子供にもらった不思議なお金―“幻想”が世界を“創造”するプロセス
「ハイ、1億円あげるよー!」
そう言うと、あなたの知り合いの小さな子供が、1枚の紙切れを差し出してきました。
「ありがとー!うれしいな~。」
あなたは子供を喜ばせようと、笑顔でお礼を言うと、その「お金」を受け取りました。
その「お金」は、見たことも聞いたこともないボロボロの紙幣で、よく見ると、オモチャにしては妙にリアルな雰囲気を醸し出しています。
紙の質感、細部にまでこだわった作り込み、端の細かい破れや、しわくちゃ具合……。
まるで、本当に長年使いこまれてきたかのような風格が滲み出ています。
その雰囲気は、よくある「こども銀行券」のそれとは一線を画すもののように感じられました。
そして何よりも奇妙のなのは、日本語でもなければアルファベットでもなく、かといってアラビア数字でもない、これまで一度も目にしたことのない文字が書かれていたことです。
もちろん、世界には、さまざまな紙幣があることくらいは知っている。
でも、こんな雰囲気のお金は、生まれてから一度も見たことがなかったのです。
「珍しいお金だね?これ、どうしたの?」
「保育園でもらってきたんですよ。お友達がくれたとかで。」
不思議に思って聞いてみると、子供よりも先に、その子のお母さんが答えてきました。
「そうなのー!ゲームで使うのー!!」
その子も、一生懸命答えてきます。
(最近のゲームは、妙に凝ったつくりの道具を使うんだなぁ。ボロボロなのは、何度もゲームで使っているからか……。)
「お金はちゃんとお財布にしまわなきゃダメですよ~!ママがいつもそう言ってるよ。」
まじまじと「お金」を見ていると、その子は、「お金」を財布にしまうように促してきました。
きっと、「おままごと」でもしている気分なのでしょう。
「ありがと。でも、ゲームで使うんでしょ?これ返すよ。」
あなたがそう答えても、その子は、財布にしまうようにと駄々をこねてきます。
「ダメなのー!お金は、お財布にしまわなきゃダメなの~!!」
困ったあなたは、本当にもらっていいのかと、その子の母に目をやると、まだ何枚もあるので、貰ってやって欲しいということなのでした。
「そういうことなら、ありがたく頂きます。1億円もくれて、ありがとね~。」
そう言うと、少し面倒に感じながらも、あなたはその「お金」を財布へとしまいました。
用事を済ませたあなたは、知り合いの家をあとにして、自宅に帰りくつろいでいます。
すると、ふと、さっきの妙にリアルだった「お金」のことを思い出しました。
財布から取り出して、もう一度まじまじと見てみると、最初は奇妙に思えたそのデザインも、案外、格好のいいデザインに思えます。
そのデザインが気に入ったあなたは、アクセサリー感覚で、定期入れの透明になっていて中が見える部分に、そのお金を折りたたんで入れました。
数日後――。
あなたは久しぶりに同窓会に出席して、学生時代に仲のよかった友人グループで集まって楽しく談笑していました。
そんな中、話の流れでお金の話になった時、あなたは、ふと、例のお金のことを思い出します。
「そういえば、この前、知り合いの子から、こんなお金もらったんだ。オモチャのお金だけど、結構いいデザインだと思わない?」
「たしかに、格好いいデザインだな」
「えっ、ボロボロじゃん」
反応はさまざまでしたが、そんな他愛もない会話をするうちに、和やかなムードの中で話題も自然に別の内容へと移っていきました。
たった一人の男を除いては……。
しばらく経つと、あなたの友人の一人が、自然な頃合いを見計らって、あなたを人気のない物陰に誘い出しました。
いつも冷静な彼が、落ち着きがない様子なので、どうしたのかと思っていると――。
「さっきのお金は、いったいどうしたんだっ!?」
彼は、血相を変えて、あなたを問い詰めてきます。
その友人は、学生時代から成績が良く、今は大きな銀行の銀行員として働いています。
あまり詳しくは聞いていませんが、ウワサによれば、その銀行の中でも、かなりのエリートコースを歩んでいるということでした。
先ほど、みんなにお金を見せたときも、銀行員の彼が一番興味を示すと思っていたのに、何も言わずに無表情でお金を見つめていたので、少し不思議に感じていたのですが、それはどうやら、冷静さを装っていただけのようです。
今の彼は、周りに悟られないようにと小さな声で話してはいますが、明らかに、興奮しています。
「あのお金は、オレ達銀行員ですら、一部の限られた人しか知らない「1億円の価値がある紙幣」だぞ!?それに…………。」
その後の言葉は、まったく耳に入って来なかった。
あまりの衝撃に、あなたの頭は真っ白になり、しばらく何も考えることができませんでした。
少したって意識が戻ってくると、今度は、自分の手の様子がおかしいことに気が付きます。
ついさっきまでなら、紙ヒコーキにして飛ばすことだってできた「ただの紙切れ」を持つ手が、ガタガタと震えているのです。
そして、少しずつ冷静さを取り戻しつつある頭の中には、次々と思考がわきあがってきます。
(ヤバいヤバい、どうするこんな大金。これだけあれば、7割貯金しても、あれも出来るし、これも出来るし……。)
(でも、このお金は、やっぱり、あの子に返さなきゃいけないよな……。でも……。)
(それに、みんなに見せなきゃよかった。もし本当に、あれが1億円なら、札束満載のアタッシュケースを見せびらかしたようなもんだもんな。)
(っていうか、こんなの持ってて、警察に目をつけられたりしないのかな?)
