度」が、明文化されたルールではないけれど、職場の皆が参加する、職場の常識になっていたとしたらどうでしょう?
周囲との関係を大切にする主人公は、「郷に入りては郷に従え」の精神で、「たとえルールとして決まっているわけではなくても、それがここの常識なら」と一年間、毎日欠かさずお菓子を持ってきていました。
そこに入ってきた新人が、「別に、決まりなわけじゃないから」とお菓子を持ってくる気配を見せなければ、きっと、少しくらいは怒りの感情をもつはずです。
典型的には、「私は頑張って、毎日欠かさずお菓子を持ってきたっているっていうのに、なんでこの人は、悪びれる様子もなく、平気な顔をしてお菓子を持ってこないの!?」という感じでしょうか……?
つまり、主人公が怒りの感情を感じた本当の原因は、決められたルールを破ったからだというわけではないのです。
では、その怒りは、いったいどこからやってくるのでしょうか?
それは、別の記事にも既に書いたように、「思い込み(“観念”)」からやって来ます。(少なくとも、大きく依存しています。)
【 参考記事 】
つまり、その会社での1年間の生活で、「この会社の従業員なら、毎日、会社にお菓子を持ってくるのが当然だ」という常識(“観念”)が出来上がってしまったから、怒りを感じるようになったのです。
その理由を探るなら、例えば、認知的不協和の作用が、その原因(の少なくとも1つ)でしょう。
【 参考記事 】
どういうことかといえば、1年間も、「お菓子持ち寄り制度」のために、時間や、お金、精神力(周囲への気づかいなど)などのエネルギーを注ぎ続けることで、「お菓子持ち寄り制度」にそれだけの価値があるように感じるようになるということです。
なぜならば、もし、「お菓子持ち寄り制度」に参加することにそれだけの価値がないと考えを改めてしまったら、それまでに注ぎこんできたエネルギーが無駄だったということになってしまうからです。
そんな気持ちにはなりたくないので、「お菓子持ち寄り制度」にはそれだけの価値があると思い込もうとする方向の力がはたらくのです。
こうやって書くと単純ですが、この効果は、案外バカにはできません。
何を隠そう、こんな記事を書いている私自身、この認知的不協和の罠にハマって、怒りを感じてしまうことがよくあるのです。
それは私の不徳が致すところに他ならないのではありますが、怒りを感じている時は、その怒りに気を取られてしまって、後になってからこのメカニズムが働いていたことに気付かされれて後悔することが少なくありません。
このメカニズムを知っていてもこれなのですから、このメカニズムを知らない人であれば、罠にはまったまま抜け出せないことも少なくないでしょう。
そんな場合には、「今年の新人はあり得ない!」とか「最近の若い者は!」とイライラし続けることになってしまうのです。
ちなみに、まったく怒りがわかなかったような場合でも、決して、“観念”が何も仕事をしなかったというわけではありません。
例えば、「『自分は自分、人は人』だから、私は別に、お菓子を持ってこない人が居たとしても気にしないよ」という信条(“観念”)を持った人が居たとしましょう。
(頭でそう考えようとしているということではなく、腹の底からそう信じているという状態のことです。)
その人は、たとえ新人がお菓子を持ってこなかったとしても、「『人は人』だから。」と気にする様子はないでしょう。
もちろん、ルールとして決まっているような場合などには、教育係の仕事として指導することはあるかもしれません。
しかしそれは、怒りの感情とは無関係な、単なる教育係の「役割」としての行動なのです。
と言っても、その「役割」を何度も演じているうちに、「行動が、観念をつくりだすプロセス」が発動したりすることもあります。
