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『引き寄せの法則』 は、本当に正しい!?―『“観念”と“現実”の法則』 としてモデル化してみた。


公開日:2017年4月9日( 最終更新日:2017年4月10日 ) [ 記事 ]
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これまで、このサイトでは、いわゆる「引き寄せの法則」についてや、「“観念”のプログラムが“現実”をつくりだしている」という作用についてたくさんの記事を書いてきました。

引き寄せの法則」というの は、『思考は現実化する』 、『鏡の法則』 、『「原因」と「結果」の法則』などなどと、色々な呼び方で、たくさんの人に語られてきたテーマです。

少し乱暴ですが、一言でまとめてしまえば、「あなたの考えていることが、あなたの現実になる」という考え方です。



あなたの考えていることが、あなたの現実になる。

突然こんなことを言われれば、怪しさ満天で、「新興宗教の勧誘?」と身構えてしまいそうな考え方です。

しかし、これまでに色々な角度から考えてみた結果、必ずしも「怪しい」と切り捨ててしまってはもったいないだけの真実が含まれている考え方だということがわかってきました。

例えば、最近書いた「知らなかったら損をする! ― 私たちを影から操る“プログラム”の正体を探る」の記事などを読んでみると、その全体像がわかりやすいと思います。


ですが、これ。

本当に正しい考え方だと思ってもいいのでしょうか……?

上の参考記事を読んでみると、たしかに、“観念”が“現実”をつくるような作用が存在しているように思えてきます。

しかし、そうでないパターンもあるのではないでしょうか?

例えば、「子供にもらった不思議なお金―“幻想”が世界を“創造”するプロセス」という記事で、「お金には価値がある」という“観念”が、本当にお金には価値があるという“現実”をつくりだしているのだと書きました。

これは“観念”を信じることで、その“観念”が“現実”になるということですから、まさに「引き寄せの法則」が主張する通りのことが起こっているということになります。


しかし、その同じ記事で、こんなことも書きました。

生まれたばかりの真っ白な赤ちゃんは、「一万円札のような紙切れに価値がある」などとは、1ミリも思っていないはずです。

しかし、そんな子供も、人間社会の中で成長していく中で、「ただの紙切れに見えても、お金には価値があるんだ」と実感する経験を繰り返していくことで、いつのまにか「お金には価値がある」という“観念”を自然と受け入れるようになります。

これは、“現実”が“観念”をつくるという方向性ですから、「引き寄せの法則」とは真逆の現象です。


このような正反対の出来事が起こるということは、いわゆる「引き寄せの法則」は間違った理論なのでしょうか?

また、もし正反対のことが起こるのだとしたら、そのメカニズムはどのようになっているのでしょうか?

そこで今回の記事では、いわゆる「引き寄せの法則」をモデル化して、このようなことが起こるメカニズムについて考えてみたいと思います。

このモデルを、今回の記事では仮に「“観念”と“現実”の法則」を呼ぶことにしましょう。

(今回の記事は、少しマニアックな内容で、「引き寄せの法則をちょっと科学的にシリーズ」に書かれたような内容は既に把握している人を対象に書いています。また、今回の記事で紹介するモデルは、あくまでも仮説的なモデルだということにご注意ください。)


“観念”と“現実”の法則





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(ここで一旦、お知らせです。記事はまだまだ続きます。)

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“観念”が“現実”を引き寄せるのか? “現実”が“観念”を引き寄せるのか?

では、さっそく考えていきましょう。

まずは、次のような場面を想像してみてください。


例えば、「私は勉強が得意だ」という“観念”(自己に対する“観念” = セルフイメージ)を持っている小学生の子供がいたとします。

しかし、その子が中学校に進むと、状況が少し変わってきます。

小学校の時にくらべて、突然、勉強が難しくなり、授業を進めるペースも桁違いに速くなったので、勉強について行くのが難しくなってしまったのです。

この時、その子の中では“観念”と“現実”の綱引きが起こります。


【 参考記事 】



「勉強について行くのが難しくなってしまった」という“現実”は、“観念”に対して認識を改めるように働きかけます。

おい!いつまで、自分は勉強が得意だなんて勘違いしてるんだ!? 授業に、全然ついて行けてないだろ? 現実を見ろよ、現実を!


