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「罪悪感」は癒せるのか?“和楽”なんて、実現しない?―それを選ぶのは、「あなた」です


公開日:2016年2月21日( 最終更新日:2016年8月27日 ) [ 記事 ]
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「わたしは、幸せになっちゃ、いけないんだ……。」

「罪の意識」は、私たちをそんな気持ちにさせ、私たちを罪悪感の「檻(おり)」の中に閉じ込めようとしてきます。


ずっと望んできたことが、もう少しで現実になりそうだ!

そう思った瞬間に、罪悪感が顔を出し、

わたしが、幸せになっていいはずがない……。

と、自分にブレーキをかけてしまうのですね。


やっかいなことに、この「罪悪感の檻」は、「いま、罪悪感を感じている」と自覚しいている時だけではなく、ふとした瞬間に、無意識的に持っていた罪悪感が顔を出してきたりします。


罪悪感が強ければ強いほど、人生を素直に“楽”しむことは難しくなってしまいます。

また、人との関係でも、満たされた心からあふれ出す、あたたかい“和”につつまれた関係よりも、「罪の意識」から、無理に自分を押し殺して我慢する“取り繕った和”の関係になってしまいがちです。

「罪悪感」は、平“和”に“楽”しく生きるためには、避けては通れないテーマの1つでしょう。


少し前のことになりますが、ある読者の方(匿名を希望されているので、Yさんとしましょう)から、この「罪悪感」についてのご質問をいただきました。(下に掲載します)

頂いた質問の内容が、ちょうどそのときに下書きしていた記事につながる内容だったため、その記事の公開に先立って、まずは頂いたメールをテーマに記事を書いてみたいと思います。

(とは言っても、1月26日にメールを頂いてから、こうして回答の記事が書けるまでに、1カ月弱かかってしまい、大変お待たせいたしました。)




【 Yさま からのメールと、私のコメント 】

※ 太字が頂いたメールで、細字が私のコメントです。


はじめまして。
いくつか記事を読んで元気づけられました。
特に“和楽への道”には深く感動させられました。
ありがとうございます。



(▶ こちらこそ、ありがとうございます。“和楽への道”の詩は、普段、詩など書かない私にとっても、とても印象深いものになっています。)


当サイトの目指すところについて疑問があり、ご連絡いたしました。
かなり長文ですが、目を通していただければ幸いです。
まず、和楽の道とは、調和と自己の両輪がそろった真の幸せを追及する生き方だと個人的に理解しています。



(▶ おっしゃる通り、“和楽”という言葉は「全体の“和”」と「一人ひとりが“楽”しく生きること」の両立(“和”)の象徴という意味を持たせています。ただし、“和楽”という言葉には、もっと広い意味も持たせていますので、「全体」と「個」という意味だけではありません。)


地球と人類とあなた自身のために、今あなたに出来ること」という記事から、和楽の観念で崩壊しつつある世界の好転を目指していることが読み取れました。
しかしながら、この目的は和楽の道とはずれているように思います。
結局のところ、自分が直接関わりを持たなければ、和楽どころか何も感じないことでしょう。
顔も名前も何も知らない人々が70億人以上いる世界です。
また、地球上を隈なく歩きまわることは非現実的です。
真の和や真の楽を生み出すには個人が本気で問題にぶつかり理解することが必須であり、実際、ほとんどの人が目の前のことに困難を抱えるだけで精いっぱいです。



(▶ 全人類に意識を向けるなど、普通に考えれば、ほとんど不可能に思えること。名前も知らなければ顔も知らない異国の人など、所詮は他人にしか思えないこと。“和楽の道”は、平坦なラクな道ではないこと。すべて、おっしゃる通りだと思います。しかし、このことを逆手にとって考えると、面白いことがわかります。それについては、後ほど詳しく説明しましょう。)


和楽の道の本質は、この広い宇宙の中で出会えた他人、土地、時代とかけがえのない自分という存在がうまく混じりあうことではないでしょうか。
この世界を好転させることができれば素晴らしいとは思いますが、屈託のない笑顔で人生の幕を閉じることが和楽の道の目指すべきところだと思います。



(▶ 「この広い宇宙の中で出会えた他人、土地、時代とかけがえのない自分という存在がうまく混じりあうこと 」というのは、まさに“和”の道です。「まぜる」ことは、別の言葉で「“和”える(あえる)」と言います。料理の「和え物」などで使いますね。笑顔で人生を終えることも“和楽の道”の目指すところの1つです。参考:「死に出会うとき、あなたは何を後悔するのだろうか?」)


最後に質問ですが、不幸な事故や自然災害などが原因で大切なものを失ったため癒えることがない傷を負った心を満たすことは可能だと思いますか?
例えば、不運が重なり、自動車で人を轢いて命を奪う結果になった交通事故の加害者の心を満たすことはできるでしょうか?
私は限りなく不可能だと思います。
どんな罰を受けても加害者の罪の意識は消えません。
いつまでたっても何をやっても過去にとらわれたまま死んでいくことでしょう。
真の和楽で満たされた世界に彼の居場所はあると思いますか?
こういった意味においても和楽で包み込まれた世界は嘘だと考えています。