話がややこしくなって、収拾がつかなくなってしまうので、このくらいにしておきましょう。
「世界のカタチ」を固定し続けようとする力
さてさて。ここまで、主人公が、どのようにして「お菓子持ち寄り制度」を大切に思う“観念”を育ててきたのかについて書いてきました。
当然のことながら、その会社に勤めている他のメンバーについても、同じことが起こると考えるのが普通でしょう。
勤続年数が長い分、主人公以上にその“観念”を強く持っている人も多いはずです。
何が言いたいのかというと、それは次のようになります。
ある個人や集団が、新しいルールや制度などを受け入れ、それに沿った生活を始めると、その個人や集団の中には、そのルールや制度を維持し続けようという方向の力が発生する。
最初は仕方なくルールに従っていた主人公が、ふとした瞬間に、まるで自分が「お菓子持ち寄り制度の“守護者”」であるかのような心境になってしまったことに驚いていたことが、それを象徴しています。
体育会系の組織にありがちな理不尽なルールでも、1年もその組織の中で過ごしていれば、それが体に染み付いてしまい、翌年に新しく入って来た人にもそれを強制してしまうことと似ていますね。
ありがちな例で言えば、新人の時は「なんで週末まで、上司の付き合いでゴルフなんかしなきゃいけないんだよ?」と思っていた人が、自分が先輩になったときには、もう「後輩がゴルフに付き合うのは当然」と思い込んでいるような場合です。
そして、毎年4月や5月頃には、「今年の新入りは、ゴルフに誘ったら、『ちょっと用事がありますので』だってさ。俺たちの頃は、ゴルフの日は、朝早く起きて上司の家まで車で迎えに行くのが当たり前だったのに……、信じられないよ!」と話に華を咲かせるわけです。
あるいは、別の記事に書いた「チャーハンの味付けのルール」だって、私たちにとっては滑稽ですが、その世界に生まれ、それが当たり前の環境の中で育っていれば、それが当たり前になってしまいます。
たとえ、「そんなに細かいルール、必要ないんじゃないの?」 と思ったとしても、疑問の声を上げるためには、それなりの勇気が必要です。
「お前は、国民の健康なんて、どうでもいいと言いたいのかっ!?」
「私たちは、いままでずっと、そうやって生きてきたんだから!」
「そういう考え方もあるかもしれませんが、もし何か問題が起こった時に、あなたは責任をとれるんですか?」
などなどと、各方面から叩かれることが予想されるからです。
それとは逆に、いま私たちが生きている、こちら側の世界で、「チャーハンの味付けルール」のようなルールを導入しようなんて提案しようものなら、「何、バカなこと言ってるの?財源は?」と叩かれるわけです。
どちらの世界にも、「それまでの世界のカタチ」を維持し続けようとする力が働いているのですね。
もっと言ってしまえば、幻想にしか過ぎない「お金」という仕組みが、世界を動かすほどの力を持ち続けていることの裏側でも、同じメカニズムが働いています。
長くなってしまうのでこの記事では触れませんが、気になる場合は、次の参考記事を読んでみてください。
【 参考記事 】
私たちを縛る“枠”も、固定化されている
念のために書いておきたいのは、私は、決して、そのようなメカニズムを否定したいというわけではないということです。もし、ルールや制度が、それ自体を維持し続けようとする「ある種の固さ」を突然失ってしまったら、社会は崩壊してしまうかもしれません。
しかし、その「固さ」のネガティブな面に目を向けると、そこには、人々を縛る“枠”が存在しているという側面もあります。
どういうことかと言えば、「こういう人はOK。こういう人はNG。」という“枠”をつくり、それを固定化してしまうということです。