一方の“観念”も、こんな風に反撃します。

いや、私は確かに、勉強が得意なはずなんだ。ちゃんと中学に合わせた勉強方法をすれば、それが証明できるはず!


小学校時代には「自分は勉強が得意だ」という“観念”と、「実際に勉強が出来ている」という“現実”が一致していました。

ところが、中学に進んで、その一致していた“観念”と“現実”のあいだに隙間が出来ると、お互いに、相手を自分の方に引き寄せようとして綱引きが始まるのですね。

その結果、“現実”が勝利を収めれば、「私は勉強が得意だ」という“観念”が、「私は勉強は苦手だ」という“観念”に置き換わります。

こうなると、「私は勉強が苦手だ」という“観念”と、「実際に勉強についていけてない」という“現実”が一致して、また安定状態を取り戻すことになります。


しかし、“観念”も負けてはいられません。

「私には“勉強が出来ている”という現実がふさわしい」という“観念”を持ち続けて[※1]いれば、例えば、カクテルパーティー効果(下の参考記事を参照)で、もっと効率的な勉強法を発見するかもしれません。

これは、もし「自分が勉強が出来ないことなんて当たり前」と思っていたとしたら、たとえ視界に入ったとしても見落としてしまう勉強方法です。


ウソだと思うなら、少し下で紹介する参考記事にある「注意力テスト」を受けてみてください。

例えば、あなたが「自分には勉強が出来るわけがない」という“観念”を心の底から受け入れていたとしましょう。

そんな場合には、あなたの目の前に「あなたにぴったりの勉強法」が落ちていたとしても、あなたはその勉強法を見つけることが難しくなります。

あなたが、「勉強が出来ない」という“観念”を信じ続けている限り、どんなに素晴らしい勉強法も、あなたの横を素通りしていってしまうのです。

(ちなみにこの現象は、勉強以外にも、仕事でも恋愛でも同じことが起こると考えれます。それだけ、私たちの人生に大きな影響を与えている現象なのです。)


▼▼▼ 「注意力テスト」はこちら ▼▼▼

【 参考記事 】



もちろん、カクテルパーティー効果の妨害もかいくぐって、運よく「ぴったりの勉強法」を見つけることができるような場合もあるでしょう。

しかしそれでも、「自分には勉強が出来るわけがない」という“観念”を信じているような場合には、その勉強法を実践することも難しくなってしまいます。

なぜならば、多少なりとも「自分には出来る!」と思っているからこそ、その勉強法にチャレンジする気持ちになれるのです。

「自分には出来る!」というセルフイメージがなければ、チャレンジする気力を呼び起こすのにも一苦労でしょう。


【 参考記事 】



他にも、「勉強が出来る」という“観念”は、小学校の頃は自宅で教科書を開くこともないような生活を送っていたのを、自宅で参考書を読むような生活に改めさせる方向の力を生み出すかもしれません。

塾に通わせてもらえるように、両親にお願いをするという行動を呼び起こすかもしれません。

なんにしても、「私は勉強が得意だ」という“観念”を保ち続ければ、“現実”を“観念”に近づけようとする力が発生する[※2]わけです。

つまり、たとえ一度は「勉強について行けない」という厳しい“現実”を味わうことになったとしても、「勉強が得意だ」という“観念”を保ち続ける[※3]ことができれば、「実際に、勉強が得意に感じている“現実”」をつくる方向の力がたえず生まれるのです。


その結果、“観念”が勝利を収めれば、負けた“現実”が“観念”に合わせて、「実際に、また勉強が出来ている」という“現実”がつくられます。

これも、“観念”と“現実”が一致した、もう1つの安定状態です。




ここでのポイントを、まとめておきましょう。


  • “観念”と“現実”が一致している状態が安定状態。
  • “観念”と“現実”に不一致が起こると、お互いの間に引力のような力がはたらき、互いに相手を自分の方へ引き寄せようとする綱引きが始まる。
  • 綱引きの妥協点で“観念”と“現実”が一致することで、ふたたび安定が訪れる。