(▶ この「罪悪感を癒すことは出来るのか?」という疑問については、これから少し詳しく考えていきたいと思います。)



長文のご感想をいただきまして、ありがとうございました。

“和楽の道”の記事に元気づけられ、感動されたということで、とてもありがたく感じています。

また、「罪悪感を癒やすことは出来るのか?」という疑問と、「和楽で包み込まれた世界は嘘だと考えています」という率直なご意見も頂きました。


(ちなみに、こういう率直なご意見は、私の気づいていなかったことに気づかさせてもらえることが多いので、とてもありがたいと思っています。ですから、「それは変なんじゃないの?」というご意見も、ご遠慮なくお送りください。ただし、「真剣さ」のない誹謗中傷や、建設的でないご意見は相手にしません。

とはいえ、お褒めのメールや、応援の言葉を頂くことが、私を力づけてくれている側面も大きいですので、応援のメールもお待ちしております。

また、この点は、私としても申し訳ないと思ってはいるのですが、物理的な制約上、頂いたメールのほとんどにはお返事ができていません。メールを頂く際には、その点、あらかじめご了承頂けますよう、お願い致します。)



今回は、このメールについて考えてみたいと思います。




◆ お知らせ ◆
(ここで一旦、お知らせです。記事はまだまだ続きます。)

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罪悪感を消すことは出来るのか?

まずは、「罪悪感を癒やすことは出来るのか?」という疑問について、私なりの答えを書いてみたいと思います。

結論から書いてしまうと、「原理的には、たとえ大きな罪悪感であっても、それを癒やすこともできるだろう」というのが私の考えです。

なぜならば、「罪悪感」「罪の意識」というものは、結局は自分自身でつくりだしているものだからです。


自分自身で、罪悪感をつくる……?

それは、いったいどういう意味でしょうか?


「罪を犯したのは自分自身なのだから」という意味であれば、言っていることは理解できます。

しかし、一度犯した罪は「なかったこと」にはできませんから、いくら自分が罪を犯したことを後悔したとしても、罪悪感を癒やすことは出来ないような気がします。

罰を受けることも同様で、どんなに罰を受けたところで、罪悪感が消えるとは限りません


では、「罪悪感をつくりだしているのは自分自身」というのは、いったいどのような意味なのでしょうか?

そのヒントは、先ほど紹介したメールの中に隠されています。

どこに隠されているのか、わかりましたか?

それは、「顔も名前も何も知らない人々が70億人以上いる世界です」という部分です。


…………。

これが、いったい何のヒントだというのでしょうか?


少しずつ、順番に考えてみましょう。

まず、「罪悪感」というのは、文字通り「罪の意識」ですね。

ということは、「罪悪感」をもつためにには、なにかしらの「罪」を犯す必要がありそうです。

では、この罪というものは、いったい何なのでしょうか?

社会的な合意・ルールという意味では、法律や裁判所が「何が罪で、何が罪でないのか」を決めてくれるでしょう。

しかし、今回の記事でテーマにしているのは「罪悪感」であって、法律やルールではありません

重大なルール違反を犯しても、まったく「罪の意識がない人」もいますし、ルール的には問題ないことでも「罪悪感を感じる人」もいます。

ですから、法律や規則などのルールによる罪の認定は、必ずしも罪悪感には結びつかないように思えます。

では、罪悪感に結びつく「行い」と、罪悪感に結びつかない「行い」の違いは、いったい何なのでしょうか?




どこからどこまでが、「罪」なのか?

今から、いくつか例をあげます。

それぞれ、「罪の意識」を感じるべき罪なのか、思い悩むほどのことではない罪には当てはまらないことなのかを、あなたの感性で判定してみてください。

繰り返しになりますが、ここでテーマにしているのは、法やルールに触れるかどうかではなく、あなたが罪悪感を感じるのか?感じないのか?です。

では、メールでいただいた交通事故の例について考えてみましょう。


  • 高速道路を運転していると、突然、上の歩道橋から飛び降りた人が落ちてきて、ぶつかってしまった。
  • 浴びるように酒を飲んだ酩酊状態で車を運転したあげく、青信号をわたっていた歩行者を轢いてしまった。
  • 車を運転していると、歩道から目を狙ってレーザーポインターを照射してくる人がいた。「うわっ、まぶしい!」そう思った瞬間に、不幸にも道に飛び出してきた人を轢いてしまった。
  • 青信号の交差点に進入したところ、信号無視をして横断歩道をわたってきた歩行者をはねてしまった。
  • 仕事に疲れてウトウトと運転していると、死角から飛び出してきた歩行者にぶつかってしまった。
  • 上のそれぞれの条件で、不幸にも相手の人の命を奪ってしまった場合、障害の残る怪我をさせてしまった場合、不幸中の幸いでたいした怪我ではなかった場合のそれぞれでは、罪悪感は変わるでしょうか?
  • では、相手が人間ではなく、犬や猫、カラス、小さな虫(フロントガラスによくぶつかってくる虫です)、あるいはガードレールや電信柱だったらどうでしょうか?
  • 同じ交通違反でも、スピード違反や、停止線のオーバーの場合はどうでしょうか?