この記事の例でいえば、「お菓子を持ってくる人はOK。お菓子を持ってこない人はNG。」という境界線が1度出来てしまえば、そこで生きる人々には「お菓子を持ってくる人であれ」というプレッシャーがかかり続けることになります。
その枠は、明文化されたルールに限らず、「当たり前」や「常識」といった仮面をかぶって、私たちを縛りつけてくることもあります。
- 休日であっても上司の誘いとあらばゴルフに出かけるのがOK。プライベートの用事で断るのはNG。
- 学校の先生の言うことを素直に受け入れるのが良い子。先生の言うことに疑問を持つのは悪い子。
- ROI(投資収益率)を最大化するのが良い経営者。直接的にROIにつながらないことをするのは悪い経営者。
- 欧米のやり方を取り入れている人が、進んだ人。日本的なやり方をする人は、遅れた人。
- 長時間の会議は悪。短時間の会議は善。
- 子供に色々な習い事をさせるのが、良いお母さん。習い事もさせてあげられないのは、悪いお母さん。
挙げ始めたら、キリがありません。
それぞれの“枠”についての賛否は置いておくことにして、ここで注目してほしいのは、どの場合にも「人々を“枠”の中に捕え続けようという力」が働いているというという共通点があるということです。
たしかに、現実の世界を見ていても、最初は先進的で珍しかったルールや制度、考え方や規範が、やがて常識となり、人々が互いに縛り合う“枠”として固定されてしまうことは、珍しいことではありません。
ところで、ちょっと考えてみてください。
この“枠”が、誰にとっても役に立つかたちで機能している場合は、なんの問題もないでしょう。
しかし一方で、人々を、不便で窮屈で、気分の悪い“枠”に閉じ込めてしまっていることもあるはずです。
例えば、信号機の「赤は止まれで、青は進んでもよい」というルールであれば、おそらく異論のある人は、ほとんど居ないでしょう。
ほとんどの人が、そのルールの恩恵に与るとともに、そのルールの必要性を感じていると思います。
他にも、例えば、「人を傷つけてはいけない」、「盗んではいけない」というようなルールも同様でしょう。
しかし、それとは逆に、メリットが少なくデメリットだらけになってしまっているルールも少なくありません。
(この「メリット」、「デメリット」も、結局は、その人の“観念”がつくり出している感覚に過ぎないのですが……。)
例えば、別の記事に書いたような「チャーハンの味付けまで細かく決めるようなルール」があったとしたら、うっとうしくて仕方がありません。
もちろん、この記事で書いた「お菓子持ち寄り」のルールも、デメリットが多い“枠”だと感じる人が多いでしょう。
固定された“枠”から、抜け出す方法
では、このような“枠”が1度出来てしまうと、その“枠”がデメリットだらけだったとしても、私たちはそこから逃れることは出来ないのでしょうか?もし、ルールや制度に、それ自体がどんどん自己強化していく性質があるのだとしたら、1度動き始めてしまったルールや制度は、永遠に強化され続け、失われることはないはずです……。
もちろん、実際の世界では、そんな風にならないことは、私たちがよく知っている通りです。
ここに、“枠”に縛られないためのヒントが隠されています。
少し、考えてみましょう。
あるルールを肯定する思い込み(“観念”)は、そのルールや制度を守り維持する方向の力を生み出します。
これは、すでに説明したとおりです。
もしその力から逃れたいとしたら、その力を緩めるか、それよりも強い力で別の方向に向かうなどの方法があるでしょう。
具体的には、どのような場合が考えられるでしょうか?