「あぁ、これからどうしよう……。」
あなたは、思わず、そう呟いてしまいました。
(※ 当然のことながら、この物語はフィクションです。)
と言っても、私は、小説が書きたかったわけではなく、今回のテーマは、ズバリ「お金」です。
この思わせぶりな書き出しの意味については後ほど説明するとして、まずは、この質問に答えてみてください。
「当たり前だろっ!バカにするな!」
そう言いたくなる気持ちはわかりますが、ちょっと待ってください。
私が聞きたいのは、「1万円札を知っていますか?」とか、「穴があいているのは5円玉ですか?100円玉ですか?」とか、そういうことではありません。
では、少し、質問を変えてみましょう。
こうなると、少し難しくなるのではないでしょうか?
もちろん、わかっている人にとっては、これも常識レベルの、聞くまでもない質問です。
ですが、知らない人にとっては、結構難しい質問なのではないでしょうか?
もったいぶらずに答えを書いてしまうので、もし、自分でも考えたい場合は、ここで止まって少し考えてみてください。
わかっている人には当たり前のことですが、初めて聞いた場合には、少し驚かれたかもしれません。
ですが、これ。
決して、私が勝手に言っているわけではないのです。
例えば、有名な人では、池上彰さんが、こう言っています。
たしかに、お金を使いなれた私たちにとっては、お金と言う存在は実際に確固として存在しているように感じられますが、そうでない人が見れば単なる幻想にしか見えないかもしれません。
例えば、お金など見たことも聞いたこともない時代の人が、現代にタイムスリップしてきたとしましょう。
その人が、「紙切れ」を渡すことを条件に、年をとって力も弱った経営者が、大学を出たばかりで力も強い若者に対して理不尽な要求を通しているところを目撃したら、どう思うでしょうか?
「なんで彼は、どう見たって力では負けない相手の要求を、あんな紙切れのためだけに呑んでいるの?」
そう思うのではないでしょうか?
私たち自身も、「お金には価値がある」という“幻想”にまだ慣れていなかった小さな子供の頃であれば、平気な顔をして一万円札をビリビリに破くことも、グチャグチャに丸めることもできたはずです。
そんなことができるのは、まだ“幻想”を信じていなかったからに他なりません。
他にも、以前書いた「罪悪感は癒せるのか?」という記事の中でも、お金は“幻想”だということを、例をあげて説明しています。
では、いったいどのような経緯で、私たちは「お金には価値がある」という“幻想”を信じるにいたったのでしょうか?
なるほど。まずは物々交換から始まり、次は、「お米」を現在のお金の代わりのような形で使うようになったのですね。
そして次は、金属のお金が使われるようになりましたが、大量の金属を持ち歩くのは大変だという問題が出てきたそうです。
ではその後には、いったい何が起こるのでしょうか?
なるほど。なんとなく流れがつかめてきたような気がします。
子供向けの雰囲気にはなってしまいますが、造幣局のWEBサイトでも「日本の貨幣の歴史」というページで、もう少しだけ詳しい年表が書かれています。
(ちなみに、造幣局というとお札を印刷してそうなイメージですが、造幣局がつくっているのは100円玉や500円玉などの硬貨となります。)
池上さんの解説にせよ、造幣局の年表にせよ、大枠では同じような流れが見えてきます。
簡単にまとめてみましょう。
最初に、お互いの必要としているものを交換(あるいは与え合う)する「物々交換」が始まりました。
それが次第に、米や塩などをお金のように使う「物品貨幣」が使われるようになります。
その次には、金などの貴金属を貨幣として使うようになり、それが、金の預かり証としての紙幣の誕生につながります。
そして、その「金本位制」の下では金と交換できる預かり証だった紙幣が、今度は金と切り離されて、金とは交換できなくなったものが、現代の私たちが使っている紙幣です。
この流れをよく見てみてください。
よく見てみると、この一連の流れが、お金に対する“幻想”を育んできたとは思えないでしょうか?
つまり、最初は、米や塩などの、実際の生活で役に立つものがお金として使われ始めました。
「実際の生活で役に立つ」ということは、当然のことながら欲しいと感じる人がたくさんいるわけですから、多くの人が価値を感じているということになります。
ですから、その「実際に価値のある米や塩」を、交換の媒介に使うことには、お金という“幻想”をまだ受け入れていない人々にとっても、心理的な抵抗は小さかったと思われます。
この経験が、実際に交換する以外のモノを、“価値の象徴”として交換することに、人類を慣れさせてくれたのではないでしょうか?