こうして考えると、あることがわかってきます。

それは、この中でどこからどこまでに罪悪感を感じて、どこからどこまでに罪悪感を感じないかは人それぞれだということです。

もちろん、1000人に聞けば999人は罪悪感を感じるであろう項目もあります。

しかし、その項目ですら、1000人に1人くらいは罪悪感を感じないどころか、「散々な目に合った。運が悪かった。」と被害者気分の人もいるかもしれません。

一方で、人それぞれで、意見が割れそうな項目も含まれていますし、ほとんどの人にとっては罪の意識など感じられない項目も含まれています。

このように、同じことに対しても「罪の意識」を感じるのか感じないかの違いは、ひとそれぞれです。


いったいなぜ、ある人にとって「罪」であることが、別の人にとっては「罪とは感じないこと」になってしまうのでしょうか?

その謎を解くためのキーワードは“観念”です。


【 “観念”についての参考記事 】



観念……?

そんな言葉が、いったいどういう風に罪悪感と関係してくるのでしょうか?


私たちは、一人ひとり、罪悪感ならぬ、罪悪“観”とでも言えるような“観念”をもっています。

ここで言う「罪悪“観”」 というのは、何を罪であると考え、何を罪ではないと考えるのかの価値観のことを表しています。

この「罪悪“観”」が変わると、いったいどのようなことが起こるのでしょうか?


例えば、私たち日本人の中には、上の例に書いた、「フロントガラスにぶつかってくる虫」に罪悪感を感じる人は少ないのではないかと思います。

迷惑な存在くらいに思っている人がほとんどなのではないかと思います。

しかし例えば、インドのある宗派の人々は、「歩いている時に虫を踏み潰してしまわないように」と、道をホウキで掃きながら歩くと言います。

Wikipediaによれば、実際にはホウキで道を掃きながら歩くわけではなく、座る場所を掃くためにつかうとのことですが、小さな命も奪わないことに対する想いは強いようです。

他にも例えば、呼吸するときに小さな虫を吸い込んでしまわないように、口に布を当てたりもするそうです。

また、動物に襲われたような場合であっても、動物を傷つけることを避けるため、反撃はしてはいけないそうです。

さらには、インドにやってきたキリスト教の宣教師が、彼らが普段飲んでいる水にはたくさんの微生物がいることを顕微鏡で見せたところ、微生物の命を奪うことを避けるために水を飲まずに衰弱死を選んだ人までいたそうです。

もし彼らに、煮沸消毒している鍋など見せようものなら、きっと「地獄の釜」でも見るような目で見られてしまうのではないかと思います。

彼らは、車のフロントガラスにぶつかる虫どころか、目にも見えない小さな命を奪うことでさえ罪(という言葉が宗教的に正しいのかはわかりませんが)だと捉えているのですね。


そうです。

私たちにとっては罪でも何でもないことが、ある人にとっては、「自らが衰弱死することを選んででも犯したくない罪」であることが、実際の出来事として起こってのです。


では、その逆に、私たちにとって「罪以外の何物でもないこと」が、ある人にとっては、とうてい罪とは思えないような普通の出来事になってしまうことはあるでしょうか?

もちろん、そういう場合もあります

例えば、「娯楽のために人の命を奪う」などということがあったとしたら、私たちの多くは罪悪感を感じると思います。

たとえ間接的にであったとしても、そんな事にはかかわりたくありません。


しかし、古代ローマでは、「命のやりとり」が、見世物として普通に行われていたといいます。

円形闘技場で、奴隷に戦闘時技術を叩き込み、剣闘士として奴隷同士を戦わせたり、猛獣と戦わせたりしていたのです。

この剣闘士を題材にした映画として、「グラディエーター」が有名ですね。




Wikipediaによれば、厳しい訓練についていけずに自ら命を絶つ者(例えば、「 あるゲルマン人の闘獣士は便所の汚物洗浄用の海綿の棒を喉に突っ込んで命を絶ち、またある闘獣士は馬車で移送中に居眠りをしたふりをして車輪に頭を突っ込んだ 」)や、「 ローマ人の見世物として仲間同士で戦わされることを嫌い、互いに喉を絞めあって絶命した蛮族の一団」、「 模擬海戦の最中にこの見世物の愚かさを罵って自殺した蛮族の戦士 」までいたということですから、言葉を失う残酷さです。

(ただし、中には、自ら望んで剣闘士になった人もいたそうです。)


しかし、このような残酷な行いに対して、当時の民衆たちは、間接的にかかわるどころか、積極的に闘技会の開催を要求し、政治家も人気取りのためにこれに応じたと言います。

奴隷に無理やり戦闘技術をたたき込み、奴隷どうしが戦う姿を見世物にするなど、現在の私たちにとっては罪としか思えないようなことではありますが、当時の人々にとっては普通のこと、むしろ楽しい娯楽ですらあったようです。


では、このような出来事は、遠い昔の出来事で、現代に生きている私たちには関係のないことなのでしょうか?