◆ 逆方向に働く力の例 ◆
『「お菓子持ち寄り」なんて、そんな島国根性丸出しの、ムラ社会から抜け出せないから、ウチの会社はダメなんだ』という別の“観念”を、より強く信じる(受け入れる)
これは、既存のルールや制度とは、逆方向のベクトルをもった別の観念を信じることによって、現在のルールや制度を、維持・固定するのとは反対方向の力が発生するということですね。
もし、「お菓子持ち寄り制度には価値がある!」という思い込みよりも、「脱島国根性・脱ムラ社会」の思い込みの方が、会社全体として強くなれば、「お菓子持ち寄り制度」は崩壊に向かうでしょう。
会社が、別の会社に買収されて、親会社から「そのような制度はやめろ!」と命令された
これは、外部からの強制力によって、既存のルールや制度が破壊する方向の力が働いた例です。
これは、外部からの「アメとムチ(外発的動機づけ)」の働きで、強制的にルールや制度の変更が求められているということですね。
どういうことかと言えば、既存のルールを廃止するという新方針に積極的に従った人は親会社から評価される可能性が高まり(アメ)、逆に、新方針に逆らって既存のルールに固執した人は親会社から目をつけられる可能性が高まる(ムチ)ということです。
このアメとムチの強制力が、既存のルールを守ろうとする力を上回れば、これまでのルールは崩壊することになるでしょう。
逆に、親会社からの締め付けが厳しくなければ、コソコソと隠れて、これまでの制度を続ける部署も現れるかもしれません。
また、蛇足ではありますが、この「アメとムチ」の強制力が働く背景にも、実は、思い込み(“観念”)の力が見え隠れします。
例えば、「出世することこそが人生の成功だ!」という思い込みを持っている人と、「親会社にしっぽを振って出世するなんて、みっともないことだ」という思い込みを持っている人では、同じ「アメとムチ」に対しても、その反応はかなり違ったものになるでしょう。
『「お菓子持ち寄り」なんて、そんな島国根性丸出しの、ムラ社会から抜け出せないから、ウチの会社はダメなんだ』という別の“観念”を、より強く信じる(受け入れる)
これは、既存のルールや制度とは、逆方向のベクトルをもった別の観念を信じることによって、現在のルールや制度を、維持・固定するのとは反対方向の力が発生するということですね。
もし、「お菓子持ち寄り制度には価値がある!」という思い込みよりも、「脱島国根性・脱ムラ社会」の思い込みの方が、会社全体として強くなれば、「お菓子持ち寄り制度」は崩壊に向かうでしょう。
会社が、別の会社に買収されて、親会社から「そのような制度はやめろ!」と命令された
これは、外部からの強制力によって、既存のルールや制度が破壊する方向の力が働いた例です。
これは、外部からの「アメとムチ(外発的動機づけ)」の働きで、強制的にルールや制度の変更が求められているということですね。
どういうことかと言えば、既存のルールを廃止するという新方針に積極的に従った人は親会社から評価される可能性が高まり(アメ)、逆に、新方針に逆らって既存のルールに固執した人は親会社から目をつけられる可能性が高まる(ムチ)ということです。
このアメとムチの強制力が、既存のルールを守ろうとする力を上回れば、これまでのルールは崩壊することになるでしょう。
逆に、親会社からの締め付けが厳しくなければ、コソコソと隠れて、これまでの制度を続ける部署も現れるかもしれません。
また、蛇足ではありますが、この「アメとムチ」の強制力が働く背景にも、実は、思い込み(“観念”)の力が見え隠れします。
例えば、「出世することこそが人生の成功だ!」という思い込みを持っている人と、「親会社にしっぽを振って出世するなんて、みっともないことだ」という思い込みを持っている人では、同じ「アメとムチ」に対しても、その反応はかなり違ったものになるでしょう。
「新人がゴルフに付き合わない問題」の場合についても、考えてみましょう。
例えば、「たとえ休日であっても、上司の誘いは断らないのが当然」という風潮が原因で、何かしらの世間を騒がせる事件が起こったことしましょう。
それをきっかけに、テレビ番組で有識者と名乗る人たちがが「こういった古い考え方が……」、「欧米では……」等々と、一斉に叩かれたりすれば、風向きが変わるかもしれません。
もし、「それまで通り」を維持しようとする力よりも、「テレビ」、「有識者」、「欧米」などの権威の力が強ければ、そういった風潮を見直す議論が同時多発的に発生するかもしれません。