こうして“価値の象徴”を扱うことに慣れてきた人類は、より便利な、次なる“価値の象徴”として「金」(などの金属)を選ぶことになります。
(「お金(おかね)」と「金(きん)」の文字が紛らわしいので、以下では、「金(きん)」のことを、適宜、「ゴールド」と呼ぶようにします)
ゴールドは、米などに比べれば直接的に生活の役に立つわけではありませんが、まだまだ、“価値の象徴”として扱うにふさわしい存在感を放っています。
どういうことかと言えば、ゴールドは、なかなか手に入らない上に、色も変わらずに美しく輝き続けるということです。それに、ずっしりと重い重量感もあります。
画像:Mark Herpel(digitalmoneyworld)
(もし、ゴールドがどこの家の庭にも小石のように転がっているくらいありふれた金属だったとしたら、“価値の象徴”にはなり得なかったでしょう)
そして、その次は、「金(きん)の預かり証」がお金(おかね)として使われるようになります。
「ゴールド」を“価値の象徴”として扱うことに慣れた人々であれば、「金の預かり証」を“価値の象徴”と見なすのも難しくはないでしょう。
ただの「紙切れ」であっても、それがゴールドと交換できるなら、その「紙切れ」にもゴールドと同じだけの価値があるように感じるようになるのは、自然な流れだからです。
(もちろん、預かり証の発行主が、必要な時に、間違いなく「預かり証」と「ゴールド」を交換してくれると信用できる人であることは大前提とした場合です)
しかし、もうこの時点では、“価値の象徴”として扱う「紙切れ」自体には何の価値もありません。
「金と交換できる」と信じているからこそ、ただの「紙切れ」に価値をを見いだすことができたのだろうと考えられるのです。
このことは、想像以上に大きな意味を持っています。
それは、そうやって紙幣をお金として使う経験が、「ただの紙切れ」を“価値の象徴”として扱うトレーニングとして機能しただろうということです。
もし、このステップを踏まなければ、今の私たちが使っているタイプのお金(ゴールドによる価値の裏付けのないお金)の導入は、このステップを踏んでいた場合に較べて、遥かに難航していたのではないかと思います。
それはそうでしょう。
生活に必要不可欠な「米」や「塩」、あるいは、希少性が高く美しいゴールドでの支払いが慣れている人たちに、いきなり、「これはお金と言って、とても価値のあるものだから、これと引き換えに、一日間、雑用を引き受けてもらえませんか?」と頼んでも引き受けてもらうのは難しいでしょう。
しかし、そんな時に、「でもね、これはただの紙切れに見えるかもしれないけど、銀行に持っていけばゴールドと交換できるんですよ」と言うことができれば話は別です。
いつもの支払いで慣れ親しんだゴールドと交換できるのなら、と納得して仕事を引き受けてくれる可能性は高まるでしょう。
そうやって「紙切れ(紙幣)」による支払いに慣れ親しんだ後であれば、「ゴールドと交換することが出来ない紙切れ(紙幣)」も、初めて紙幣を見る人に比べれば、遥かに簡単に受け入れることができるでしょう。
そして、「金(きん)の預かり証」だったお金が、この「ゴールドとの交換が出来なくなるステップ」を経ることで誕生したのが、現在の私たちが使っているお金です。
こうなってしまうと、お金として扱われる「紙切れ」には、「紙切れ」以上の価値はありません。
紙の材料費などたかが知れていますし、金との交換が保証されているわけでもありません。
(ちなみに、一万円札の原価は、約20円程度だそうです。)
それでも、その「紙切れ」が“価値の象徴”として機能しているのは、私たちが「お金には価値がある」と信じ、“価値の象徴”として扱っているからに他ならないでしょう。
つまり、「みんなが価値があると思っているから、本当に価値が生まれてしまう」という“共同幻想”が生み出されるわけです。
例えば、そんな社会に生まれてきた子供を思い浮かべてください。
その子は、まだまだ純粋無垢で、お金という名の“幻想”など知る由もありません。
しかしその子は、成長の過程で、不思議な「紙切れ」を大人たちが大事に扱っている場面を目撃するでしょう。
その「紙切れ」がなければ、スーパーで食べ物を手に入れることが出来ないのです。
それだけではありません。服を買うのにも、電車に乗るにも、髪を切ってもらうのにも、旅行に行くのにも、その「紙切れ」が必要になります。
その子が、その「紙切れ」を雑に扱うと、大人たちから「大切に扱いなさい」と怒られてしまいます。
お小遣いが足りないばかりに、欲しかったマンガやゲームを我慢しなければならないという経験もするでしょう。
その「紙切れ」をめぐって、大人たちが大声を張り上げて争う姿も目撃するかもしれません。
月に手に入れられる「紙切れ」の枚数で一喜一憂する大人の姿も目にするでしょう。
場合によっては、その「紙切れ」を巡って、人の命が失われる場面すら見聞きするかもしれません。
たくさんの「紙切れ」を持っているからと言って、あまり「紙切れ」を持っていない人を見下す大人や、「紙切れ」を渡せば人を支配できるとでも言わんばかりの大人に出会うこともあるでしょう。
このような、日々の小さな出来ごとの積み重ねが、真っ白だった子供の頭に、「お金には価値がある」という“幻想”を、当然のこととして信じさせてしまうのです。
もう少し詳しく説明しましょう。
ここまで、何度も書いてきたように、「お金」は“幻想”です。
20円ちょっとの「紙切れ」が、その500倍もの価値のある一万円札として扱われています。
それどころか、銀行口座に入っていれば、たとえ一億円でも、通帳に印刷されたインクか、PCの画面に表示された数字に過ぎません。
しかし、「お金には価値がある」という“幻想”を「信用」することによって、“幻想”は“現実”として創造されます。
冒頭の物語を思い出してください。