補足説明(読み飛ばしてもOK)

※1 本音では「自分は勉強が苦手だったのか……」と思いながらも、強がって、「今回は調子が悪かったけど、本当は自分は勉強が得意なんだ!」と言い訳しているだけの状態は、「勉強が得意だ」という“観念”を保ち続けている状態としては不完全です。

例えば、この状態で素晴らしい勉強法に出会ったとしても、本音では「その勉強法をやってもダメだったときには、さらに決定的に勉強が出来ないという現実を見せつけられることになるなぁ……」とビビりながら、口では「そんな勉強法やらなくても、勉強くらいできる!」と強がって行動に移せないかもしれません。

ただし、この状態は、「今回は調子が悪かった」という“色眼鏡”を通して世界を見ることで、本人が認識している“現実”を、「私は勉強が得意だ」という“観念”に近づけようとしているわけですから、ある意味では、“現実”と“観念”のあいだに引力がはたらいているということになります。


※2 もちろん、“観念”を保ち続ければ、どんなに荒唐無稽のことであっても、絶対に“現実”を“観念”側に引き寄せることができるのかと言えば、それが難しい場合もあるはずです。

例えば、「私は100メートルを1秒で走ることが出来る」と、いくら強く信じたところで、実現は難しいでしょう。

(何が起こるかわからないのがこの世界ですから、絶対に無理だとは言いませんが……。)

ただ、少し発想を変えていいのなら、乗り物を使うとか、自分ではなく世界(の座標系)を動かしてしまうなどの方法で、実現できそうですね……。


※3 この記事では、例として勉強をとりあげましたが、「私は勉強が得意だ」という“観念”を持ち続けて勉強を頑張ることをお勧めしたいのではありません。

中学の成績が平均以下でも、幸せに生きている人はたくさん居るはずです。

学校の成績よりも、経済的な安定に役立つ能力も存在しますし、人間、誰しも“天与の才能”を持っています。

中学校の成績がクラスでトップクラスになることよりも、学校の成績が平均以下でも、自分の才能と、経済的安定を手に入れる能力を身につけている方が、経済的に成功する可能性も高いと思います。

だから私は、勉強向きではない人に、「歯を食いしばってでも、できる!という“観念”を持ち続けて、勉強を頑張るんだ!」などと言うつもりはありません。

さらに余談ですが、そもそも心の底から「できる」と思っている状態では、歯を食いしばる必要などなく、自然に行動に移しているものです。

「自分には勉強が出来る!」と思い込もうとして必死に努力している状態は、本音では「勉強が出来ない」と信じている状態だということです。

だから、歯を食いしばる必要を感じた時には、「まだ私は『できる』という“観念”を心の底からプログラミングできていないのだなぁ」と気付くための指標になります。

本当に“観念”のプログラムがスムーズに動いているときには、「できる!」「やるぞ!」などというような、びっくりマーク(!)付きの言葉が出てくることは少ないです。

「気付いたら、やっていた」とか、もっと自然体な言葉が出てくるはずです。





『“観念”と“現実”の法則』をモデル化してみよう!

さてさて、ようやく本題です。

ここまでに考えてきた内容を、モデル化してみましょう。

まず、一枚の長細い板を想像してください。

大きさは、幅30センチ × 長さ1メートル くらいで、その板の中央には、水の入ったコップが置かれています。

そして、その板の両端を二人の人が持っています。



観念と現実の法則(二人の人がコップの乗った板を支えているところ)


このとき、当然のことですが、二人の人が同じ高さで板を持っていないと、水がこぼれてしまいます。

もし、どちらかが、板を支える高さを変えたとしたらどうでしょう?