ここでポイントになるのは、「テレビ」、「有識者」、「欧米」などが正しいかということではなくて、その権威と、私たちが「これまで通り」を維持しようとする力のどちらが強いかです。
その“綱引き”の結果次第で、状況が動くのです。
ただし、この方法は、“綱引き”が発生する都合上、「“綱引き”のデメリット」が発生する可能性があります。
簡単に説明すれば、「ある“観念”」と「別の“観念”」を“綱引き”させるということは、ブレーキを踏みながら、アクセルを踏み込むような状態になってしまうということです。
それは、無駄なガソリンを消費することにもつながりますし、車体に負担もかけるでしょう。ムリな力がかかったことで、様々な場所で、軋轢(あつれき)が起こるかもしれません。
この「“綱引き”のデメリット」については、近いうちに、別の記事にまとめたいと思っています。
なんにしても、“綱引き”の方法論ですと、デメリットが発生する可能性がありますので、出来れば、次に紹介する方法の方がお勧めです。
それは、「ある“観念”」と「別の“観念”」を“綱引き”させるのではなく、不要になった“観念”を消し去る方法です。
少し言い方を変えれば、“枠”を固定し続けようとする力を緩めるということです。
もし、固く重苦しかった“枠”を、柔らかく和らげる(やわらげる)ことが出来れば、その“和”らいだ空間には、もっと“楽(らく)”で、“楽”しい世界(世界観)を構築することができるでしょう。
では、もう少し具体的な例を見てみましょう。
◆ “枠”を固定し続けようとする力が緩む場合の例 ◆
「社内の『和』のために、従業員同士がお菓子を持ち寄ることは大切なことだ」という“観念”を観察した結果、それは単なる「思い込み」で、「お菓子を持ち寄るルール」と、「社内の『和』」には関係がないことに気がついた。(それどころか、そのルールのせいで、社内の空気がギスギスすることがあることに気がついた。)
これは、自分の観念を客観的に見つめた結果、その観念が、文字通り「思い込み」であることに気がついたということですね。
私たちの日々の生活でも、そう思い込んでいるあいだは絶対的に正しく感じられることが、ふと気がつくと、単なる思い込みだったことに気付かされることは珍しくありません。
これは、自分の観念を客観的に見つめた結果、その観念が、文字通り「思い込み」であることに気がついたということですね。
私たちの日々の生活でも、そう思い込んでいるあいだは絶対的に正しく感じられることが、ふと気がつくと、単なる思い込みだったことに気付かされることは珍しくありません。
先ほどと同じように、ゴルフの例でも考えてみましょう。
この場合は、何かをきっかけにして、新人を強制しようとしていた先輩が、自分自身で「仕事でもない休日の使い方まで強制するのは、理不尽かもしれないなー」と気付いたような場合ですね。
詳しくは、また別の機会に書きたいと思っていますが、私たちが持っている“観念”というのは、最終的には誰かがつくり出したものだと、私は考えています。
“観念”を“プログラム”の一種だと例えるなら、その“観念(プログラム)”を書いたプログラマーが存在するということです。
【 参考記事 】
ですから、徹底的な観察という方法を使えば、究極的には、どんな“観念”によってつくられた“枠”も取り去ることができるだろうと思います。
そのために有効な方法の1つが、「文章を書くこと」、「“言葉の力”を使うこと」なのですが、それについても、また別の機会に触れたいと思います。
とにかく、今回の記事で、覚えておいていただきたいことは、次の5つです。
- 私たちは、どんな人であっても、ほぼ例外なく、何かしらの“枠”に縛られている。
- 一度、受け入れた“枠”は、まるで命を持った生き物であるかのように育っていき、強固な存在となる傾向がある。
- もし、“枠”から抜け出したい場合には、よく観察してみることが、その“枠”を和らげる(やわらげる)ことにつながる。
- カチコチに固まった重苦しい“枠”を和らげることができれば、その“和”の空間に、より“楽”しい世界を構築することができる。
- “枠”を和らげるための具体的な方法の1つとして、“言葉の力”を活用することが役に立つ。
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