これは、必ずしもそうだとは言い切れません。


現代に生きている私たちも、結構、残酷なことを平然とやってのけています。

例えば、私たちが日常的に使っているスマートフォンや電子機器。最近は、スマートウォッチまで登場しています。

ひと昔前には、夢物語にしか思えなかったような製品が、普通の人が気軽に買える値段で売られています。

しかし一方で、良い悪いは別とした、ありのままの事実として、これだけ高機能な製品が安価に手に入ることの背景には、途上国での劣悪な環境での低賃金労働があることは認めざるをえません。

あまり誰かを批判するようなことは書きたくないので、ここでは具体例はあげませんが、すこし検索すれば、山ほど事例が出てくるはずです。


あるいは、スーパーに行けば、たくさんの食肉が並んでいますが、あらためて考えてみれば、これもとても残酷です。

もし自分が、その立場の家畜として生まれたとしたらどうでしょう?


小さな部屋に閉じこめられ、自由を奪われ、来る日も来る日も、ただ肉質がよくなるような食事を与えられ続ける毎日。

そして最後には、どこかに連れていかれて……。



もし自分の人生がそんなものだったらと想像すると、本当に身の毛もよだつ思いがします。

これも興味があれば、少し検索すれば、いくらでも実例が出てきます。

ただし、特に映像や画像の中には、想像以上にショッキングなものも含まれていますので、心臓の弱い方は閲覧注意でお願いします。


あるいは、「食べるために、ほかの命を頂くこと」は自然の摂理だと認めるとしても、毛皮をとるために養殖されている動物はどうでしょうか?(これも、検索すれば、動画などが見つかります)


とはいえ、ここで言いたいことは、世界をひっくり返してでも、明日からすべての工場や畜産業を完全に廃止するべきだということではありません

私だって、安くて便利な工業製品のお世話になっていますし、肉は食べないのかと言われれば、そんなことはありません。

もしそういったものを、今すぐ完全に機能停止させてしまえば、世界は大混乱に陥ることになるでしょう。

(もちろん、少しづつでも、劣悪な環境の工場での労働を誰かにさせたり、生き物に残酷な一生を強いたりしなくてもいい世界に近づいていくことは望んでいます。“和楽の道”を運営している理由のひとつには、その一助になりたいという想いもあります。)


話を、「罪悪感」に戻しましょう。

ここで伝えたかったことは、私たちは、これだけのことを何の罪悪案もなくやってのけるということです。

(もちろん、こういった問題に罪悪感を感じている人も存在しますが、全体から見れば少数派です。)

こういった状況を生み出している原因は、工場の経営者や家畜のオーナーにだけあるのではありません。

なぜならば、私たちがそういう製品を買わなければ、工場の経営者も家畜のオーナーも、客のつかない商売など続けるわけがないからです。

そうです。この問題は、私たち一人ひとりの問題でもあるのです。

けれども、私たちのほとんどは、スマートフォンを買うときにも、スーパーで肉を買うときにも、まったく罪悪感など感じません

頂いたメールにあったように、遠いどこかの国で、低賃金の児童労働が行われていようとも、普通は他人事にしか感じられないのです。

まさに、「顔も名前も何も知らない人々が70億人以上いる世界です」ということです。


もう、おわかりですね?

自分が持っている罪悪“観”に、それが罪であると書かれていなければ、私たちは相当なことでも、まったく罪悪感なしにやってしまえるのです。

逆に、罪悪“観”に、それが罪であると書かれていれば、息を吸うこと、水を飲むことにすら強い罪悪感を感じるでしょう。


私たちの罪悪“観”が変われば、私たちが何に罪の意識を感じるのはすべて変わってしまいます。

例えば、今の私たちが「奴隷に命のやり取りをさせて、それを見世物にすること」とを罪だと捉えるように、100年後の人類にとっては、「過酷労働でつくられた製品を使うなんて、死んでもイヤ」、「肉を食べるなんて信じられない」という感覚が常識になることがないとは言い切れないのですね。




罪悪感をつくるのかは、最後には自分で決めなければならない

さあ、ここまで長々と書いてきましたが、結局なにが言いたかったのでしょうか?

それは、

あることに罪の意識を感じるか、感じないかを決めるのは、最終的に自分でしかない

ということです。


結局のところ、

罪悪感をつくりだしているのは、罪悪“観”であり、その罪悪“観”を受け入れると決めているのは自分自身なのだ

(もちろん、社会や常識によって植え付けられた罪悪“観”もありますが、常識すらも、最終的にはそれに疑問を持たずに受け入れているのは自分自身です。とても厳しい書き方ではありますが、これが罪悪感を手放すために必要な心構えでもあります。常識を人に植え付けられたと思っている間は、自分を何もできない無力な存在にしておくことしかできませんが、自分が常識を受け入れているのだと気付けば、選択権を自分に取り戻すことが出来ます。)

ということ。


これが、今回の記事のポイントです。

(詳しくは、「観察者の視点と創造者の視点」というテーマで別の記事を書こうと思っています。というか、その記事の下書きをしているときに、冒頭のメールを頂き、ちょうどいいタイミングだったのでこの記事を書きました。)