それに価値があると信用するまでは、紙ヒコーキにして飛ばしてしまうことすら出来た一億円札(物語内の架空のお金)です。
しかし、それに本当に価値があると信じた瞬間、一億円札を持つ手はガクガクと震えだしました。
喜び、不安、恐怖……etc。
様々な感情が、心の中を駆け巡りました。
これ。当たり前のことのようですが、凄いことですよ。
手にしていたのは、さっきも今も、まったく同じ1枚の「紙切れ」です。
しかし、それに「価値がある」という“幻想”を受け入れるだけで、実際に感じている感情を、完全につくり変えてしまいました。
喜びや恐怖の感情が現れたのも、お金に関係する思い込みが原因です。
例えば、「お金には価値がある」という思い込みが、「その価値あるモノを手に入れたのだからうれしい」という感覚を生み出すかもしれません。
「大金を持っていれば、誰かに狙われる」という思い込みが、「誰かに狙われたらどうしよう」という不安や恐怖を生み出すかもしれません。
でも、思い出してください。
物語で、本当に「一億円札」が一億円の価値があるかどうかは明かされていません。
知り合いの子供と、銀行員の友人が「一億円の価値がある」と言っていただけに過ぎません。
(しかも、子供に「1億円だよ」と言われても、ほとんど感情は動きませんでしたが、銀行員の友人が「1億円だ」と言うのを聞いた途端に、一生忘れられないくらいに激しく感情を動かしています。これが、“幻想”を信じた(受け入れた)途端に、“現実”が変わるということです。)
もしかしたら、みんなでドッキリをしかけようと、演技をしているだけかもしれません。
もし仮に、物語の中でも、一億円札などというものは、ただの冗談で、本当には存在しなかったとしましょう。
それでも、本当はただの「紙切れ」でしかない一億円札に、「一億円札の価値がある」という“幻想”を信じるだけで、本当に一億円を手にしたのと同じような感情が呼び起こされたことは注目に値します。
そう、“幻想”は、少なくとも彼(彼女)の中では、“現実”として創造されたのです。
そしてもし、この“創造”が、一人の中ではなく、集団の全員に起こったらどうでしょう?
つまり、誰もが、ニセモノの一億円札を、本当に一億円の価値があると信じてしまったということです。
そうなれば、たとえニセモノのであっても、誰もが取引に応じてくれるのですから、何不自由なく、本物の一億円札として使うことができます。
(なかなか1億円もの大金を使う機会は少ないと思いますが、その点については、今は考えないことにしましょう。)
もはや、誰かが、「その一億円札はニセモノだ!」と指摘するまで、それは本当の一億円として機能してしまうはずなのです。
いや、誰かが指摘しても、誰もその言葉を信じようとしないかもしれません。
「今までずっと使われてきたこのお金が、ニセモノの訳がないだろう!」
と、誰も、彼の言葉に耳を傾けないのです。
それどころか、真実を語ったはずの彼が、社会の秩序を乱す悪党として抑え込まれてしまったとしても不思議ではありません。
考えてみてください。
もし、あなたなら、本当にそれがニセモノだったとしても、誰もが本物と信じている一億円札をニセモノだと宣言する勇気がわいてくるでしょうか?
「頭がおかしいと思われるんじゃないだろうか?」
「別に、普通に使えるんだから、このまま使ってればいいんじゃない?」
そんな気持ちになるのではないでしょうか?
そうです。
ひとたび、“幻想”が“現実”として創造されてしまうと、その“現実”が固定化され維持され続けるような力が働くのです。
その“幻想”は、大人たちの日々の振る舞いを通して、子供たちにも引き継がれます。
その“幻想”がニセモノだと声をあげることを躊躇(ちゅうちょ)させる方向の力が生まれます。
もし「それは“幻想”だ」と声を上げる人が現れても、悪意なく、その真実を語った人を抑圧してしまう可能性すらあるのです。
これが、
あなたは、「金と交換できなくなってしまった、今のお金なんて使いたくない!」と思ったとします。
もし、本気でそう思って、「絶対にお金を使わずに生活してやる!」と決意したなら、お金を使わずに生きていく手段も見つかるかもしれません[※1]。
例えば、取引に応じてくれる相手を探して、物々交換をすることも不可能ではありません。
あるいは、お米を媒介にした取引をすることだって、絶対に不可能だというわけではありません。
例えば、お米農家に、「仕事をするので、給料はお米の現物支給でお願いします」と頼みます。
そして、服が買いたい場合には、お米と服を交換してくれるように洋服屋さんと交渉するのです。
…………。
もし、あなたが現代の貨幣制度に疑問を感じていたとして、ここまでする気になれますか……?
きっと、少しくらい、現代の貨幣制度に疑問を感じたとしても、さすがにここまでの手間はかけられないのではないでしょうか?
それは、いったいなぜでしょうか?
言うまでもなく、あまりにも手間がかかり過ぎるからですね。
そして、その手間に見合っただけのメリットも見当たりません。
言い方を変えれば、お金を使った取引の便利さに比べて、他の取引方法が不便だからだと言うこともできるでしょう。
では、いったいなぜ、お金を使った取引は、そんなに便利なのでしょうか?
「お金は、金やお米に比べて、軽くて持ち歩きやすいから!」
もちろん、そういう要因もあるでしょう。
ですが、一番の理由は、「どこに行っても使えるから」ではないでしょうか?
「お米」で取引してくれる相手を探すのは大変ですが、「お金」での取引は、どの店でもまず間違いなくすることができます。
ですが、想像してみてください。
例えば、5年後の日本では、何かしらの理由で、「お金」での取引が廃れてしまって、「お米」での取引が主流になってしまったとします。
2軒、3軒とお店を回っても、「お米」ではなく「お金」で取引してくれるお店はなかなか見つかりません。
そうなれば、あなただって、重くて不便でも、仕方なく「お米」での買い物をするのではないでしょうか?