観念と現実の法則(どちらかが、板を支える高さを変えると、水がこぼれそうになる)

水をこぼさないためには、どちらかの人が板を持ち上げたら、もう一人の人も追いかけるように板を持ち上げなければなりません。

逆に、どちらかが板を持つ高さを下げたら、もう一人もそれに合わせることになります。


“観念”と“現実”の関係も、これに似ているのではないかと、私は思っています。

どういうことかと言うと、“観念”さんが板を持ち上げると、“現実”さんには「板を持ち上げないと水がこぼれるぞ!」というプレッシャーがかかります。

逆に、“現実”さんが板を持ち上げた場合には、“観念”さんにプレッシャーがかかります。

“観念”さんにしても、“現実”さんにしても、どちらか一人が板の高さを変えると、もう一人にも板の高さを同じにするようにというプレッシャーがかかるのです。

そして、そのプレッシャーの強さは、二人が持っている板の高さに差があれば差があるほどに強くなります。


ところで、もし、どちらか一人が板を下げ続けようとして、もう一人が板を上げ続けようとしたらどうでしょう?





そんな場合には、二人の根競べが始まります。

そして、どちらか根負けした方が、もう一人にあわせることになるのです。


例えば、“観念”さんが「私は勉強が得意だ!」という“高さ”で板を持って、“現実”さんは「でも実際には勉強についていけてない」という“高さ”で板を持っていたとしましょう。

もし、“現実”さんが根勝ちすれば、“観念”さんも仕方なく「私は勉強が苦手」という風に認識を改めることになります。





逆に、“観念”さんがカクテルパーティー効果などを駆使して勝利を収めれば、「私は勉強が得意」と感じることができる世界に、“現実”さんを改めることができます。





どちらにしても、勝った方の状態(高さ)に負けた方が合わせることで、コップの水は安定するのです。

これが、私の捉えている“観念”と“現実”の間にはたらく法則をモデル化したものです。


まとめてみましょう。


“観念”と“現実”の法則

法則1:“観念”と“現実”の間に差がある場合、“観念”と“現実”を一致させようとする力がはたらく。

法則2:その力は、“観念”と“現実”の差が大きければ大きいほど強くなる。


※ ただし、ここで言う“現実”とは、その人が体験する“現実”のことである。


(こう書くと仰々しいですが、よく見てみると「認知的不協和」を拡張したような内容ですね。)



もし、この法則が正しいとすると、この記事の最初に書いたような疑問は解決できることになります。

例えば、真っ白な子供が、毎日「お金には価値がある」という“現実”を体験しているうちに、いつのまにか「お金には価値がある」という“観念”を信じていたという例がありました。

これは、社会全体でつくりだしている「お金には価値がある」という“現実”があまりにも絶対的で強力なので、子供の“観念”の側が“現実”の側に合わせるしかなかったということでしょう。

また、子供は真っ白なので、「お金には価値がある」という考え方に対して、「え?でもそれって違うんじゃない?」などと抵抗を起こす別の“観念”を持っていなかったというのもポイントでしょう。

例えば、物々交換が当たり前という世界で生まれ育った大人を連れてきても、簡単には「お金には価値がある」という“観念”は受け入れてもらえないでしょう?

「こんな紙切れ、食べることも出来ないじゃないか!」と思われてしまって、彼が「お金には価値がある」という“観念”を受けれるまでには少し時間がかかるはずです。

どちらにしても、これは圧倒的に強い“現実”が、人々の“観念”を従わせた例です。

つまり、頑として“現実”さんが板を支える高さを変えないので、“観念”さんが“現実”さんの高さに合わせたということです。


逆も考えてみましょう。

子供にもらった不思議なお金―“幻想”が世界を“創造”するプロセス」の記事に書いたお金の歴史の中で、それまで「金(ゴールド)と交換できる」という保証があったおかげで価値があると思われていた紙幣が、ゴールドの裏付けを失ってしまうという歴史的な出来事がありました。

いわゆる「ニクソンショック」ですね。

しかし、文字通り「ただの紙切れ」になってしまった紙幣は、今も価値を持ち続けています。

これは、その記事にも書いたとおり、「紙幣には価値がある」という“観念”が、「ただの紙切れに過ぎない紙幣に価値がある世界」という“現実”をつくりだしているためです。