ある出来事をよくよく観察していけば、どんな出来事でも「罪である」と見なすことも出来ますし、「善である」と見なすこともできます。

歴史を思い出してください。

それまでは「英雄扱いされた行動」が、ある時を境に、「罪深い行為」に変わってしまったことなど数知れません。

乱世に生まれれば、敵の命を奪うことに誇りを感じるかもしれませんし、厳しい自然の中に生まれれば、生贄を捧げ自然の神の怒りを鎮めることを善だと感じるかもしれません。

厳格な宗教的な教えが根付いた地に生まれれば、息を吸うこと、水を飲むことすら罪に感じられるかもしれません。


そして、その意識も、罪悪“観”が変われば移りゆきます。

極論を言えば、「人間が存在することそのものを罪である」と捉えることもできれば、「人間という存在を無条件に善である」と捉えることもできてしまうのです。


そうです。

「罪の意識」も、「英雄的な意識」も、私たち自身がつくりあげているものなのです。

「罪の意識」(ある罪悪“観”を受け入れたこと)が、自分でつくりだしたものであるならば、それを自分で消すことが出来ない道理はありません。


もちろん、私は、たとえ人を傷つけることをしてしまったとしても、それを正当化してしまえばいいと言いたいのではありません

反省すべき点は、深く反省することは必要です。

また、なんの躊躇もなく、自分勝手に人を傷つけてもいいと言いたいわけでもありません。


しかし、次の事実にも、意識を向けてみてください。

私たちは、罪を犯すこともあるけれど、人を勇気付けたり、なぐさめたり、元気づけたり、癒したり、和ませたりしていることもあるはずです。

気付かずに罪を犯してしまうことがあるのと同じように、気付かぬうちに人を助けていることも少なくありません。

では、罪悪感には一生縛られなければならないにもかかわず、こういった「善き行い」はすぐに消えてしまうのでしょうか?


また、私たちの中で、人を傷つけたことが一度もない人など、どこにも居ないはずです。

もちろん、一言で「人を傷つける」と言っても、軽いものから重いものまで、本当に様々な「傷つける」の度合いがあります。

では、その「傷つける」の度合いの中で、どこからどこまでが忘れてしまっても構わない罪で、どこからどこまでが自分を一生、罪悪感の檻の中に閉じ込めておかなければならない罪なのでしょうか?


あなたを縛り続ける罪悪感の檻(ぐちゃぐちゃに絡まった有刺鉄線)

結局、それを決めているのは自分自身です。


例えば、最善を尽くしたにもかかわらず患者を救えなかった医者がいたとしましょう。

彼(彼女)には、そのことに罪悪感を感じ続け、もう2度と患者を診ないという選択肢もあります。

同時に、罪悪感の中に閉じこもるのではなく、反省すべき点は反省したうえで、むしろその出来ごとをきっかけにするくらいの気持ちで、さらなる医療の道に進むという選択肢もあります。

同じように、医療の道を進む場合でも、罪悪感から、義務として医療の道を進むことを自分に課している場合もあるでしょう。

もちろん、他にも選択肢は無限にあります。

そして、どの選択を選ぶのかは、最終的には本人が決めることです。


本人が罪悪感を感じると決めたなら、周りが何を言おうが、本人は罪悪感を感じ続けることになります。

逆に、周りがどんなに罪悪感を植え付けようと努力しても、本人にその気がなければ、罪悪感など微塵も感じないでしょう。

別に、どちらが正しい、正しくないという話ではなく、「何を選ぶのか」という選択の問題です。


不幸にも、車で事故を起こしてしまった人の場合も同じことです。

もちろん、罪悪感の中に生きることも本人の選択です。

ですが、反省すべき点は反省したうえで、その出来事を何か良いことのきっかけにするという選択も出来るはずです。

(もちろん、法的な責任を果たすのは前提です。)

例えば、その人がエンジニアだったとしたら、それは、事故を起こさない車の開発に取り組むきっかけになるかもしれません。

あるいは、地域の交通安全活動にボランティアとして参加すること、あるいはまったく別の何かかもしれません。


勘違いしないで頂きたいのは、事故を起こしても、「な~んにも気にしなくていい」と言いたいわけではないということです。

また、必ずしも法的な責任以上の償いをしなければいけないと言いたいわけでもありません

(そもそも、「償い」という言葉の中には、罪の意識が含まれています)


私が言いたいことは、ある出来ごとに対してどう感じて、どう行動していくのかは、最後には自分で決めなければならないということです。




罪悪感は「現実」を変える。罪悪感は、しっかりと受け止めて手放してしまいましょう。

ただし、覚えておいて頂きたいこともあります。

それは、私たちが強く持っている“観念”には、それが現実になる方向の力が発生するということです。


【 参考記事 】


例えば、ここに、「私は罪悪感を感じ続ける」と決めた人がいたとしましょう。

その人は、同時に、「私は罪深い人間だから、幸せになってはいけない」という“観念”を持っていたとします。

(「罪悪感」と「私は罰せられるべき存在だ」という“観念”はほぼイコールと言っていいでしょう。というよりも、この“観念”こそが罪悪感の正体かもしれません。その証拠に、「罪を犯した」という自覚があっても、幸せそうにニコニコ笑っている人がいたとしたら、誰も「この人は罪悪感を感じているんだろうなぁ」とは思わないはずです。罪悪感は、「自分を罰すること」「自分を幸せにしないこと」に深く結び付いているように思えます。)