そうです。
「軽くて持ち運びやすい」などの理由は二の次で、まずは「どこでも取引できること」が一番の便利さなのです。
ここで考えてみてください。
では、いったいなぜ、私たちの社会では「お金」が「どこでも取引できる手段」の地位を得ているのでしょうか?
それは、何度も説明しているように、誰もが「お金こそが、価値があって、取引に使うのに相応しいもの」だという“幻想”を信じているからです。
「軽くて持ち運びやすいから」などの理由は二の次です。
まずは、この“幻想”が受け入れられていることが大前提なのです。
そして、この“幻想”は、皆に受け入れらることによって“現実”として創造され、「誰もがお金を取引に使っているという“現実”」が、その“現実”をさらに“絶対的な現実”として固定してしまうのです。
どういうことかと言えば、「お金以外を取引に使うなんて考えられない“現実”」として、“現実”を固定する力がはたらくということです。
皆が受け入れた決まりや制度は、その集団の中での事実上の“標準”となり、その標準から外れた生き方をするのを難しくさせる力があるのですね。
繰り返しになりますが、これが、
そんなことを書くと、私が、お金のことを、「幻想を信じこませる詐欺的なシステムだ」と主張したいのだと勘違いされるかもしれません。
しかし、私が言いたいことは、そんなことではありません。
詳しくは、また別の記事を書きたいと思っていますが、「お金」に限らず、私たちが受け入れているルールや制度は、つきつめて考えれば、少なくとも、そのほとんどは“幻想”です。
ですから、「お金」だけを、「そんなの“幻想”だ!」と否定するつもりはありません。
というか、“幻想”を信じること自体、否定するつもりはありません。
別の記事書いたように、私たち一人ひとりが受け入れた“観念”(“幻想”)は、一人ひとりが生きる現実を、その“観念”通りの現実に近づけるような作用を持っています。
個人の場合と同じように、私たちが集団として受け入れた“観念”(“幻想”)も、その“観念”が現実になるような作用が(少なくとも「お金」という“幻想”については)存在するのですね。
私たち一人ひとりの個人の人生についても、社会などの集団についても、何かしらの“幻想”(“観念”)を受け入れることをやめてしまえば、まともに機能しなくなってしまいます。
大切なのは、“幻想”は現実をつくりかえる力を持っていることを知り、自分がどんな“幻想”を受け入れているのかを自覚して、その“幻想”が望まないものであったとしたなら、より望ましい“幻想”を選ぶことだと思います。
“幻想”に振り回されるのではなく、“幻想”を見抜き、“幻想”を利用して“創造”を行うということです。
このことについては、いくつかの記事にわけて書いていきたいと思います。
<初めての方へ : 和楽の道について >そう言うと、あなたの知り合いの小さな子供が、1枚の紙切れを差し出してきました。
「ありがとー!うれしいな~。」
あなたは子供を喜ばせようと、笑顔でお礼を言うと、その「お金」を受け取りました。
その「お金」は、見たことも聞いたこともないボロボロの紙幣で、よく見ると、オモチャにしては妙にリアルな雰囲気を醸し出しています。
紙の質感、細部にまでこだわった作り込み、端の細かい破れや、しわくちゃ具合……。
まるで、本当に長年使いこまれてきたかのような風格が滲み出ています。
その雰囲気は、よくある「こども銀行券」のそれとは一線を画すもののように感じられました。
そして何よりも奇妙のなのは、日本語でもなければアルファベットでもなく、かといってアラビア数字でもない、これまで一度も目にしたことのない文字が書かれていたことです。
もちろん、世界には、さまざまな紙幣があることくらいは知っている。
でも、こんな雰囲気のお金は、生まれてから一度も見たことがなかったのです。
「珍しいお金だね?これ、どうしたの?」
「保育園でもらってきたんですよ。お友達がくれたとかで。」
不思議に思って聞いてみると、子供よりも先に、その子のお母さんが答えてきました。
「そうなのー!ゲームで使うのー!!」
その子も、一生懸命答えてきます。
(最近のゲームは、妙に凝ったつくりの道具を使うんだなぁ。ボロボロなのは、何度もゲームで使っているからか……。)
「お金はちゃんとお財布にしまわなきゃダメですよ~!ママがいつもそう言ってるよ。」
まじまじと「お金」を見ていると、その子は、「お金」を財布にしまうように促してきました。
きっと、「おままごと」でもしている気分なのでしょう。
「ありがと。でも、ゲームで使うんでしょ?これ返すよ。」
あなたがそう答えても、その子は、財布にしまうようにと駄々をこねてきます。
「ダメなのー!お金は、お財布にしまわなきゃダメなの~!!」
困ったあなたは、本当にもらっていいのかと、その子の母に目をやると、まだ何枚もあるので、貰ってやって欲しいということなのでした。
「そういうことなら、ありがたく頂きます。1億円もくれて、ありがとね~。」
そう言うと、少し面倒に感じながらも、あなたはその「お金」を財布へとしまいました。
用事を済ませたあなたは、知り合いの家をあとにして、自宅に帰りくつろいでいます。
すると、ふと、さっきの妙にリアルだった「お金」のことを思い出しました。
財布から取り出して、もう一度まじまじと見てみると、最初は奇妙に思えたそのデザインも、案外、格好のいいデザインに思えます。