共同幻想”というやつですね。

つまり、とてつもないほど多くの人々が、共同で、“観念”さんが板を支える高さを「紙幣には価値がある」という位置で固定しているので、“現実”さんもそれに合わせたということです。


このように考えると、この記事の最初に書いた、「引き寄せの法則」の矛盾を説明することができます。

引き寄せの法則」によれば、「信じたことが現実になる」はずなのに、「現実によって信じていることがつくられる」こともあるじゃないか!という矛盾です。

この記事で考えた、「“観念”と“現実”の法則」にそって考えるなら、この疑問の答えは、ただ単に「『“観念”と“現実”の綱引き』 の結果、勝った方が相手を従わせる」という単純な原理だったのです。




もう少しシンプルな「引き寄せ」のモデル

さて、この「“観念”と“現実”の法則」のモデルについて、もう少し考えてみましょう。

もっとシンプルに考えると、このモデルは「バネ」に似ていることがわかります。

“観念”と“現実”が同じ位置にいる間は、バネは引っ張れることなく安定しています。

しかし、“観念”と“現実”の間に差が出来てくると、バネが引っ張られて、“観念”と“現実”が遠ざかろうとするのを防ごうとします。





そして、数え切れないほど膨大な人数でつくりだしている「お金には価値がある」というような強烈な“現実”は、個人の“観念”を、“現実”の方へと簡単に引き寄せて、その“現実”の中に取り込んでしまいます。





こう考えるとシンプルですね。

ところで、ここで疑問があります。

単純な物理学の問題として考えてみて欲しいのですが、もし、両側に錘(おもり)の付いたバネを放置しておいたらどうなるでしょう?

普通に考えれば、バネが縮んで、“観念”と“現実”が一致したら、それ以上なにも起こりませんよね?

安定状態が訪れて、それ以上、何の変化も起こらないはずです。

しかし、私たちの人生は、変化の連続です。


もし、この安定状態に変化を起こしたいとしたら、いったいどうしたらいいでしょう?

そのためには、「バネでつながれた“観念”と“現実”」という閉じた世界(系)の外からエネルギーを与えなければなりません。

つまり、外力によって、錘(おもり)を引っ張らなければならないのです。

そのエネルギーの供給源は、例えば、小学校から中学校に進んだというような、環境の変化かもしれません。

人生観(“観念”)を揺るがす言葉に出会って、“観念”が変わったというような出来事かもしれません。

あるいは、“自由意志”という名のプログラマーが、“観念”のプログラムを書き換えたことかもしれません。

【 参考記事 】


なにが言いたいのかというと、今回の記事でモデル化してみた「“観念”と“現実”の法則」は、ただそれだけでは十分に、私たちの人生を説明できないということです。

「“観念”と“現実”の法則」 だけでは、動きのない静的な世界しかつくりだすことができません。

世界に動きを与えるためには、外からの力、外からのエネルギーが必要となるのです。




『“観念”と“現実”の法則』の応用

「“観念”と“現実”の法則」のモデルの説明も一通り終わったので、最後に少しだけ、この法則の応用について考えてみましょう。

今回の記事で考えてきたモデルが正しいとすると、引き寄せの法則(“観念”と“現実”の法則)と上手に付き合っていくためにはどうしたらよいと考えられるのでしょうか?


まずは、おさらいです。

今回の記事で考えたモデルが正しいとすると、“観念”と“現実”の間には、互いに引き合い一致しようとする力(引力)が存在しています。

だから、外からエネルギーを加えて、例えば、“観念”を別の状態に移動させると、“現実”も“観念”が移動した方向に引っ張られます。

そして、もし“観念”が勝てば、いずれ“現実”は、“観念”の位置へと引き寄せられてきます。

しかし逆に、もし“現実”の方が強ければ、一度移動した“観念”は、元の位置に引き戻されてしまいます。

ここに、ポイントがあります。


いわゆる「引き寄せの法則」をつかって、あなたの「現実」を変えようとした場面を想像してみてください。

例えば、あなたは、お金持ちになりたかったとします。

そこで、イメージトレーニングを行って、「私はお金持ちになるのにふさわしい人間だ」という“観念”(セルフイメージ)を、自分自身に信じさせようとしたとします。

しかし、ここで問題が起こります。

そう。

「私はお金持ちになるのにふさわしい人間だ」という“観念”(セルフイメージ) VS 「実際にはお金持ちではない」という“現実”