もし、「“観念”にはそれが実現する方向の力が働く」ということを認めるのだとすれば(上の参考記事を参照)、その人には、当然、幸せになれない方向の力が働き続けることになります。

罪を犯したのだから、幸せになれないのは仕方がない。罰を受けるのは当然。

もちろん、そういう考え方もあるでしょう。


しかし、思い出して下さい。

法に触れる触れないは別として、小さなことまで含めれば、これまでに一度も罪を犯したことがない人など、世の中に存在しないはずです。

そして、私たち人間は、必ずミスを起こす生き物ですから、これからの人生の中でも、きっと罪を犯すことでしょう。

もし、「罪を犯したら、その罪の重さに応じた“罪悪感”を持ち続けて、不幸になり続けなければならない」のだとしたら、この世界は不幸への連鎖、無限スパイラルになってしまいます。

そして、私たちは、自分が不幸だと感じている時、人を思いやる余裕を失ってしまうことが少なくありません。

【 参考記事 】

場合によっては、

私はあのミスをしたときにこんなに罪悪感を感じて、自分に罰を与え続けているのに、あの人は同じミスをしたのに、私より罪悪感を持っていない!

と、お互いに罪悪感を持つことを強制し始めるかもしれません。

“和楽”という言葉に関連付けるなら、人々が互いを思いやる本当の“和”が失われ、「罪悪感を感じたくなきゃ、ミスするなよ。悪いことするなよ。」という“綱引きによる秩序”で“和を取り繕っている”状態です。


また、自分が不幸でいることを望むのだとしたら、当然、人生を楽しむことが出来なくなってしまいます。

これも、“和楽”という言葉に結びつけるなら、“楽”を抑圧するということです。

“楽”を抑圧するならば、時間も忘れて楽しめること(“天与の才能”)を通して、誰かに貢献する(仕事にするという意味を含む)ことも出来ません

(私は、“才能”の鍵は、「楽しめること」にあると思っています。なぜならば、暗い顔をして嫌々取り組んでいることで大きな成果が出るということは、ほとんどないでしょう。)

ですから、罪悪感は人々の才能をも封印することにつながりかねません


罪悪感という檻に囚われ続けることは、私たちの人生、そして世界から、“和”や“楽”を奪うことにつながるでしょう。


その意味から、「真の和楽で満たされた世界に彼(注:罪悪感に囚われた人)の居場所はあると思いますか?」という質問に答えるなら、次のようになります。

彼が、罪悪感に囚われ続けることを選ぶなら、“和楽の世界”に居ることは難しいでしょう。

しかし、次のように言うこともできます。

“和楽の世界”に居ることを選ぶなら、それは不可能なことではないでしょう。


ポイントは、「他人がつくった、“和楽”の世界に彼の居場所があるのか?」 ではありません。

彼が、自分の世界を“和楽”に満たされたものとしてつくるのかどうか?

がポイントなのです。



もう一度書きますが、罪悪感をつくっているのは、最終的には自分自身です。

誰かからどんなに強い恨みを買ったとしても、周囲がどんなに罪悪感を感じさせようとしても、本人が罪悪感を感じている演技をしていたとしても、本人に罪悪感を感じる意志(ある罪悪“観”を受け入れる意志)がなければ、罪悪感に囚われることはないでしょう。

逆に、誰がどう見って仕方のない不運な出来事で、周りの人がどんなに「気にすることはないよ」と声をかけたとしたって、本人にその気がなければ、罪悪感は居座り続けるでしょう。


深い罪悪感に囚われ、不幸な人生と世界をつくり続けることも、ひとつの選択です。

反省すべきことは反省はしても、罪悪感は水に流し、それをプラスに転化して自分と世界の幸せをつくり出すことも、ひとつの選択です。

それは、一人ひとりが決めなければならないことです。


というわけで、私の結論としては、

自分の深いところで「罪悪感を癒す」と決めたなら、そうなるしかありませんし、「罪悪感を持ち続ける」と決めたなら、そうなるしかありません。

ということになります。

それを決めるのは、他ならぬ、あなた自身です。


罪悪感を癒そう!力強い命を感じさせる、美しい新芽


また、原理的には、「どんな罪悪感だって、自分でつくっているのだから、自分で消すこともできる」と言っても、簡単には罪悪感が消えてくれないことだってあります。

正直言って、私も、たくさんの罪悪感を抱えています。


ですが、「罪悪感を持つこと」に罪悪感を感じる必要はないと思います。

向上を目指す気持ちは尊いもですが、「完璧でなければならない」という“観念”は、罪悪感を生んでしまします。

そして、その罪悪感は「自分は完璧ではないという体験」をつくりだし、自分を、さらに完璧から遠いところへと追いやってしまうでしょう。

逆説的ですが、自分が罪悪感を感じていることを押し殺してフタをしてしまうのではなく、しっかりと罪悪感を受け止め、感じ、認めてあげた方が、より早く罪悪感を手放すことにつながると思います。