そのデザインが気に入ったあなたは、アクセサリー感覚で、定期入れの透明になっていて中が見える部分に、そのお金を折りたたんで入れました。
数日後――。
あなたは久しぶりに同窓会に出席して、学生時代に仲のよかった友人グループで集まって楽しく談笑していました。
そんな中、話の流れでお金の話になった時、あなたは、ふと、例のお金のことを思い出します。
「そういえば、この前、知り合いの子から、こんなお金もらったんだ。オモチャのお金だけど、結構いいデザインだと思わない?」
「たしかに、格好いいデザインだな」
「えっ、ボロボロじゃん」
反応はさまざまでしたが、そんな他愛もない会話をするうちに、和やかなムードの中で話題も自然に別の内容へと移っていきました。
たった一人の男を除いては……。
しばらく経つと、あなたの友人の一人が、自然な頃合いを見計らって、あなたを人気のない物陰に誘い出しました。
いつも冷静な彼が、落ち着きがない様子なので、どうしたのかと思っていると――。
「さっきのお金は、いったいどうしたんだっ!?」
彼は、血相を変えて、あなたを問い詰めてきます。
その友人は、学生時代から成績が良く、今は大きな銀行の銀行員として働いています。
あまり詳しくは聞いていませんが、ウワサによれば、その銀行の中でも、かなりのエリートコースを歩んでいるということでした。
先ほど、みんなにお金を見せたときも、銀行員の彼が一番興味を示すと思っていたのに、何も言わずに無表情でお金を見つめていたので、少し不思議に感じていたのですが、それはどうやら、冷静さを装っていただけのようです。
今の彼は、周りに悟られないようにと小さな声で話してはいますが、明らかに、興奮しています。
「あのお金は、オレ達銀行員ですら、一部の限られた人しか知らない「1億円の価値がある紙幣」だぞ!?それに…………。」
その後の言葉は、まったく耳に入って来なかった。
あまりの衝撃に、あなたの頭は真っ白になり、しばらく何も考えることができませんでした。
少したって意識が戻ってくると、今度は、自分の手の様子がおかしいことに気が付きます。
ついさっきまでなら、紙ヒコーキにして飛ばすことだってできた「ただの紙切れ」を持つ手が、ガタガタと震えているのです。
そして、少しずつ冷静さを取り戻しつつある頭の中には、次々と思考がわきあがってきます。
(ヤバいヤバい、どうするこんな大金。これだけあれば、7割貯金しても、あれも出来るし、これも出来るし……。)
(でも、このお金は、やっぱり、あの子に返さなきゃいけないよな……。でも……。)
(それに、みんなに見せなきゃよかった。もし本当に、あれが1億円なら、札束満載のアタッシュケースを見せびらかしたようなもんだもんな。)
(っていうか、こんなの持ってて、警察に目をつけられたりしないのかな?)
「あぁ、これからどうしよう……。」
あなたは、思わず、そう呟いてしまいました。
(※ 当然のことながら、この物語はフィクションです。)
お金とか何か?お金には、なぜ価値があるのか?
今回の記事は、冒頭からいきなり、「世にも奇妙な物語」のような出だしになってしまいました。と言っても、私は、小説が書きたかったわけではなく、今回のテーマは、ズバリ「お金」です。
この思わせぶりな書き出しの意味については後ほど説明するとして、まずは、この質問に答えてみてください。
質問:あなたは、「お金とか何か?」を知っていますか?
「当たり前だろっ!バカにするな!」
そう言いたくなる気持ちはわかりますが、ちょっと待ってください。
私が聞きたいのは、「1万円札を知っていますか?」とか、「穴があいているのは5円玉ですか?100円玉ですか?」とか、そういうことではありません。
では、少し、質問を変えてみましょう。
質問:あなたは、いったいなぜ、お金には価値があるのかを説明することができますか?
こうなると、少し難しくなるのではないでしょうか?
もちろん、わかっている人にとっては、これも常識レベルの、聞くまでもない質問です。
ですが、知らない人にとっては、結構難しい質問なのではないでしょうか?
もったいぶらずに答えを書いてしまうので、もし、自分でも考えたい場合は、ここで止まって少し考えてみてください。
用意はいいですか?
では、答えを書きます。
では、答えを書きます。
答え:お金は幻想です。お金に価値があると思っているのも幻想です。
わかっている人には当たり前のことですが、初めて聞いた場合には、少し驚かれたかもしれません。
ですが、これ。
決して、私が勝手に言っているわけではないのです。
例えば、有名な人では、池上彰さんが、こう言っています。
お金は共同幻想、みんながお金と思っているからお金である
池上彰 「お金はなぜ、お金なのか?(1/3)ページ」(2012年4月27日版)より
たしかに、お金を使いなれた私たちにとっては、お金と言う存在は実際に確固として存在しているように感じられますが、そうでない人が見れば単なる幻想にしか見えないかもしれません。
例えば、お金など見たことも聞いたこともない時代の人が、現代にタイムスリップしてきたとしましょう。
その人が、「紙切れ」を渡すことを条件に、年をとって力も弱った経営者が、大学を出たばかりで力も強い若者に対して理不尽な要求を通しているところを目撃したら、どう思うでしょうか?
「なんで彼は、どう見たって力では負けない相手の要求を、あんな紙切れのためだけに呑んでいるの?」
そう思うのではないでしょうか?