の綱引きがはじまるのですね。


もし、“現実”が勝利を収めれば、せっかくのイメージトレーニングもむなしく、あなたの“観念”は「やっぱり、私にはお金持ちになるなんてムリなんだ」という状態に戻ってしまいます。

だから、「引き寄せ」を成功させるためには、“現実”に負けない“観念”をつくる必要があります。

これが、1つ目のポイントです。


そして、もう1つのポイントは、「意志」や「意図」といったものが、“観念”と“現実”がつくりだす静的な世界に、「動き」をもたらす原動力になるということです。

すでに説明したように、今回の記事でモデル化した「“観念”と“現実”の法則」が正しいと考えると、“観念”と“現実”は引力によって引き寄せられて一致すると、その後は何の変化も起こらない退屈な世界が待っているはずです。

もし、世界に変化を与えたいと思ったら、“観念”か、“現実”の位置を動かしてあげなければなりません。

「意志」や「意図」が、そのための原動力になるのです。

“観念”をプログラムに例えるなら、「意志」や「意図」はプログラマーです。

【 参考記事 】


もちろん、“観念”や“現実”の位置(状態)を動かすことができるのは「意志」や「意図」だけでなく、例えば「生活環境の変化」などもその原動力にはなり得ます。

これも、すでに書いたとおりです。

しかし、自らの“意志”によらない変化の原動力は、すべて受動的[※4]です。

自らの“意志”で変化を起こしていくためには、自分の“意志”をプログラマーのように使わなければなりません。

あなたの“意志”を、「“観念”と“現実”の法則(プログラムが実行される領域)」の上位である「プログラマーの領域」に置くことが出来れば、あなたは「“観念”と“現実”の法則」を便利な道具として活用することができます。

逆に、あなたの“意志”にかかわらず、やってきた“観念(プログラム)”を無分別に受け入れてしまうような場合には、あなたは「“観念”と“現実”の法則」に振り回されることになるかもしれません。

なお、プログラマーとして“意志”を発動させる際には、「世界を変えるのでもなく、世界に合わせるのでもなく、望み通りの世界をつくるという発想」が役立つかもしれません。

ちなみに、リンク先の記事は、以前公開していた『真実の人生』という物語の前書きを抜粋したものです。

『真実の人生』は、表面的に読んでも気付かないかもしれませんが、裏の意図として、安全で穏やかに「“観念”と“現実”の法則」を発動させることを意図して書かれたものです。

この記事の執筆時点で、『真実の人生』の一般公開は終了してしまっていますが、まだ読む方法ありますので、興味があればコチラ(『真実の人生』の申し込みページ)の説明を、よくお読みください。

お早めに、どうぞ!



補足説明(読み飛ばしてOK)

※4 決して、受動的であることがいけないことだと言いたいわけではありません。受け身の姿勢を使うことも、とても大切なことです。しかし、無条件に受動的であるだけでは、自らの“意志”を活かすことが出来ません。(詳しくは、機会があれば別の記事を書きます。)

また、自らの“意志”によって、能動的に人生を変えるための手段が、必ずしも“観念のプログラム”を書き換えることだけなのかと聞かれれば、そうとも言い切れません。

例えば、“観念のプログラム”などというまどろっこしいことを考えずに、直接的に行動を起こすというやり方も考えられるでしょう。

とはいっても、行動を起こすための判断という行為には“観念”が絡んできます。

だからと言って、「右手を上げる」という行動に“観念”が関係するのかと聞かれれば難しい問題です。

この辺りについては、今後、もう少し考えを深めていきたいと思っています。

最後にもう一度書きますが、今回の記事は、あくまでも仮説ですので、その点ご注意ください。



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