“和楽”の世界は実現するのか?―それを決めるのも、最後は私たち

さてさて、もうかなり長くなってしまいましたが、後少しだけ、頂いたメールのもう一つのテーマだった「“和楽”の世界を実現するなど、現実的に不可能ではないか?」ということについて考えてみたいと思います。

この記事では、ここまでに、罪悪感を生み出しているのは、他ならぬ自分の“観念”なのだということを書いてきました。

つまり、“観念”の力によって、罪悪感という“幻想”を、実体のある“現実”として、つくりあげているのですね。

ところで、「罪悪感」の他にも、“観念”の力によって、実体の感じられる“現実”として創造された“幻想”は存在するのでしょうか?

例えば、「お金」というものが、このことを説明するのにぴったりの事例になります。

「お金」が幻想……?

そう聞いて、びっくりされる方もいるかもしれませんが、これは、知っている人にとっては、わざわざ書くほどのことでもないレベルの常識です。

(詳しくは、別の機会があれば書きたいと思っていますが、今のところは、興味があれば、ネットを検索してみてください。きっと、そのことについて説明された記事がいくらでも出てくると思います。)


▶ 「お金」についての記事を書きました。こちらの記事も、ご覧ください。

【 参考記事 】



といっても何の説明もしないのも、少し乱暴かもしれませんので、ひとつだけ例をあげましょう。


いま、私たちは、「お金には価値がある」と強く信じています(信用しています)。

それは、そうですよね?

だって、スーパーやコンビニ行ってお金を払えば、売っている物は何でも買えますし、お金を払えば人を雇うことだって出来ます。

しかし、もし仮に、全国スーパーやコンビニが、「ウチはお金(日本円)じゃ物は売りません。これからは、買い物をしたければ、金貨や銀貨を持ってきてください。」と言い出したらどうでしょう。


そうなれば、お金の「信用」は大きく揺らぐことになります。

これも、当たり前のことですね?

なぜならば、これまでは「お金があれば、生活に必要な物は手に入る」と信じられる状態でしたが、お金で買い物が出来ないとなれば、「お金があれば、生活に必要な物は手に入る」とは、思えなくなってしまいます。

これは、「お金には価値がある」という「信用」(の一部)が失われたことを意味します。

そして、多くの人々が「お金があっても、生活に必要な物は買えないかもしれない」と信じ始めれば、サラリーマン達は「給料はお金ではなく、金貨や銀貨で払ってくれ!」と雇い主に要求するでしょう。

大家さん達も、「これからは家賃は金貨や銀貨で払ってください」と言い始めます。

街の美容室や庭師などの個人事業主も、お客さんにお金ではなく、金貨や銀貨を求めるでしょう。

もし仮に、そんな事が起これば、「お金(日本円)」は、文字通り「ただの紙切れ」になってしまいます。


それは、そうでしょう。

お金があっても、買い物も出来なければ、人を雇うことも出来ず、家賃も払えなければ、髪を切って貰うことも、庭を手入れして貰うことも出来ないのですから、そんなモノは誰も欲しがりません

そうです。

信用を失った通貨(お金)は、文字通り「ただの紙切れ」でしかないのです。

逆に言うと、ある通貨が価値を持つためには、それに相応しい「信用」を得なければならないということです。


少し刺激的な表現を使えば、お金という「ただの紙切れ」でしかない“幻想”は、私たちの「お金には価値がある」と信じる“観念”によって、はじめて実際に価値のある“現実”として創造されているということです。

そうです。

罪悪感と同じように、お金(の持っている価値)も、私たちの“観念”がつくり出したものだったのですね。


とことで、この、私たちが信じることが、ただの“幻想”でしかないことすらも、私たちが実体を感じられる“現実”として創造される方向の力となるのだという作用を認めるとすると、どんなことが言えるでしょうか?

それは、たとえ“和楽”という概念が、今は“幻想”にしか思えなかったとしても、その“幻想”を皆が受け入れれば、いずれその“幻想”が“現実”になるということです。

(詳しくは、とても1つの記事に書けるような内容ではないので、今後もこのことについては記事にしていきたいと思っています。)


ですから、今回メールを頂いた読者の方をはじめとして、読者の方々が「“和楽”なんて、ただの理想論」と感じられるのは、ある意味では当然のことなのです。

だって、もし大半の読者の方が、「そうだよね。そうそう。本当に、世界って“和楽”の概念そのものだよね!」と共感していただけるような状態であれば、とっくに“和楽”という幻想は現実のものとなっているはずです。