私たち自身も、「お金には価値がある」という“幻想”にまだ慣れていなかった小さな子供の頃であれば、平気な顔をして一万円札をビリビリに破くことも、グチャグチャに丸めることもできたはずです。
そんなことができるのは、まだ“幻想”を信じていなかったからに他なりません。
他にも、以前書いた「罪悪感は癒せるのか?」という記事の中でも、お金は“幻想”だということを、例をあげて説明しています。
では、いったいどのような経緯で、私たちは「お金には価値がある」という“幻想”を信じるにいたったのでしょうか?
お金の歴史 ― 物々交換から現代のお金まで
例えば、先ほど「お金は共同幻想」と言っていた池上さんは、何と言っているでしょうか?大昔、私たちは必要なものを物々交換をして手に入れていました。山で獣の肉を獲る人がいる。でも肉ばかり食べていたのでは飽きてしまうから、たまには魚も食べたいと思う。一方で、漁師はいつも魚ばかり食べている。たまには肉が食べたいなと思う。この人たちが物々交換をしていました。やがて、物々交換をする人たちが広場に集まるようになりました。みんなで集まれば、物々交換をする相手が見つけやすくなるわけです。こうして市(いち)が成立しました。
ところが、肉や魚は持ち歩いていると腐ってしまう。とりあえず交換するのに便利でみんなが欲しがるものに替えてしまおうということになりました。日本では中国大陸から稲の栽培技術が伝わり、稲作が始まりました。稲からお米ができますから、みんな稲を欲しがります。そこで、肉や魚を一定量の稲と替えて、その稲をほかのものと替えることができるようにしました。
稲というのは「ネ」と呼ばれていました。これが値段の「値」、「値打ち」の「値」になっていきました。稲が物々交換の仲立ちに使われていたということが、いまの日本語に残っているんですね。このほか貝や布、塩などが使われていたことが、世界の言葉にさまざまなかたちで残っています。
やがて、長く保管できるもの、そして量が増えすぎないよう、あまりたくさんとれないものとして、金、銀、銅が使われるようになります。いずれも加工しやすく、溶かしてすぐ貨幣にできるし、大きさや重さも変えられます。こうして、金貨、銀貨、銅貨がお金として使われるようになりました。ただ、銀や銅は古くなると黒くなったり錆びてきたりしてだんだん汚れてしまいます。でも、金というのは常にピカピカです。となると、やっぱり金が一番いいんだなということになります。
そのうち、経済が発達して商売が広範囲に行われるようになると、金属硬貨でも不便なことが起きるようになります。それは大量にものを売買する場合、貨幣で支払いをするには金貨を大量に持ち歩かなければいけないということです。江戸と大阪で取引をする場合は、運んでいる途中に奪われてしまうかもしれないという問題が起きます。このように、金貨をたくさん持ち歩かないで済むようにしたいと考える人が出てきます。そこで登場するのが「両替商」という人たちです。
※ 太字下線部は、原文ではピンク色の色文字。
池上彰 「お金はなぜ、お金なのか?(2/3)ページ」(2012年4月27日版)より
なるほど。まずは物々交換から始まり、次は、「お米」を現在のお金の代わりのような形で使うようになったのですね。
そして次は、金属のお金が使われるようになりましたが、大量の金属を持ち歩くのは大変だという問題が出てきたそうです。
ではその後には、いったい何が起こるのでしょうか?
両替商のしくみを説明します。まず、金(貨)を両替商に預けます。そうすると、両替商は「預り証」を出してくれます。もちろん両替商に預り賃(手数料)を払わなければなりませんが、蔵で金を安全に保管してくれます。そして誰でもその預り証を両替商へ持っていけば、いつでも金と替えてもらえます。売買をするときに、売り主は大量の金貨を受け取る代わりに預り証を受け取れば済みます。これで心配しながら大量の金貨を持ち歩く必要はなくなるわけです。
そしてまた、次に自分がだれかにお金を払うことになれば、わざわざ預り証を金貨に替えなくても、その預り証をそのまま支払いに使えばいいことになります。さらにその預り証をだれかがまた別の売買に使うというかたちで、預り証が次々に世の中で出回っていくようになります。これが紙幣の始まりです。
<中略>
このように、金を基にしてお札が発行され、そのお札を持っていけばいつでも金と替えてもらえる制度のことを「金本位制度」と言います。
やがて経済が活発になると、たくさんのお札が必要になります。ところが金本位制度では、日本銀行の持っている金の量しかお札が発行できない、すなわち経済が発展しないということになってきます。経済が発展していくうえで、もう金の量に関係なくお札を発行できるようにしようということになり、やがてお札の発行は金から切り離されます。日本では1932年(昭和7年)に金本位制度ではなくなりました。その結果、お札を銀行へ持っていっても、金とは替えてもらえなくなりました。これがいまのお札です。
※ 太字下線部は、原文ではピンク色の色文字。
池上彰 「お金はなぜ、お金なのか?(3/3)ページ」(2012年4月27日版)より
なるほど。なんとなく流れがつかめてきたような気がします。
子供向けの雰囲気にはなってしまいますが、造幣局のWEBサイトでも「日本の貨幣の歴史」というページで、もう少しだけ詳しい年表が書かれています。
(ちなみに、造幣局というとお札を印刷してそうなイメージですが、造幣局がつくっているのは100円玉や500円玉などの硬貨となります。)
お金の歴史は、“価値の象徴”の歴史
さてさて。池上さんの解説にせよ、造幣局の年表にせよ、大枠では同じような流れが見えてきます。
簡単にまとめてみましょう。
最初に、お互いの必要としているものを交換(あるいは与え合う)する「物々交換」が始まりました。
それが次第に、米や塩などをお金のように使う「物品貨幣」が使われるようになります。
その次には、金などの貴金属を貨幣として使うようになり、それが、金の預かり証としての紙幣の誕生につながります。
そして、その「金本位制」の下では金と交換できる預かり証だった紙幣が、今度は金と切り離されて、金とは交換できなくなったものが、現代の私たちが使っている紙幣です。
この流れをよく見てみてください。
よく見てみると、この一連の流れが、お金に対する“幻想”を育んできたとは思えないでしょうか?