ですから、“和楽”の世界をつくるために、世界中をくまなく歩き回る必要はありません。

“和楽”の観念に共感し、受け入れようと思う人が1人増えるごとに、“和楽”の世界がつくられていくはずです。

例えば、ある家族が、“和楽”の観念を深い部分から受け入れたとしたら、その家庭という世界には、“和楽”の方向に近づく力がはたらきます。

それが、あるプロジェクトチームなら、そのチームがつくりだす世界が、会社なら、その会社がつくりだす世界が、そしてそれが人類なら、地球という惑星“和楽”に近づくはずです。


思い出してください。

ただの「紙切れ」でしかなかったお金に価値をつくりだしているのは、私たち自身です。

今、世界中のほとんどの場所で、その地の人々に信用されている「紙切れ」を差し出せば、食べ物も宿も手に入れることができます。

私たちが、現在の便利な経済システムの恩恵を享受できるのも、その「紙切れ」のおかげです。

一方で、その「紙切れ」に執着するあまりに人生を狂わせる人もいれば、「紙切れ」を奪おうとして人を傷つける人もいます。

さらには、上に書いた、過酷労働が起こる背景にも、この「紙切れ」の存在が無視できません。

今、私たちがつくりだしている世界では、何をするのにも、ほとんど必ずと言っていいほど、この「紙切れ」が関係してきます。

もし、「お金」というものを知らない宇宙人が地球に訪れたとして、今の地球人が「お金」の為に必死になる姿を見れば、「なんで、あんな紙切れのために……」と腰を抜かして驚くかもしれません。

ただの「紙切れ」でしかなかったモノを、知らない人が見れば、腰を抜かして驚くほどに価値のある「紙切れ」としてつくり出しているのは、他ならぬ私たち自身です。

私たちの“観念”が、ただの「紙切れ」に世界を動かすほどの力を与えられるのだとすれば、私たちの“観念”が、「“和楽”に満たされた世界」をつくることも可能だとは思いませんか?

じゃあ、本当に、“和楽”の観念が世界的に拡がることはあるのかというと、それは、私にはわかりません。


実は、私が“和楽の道”を始めた当初から気を付けていることのひとつに、「読者の“意志”に問いかける」ということがあります。

つまり、私の考えや提案は、出来る限りの表現で伝えはするけれど、その結果、なにを選ぶのかは読者にゆだねるということです。

もちろん、必ずしもそう出来ていない部分もあるかもしれません。

また、ハッキリと「これが正解です」と断言しない表現に、歯切れの悪さを感じている方もいるかもしれません。

ですが、私は、「誰かが誰かに正解を与える」という風潮も変えたいのです。

もっと言ってしまえば、「正解を押しつける」風潮です。


これが正解です!これで、すべてが上手くいきます!!

そう声を大にして叫べば、依存的な人が集まってくれるかもしれません。

しかし、他人に与えられた「正解」に従っていきることが、本当に自分の人生だと言えるでしょうか?

これは、「あなたの人生を取り戻す、8つの質問」にも書いたことですが、そうやって誰かが出してくれる「正解」に依存している限りは、「あなたの人生を取り戻す」ことはできません。

(もちろん、自分の“意志”で、他人の意見に賛同して受け入れることには、何の問題もありません。問題なのは、自分の“意志”が不在のまま、他人の“意図”に流されてしまうことです。)


依存する姿勢は、真の“和楽”とは相容れません。

“和楽”は、自立という概念と切っても切り離せないのです。

(もちろん、自立した個人同士が支え合うという意味での依存は“和”と呼ぶに相応しいでしょう。)


例えば、これまでの社会では、「はい、これが正しい考え方です。黙って受け入れてください。受け入れられなければ、社会不適合者です。」というやり方が、往々にしてまかり通ってきました。

つまり、「依存する側」、「させる側」という関係です。

あまりこのようなことは書きたくないのですが、学校教育の在り方などは、まさにそのものです。

(私もこんなことばかり考えている人間ですから、学校社会での「正解」に馴染めずに、学校生活ではずいぶんと苦労しました……。)

しかし、そのような強制によって、見た目には秩序的な社会が出来たとしても、それは“取り繕った和”に過ぎません

“取り繕った和”は、真の“和楽”とは相容れない在り方です。


「依存する側」、「させる側」という関係では、真の“和楽”は実現しないのです。

だから、“和楽の道”は、(それがどこまで出来ているかは、自信のない部分も多いですが)「読者の“意志”に問いかける姿勢」を続けたいと思います。

ですから、“和楽”の観念がどこまで世界に受け入れられるかは、ひとえに、読者である「あなた」の“意志”にかかっています。

ただの「紙切れ」が世界を動かすほどの力を持ったのと同じように、“和楽”という観念が世界を動かす力を持てるかどうかは、私たちの“意志”にかかっているのです。


ただ、1つだけ言えることもあります。

それは、「“和楽”なんて実現するわけがない」と信じることは、「“和楽”が実現しない世界」を実現する方向の力を生み出すということです。

私は、私にとって“楽”しめる方法で、“和楽”を目指します。

地球という世界が“和楽”につつまれるかどうかは、私ひとりが決められることではありませんが、少なくとも、私の人生という世界は“和楽”で満たすつもりです。


さあ……。

あなたは、なにを選びますか――?








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