つまり、最初は、米や塩などの、実際の生活で役に立つものがお金として使われ始めました。
「実際の生活で役に立つ」ということは、当然のことながら欲しいと感じる人がたくさんいるわけですから、多くの人が価値を感じているということになります。
ですから、その「実際に価値のある米や塩」を、交換の媒介に使うことには、お金という“幻想”をまだ受け入れていない人々にとっても、心理的な抵抗は小さかったと思われます。
この経験が、実際に交換する以外のモノを、“価値の象徴”として交換することに、人類を慣れさせてくれたのではないでしょうか?
こうして“価値の象徴”を扱うことに慣れてきた人類は、より便利な、次なる“価値の象徴”として「金」(などの金属)を選ぶことになります。
(「お金(おかね)」と「金(きん)」の文字が紛らわしいので、以下では、「金(きん)」のことを、適宜、「ゴールド」と呼ぶようにします)
ゴールドは、米などに比べれば直接的に生活の役に立つわけではありませんが、まだまだ、“価値の象徴”として扱うにふさわしい存在感を放っています。
どういうことかと言えば、ゴールドは、なかなか手に入らない上に、色も変わらずに美しく輝き続けるということです。それに、ずっしりと重い重量感もあります。
画像:Mark Herpel(digitalmoneyworld)
(もし、ゴールドがどこの家の庭にも小石のように転がっているくらいありふれた金属だったとしたら、“価値の象徴”にはなり得なかったでしょう)
そして、その次は、「金(きん)の預かり証」がお金(おかね)として使われるようになります。
「ゴールド」を“価値の象徴”として扱うことに慣れた人々であれば、「金の預かり証」を“価値の象徴”と見なすのも難しくはないでしょう。
ただの「紙切れ」であっても、それがゴールドと交換できるなら、その「紙切れ」にもゴールドと同じだけの価値があるように感じるようになるのは、自然な流れだからです。
(もちろん、預かり証の発行主が、必要な時に、間違いなく「預かり証」と「ゴールド」を交換してくれると信用できる人であることは大前提とした場合です)
しかし、もうこの時点では、“価値の象徴”として扱う「紙切れ」自体には何の価値もありません。
「金と交換できる」と信じているからこそ、ただの「紙切れ」に価値をを見いだすことができたのだろうと考えられるのです。
このことは、想像以上に大きな意味を持っています。
それは、そうやって紙幣をお金として使う経験が、「ただの紙切れ」を“価値の象徴”として扱うトレーニングとして機能しただろうということです。
もし、このステップを踏まなければ、今の私たちが使っているタイプのお金(ゴールドによる価値の裏付けのないお金)の導入は、このステップを踏んでいた場合に較べて、遥かに難航していたのではないかと思います。
それはそうでしょう。
生活に必要不可欠な「米」や「塩」、あるいは、希少性が高く美しいゴールドでの支払いが慣れている人たちに、いきなり、「これはお金と言って、とても価値のあるものだから、これと引き換えに、一日間、雑用を引き受けてもらえませんか?」と頼んでも引き受けてもらうのは難しいでしょう。
しかし、そんな時に、「でもね、これはただの紙切れに見えるかもしれないけど、銀行に持っていけばゴールドと交換できるんですよ」と言うことができれば話は別です。
いつもの支払いで慣れ親しんだゴールドと交換できるのなら、と納得して仕事を引き受けてくれる可能性は高まるでしょう。
そうやって「紙切れ(紙幣)」による支払いに慣れ親しんだ後であれば、「ゴールドと交換することが出来ない紙切れ(紙幣)」も、初めて紙幣を見る人に比べれば、遥かに簡単に受け入れることができるでしょう。
そして、「金(きん)の預かり証」だったお金が、この「ゴールドとの交換が出来なくなるステップ」を経ることで誕生したのが、現在の私たちが使っているお金です。
こうなってしまうと、お金として扱われる「紙切れ」には、「紙切れ」以上の価値はありません。
紙の材料費などたかが知れていますし、金との交換が保証されているわけでもありません。
(ちなみに、一万円札の原価は、約20円程度だそうです。)
それでも、その「紙切れ」が“価値の象徴”として機能しているのは、私たちが「お金には価値がある」と信じ、“価値の象徴”として扱っているからに他ならないでしょう。
つまり、「みんなが価値があると思っているから、本当に価値が生まれてしまう」という“共同幻想”が生み出されるわけです。
新しく生まれてきた子供たちが、お金という“幻想”を受け入れる理由
私たちが、ひとたび、ただの「紙切れ」を“価値の象徴”であると受け入れる(“幻想”を信じる)と何が起こるでしょう?例えば、そんな社会に生まれてきた子供を思い浮かべてください。
その子は、まだまだ純粋無垢で、お金という名の“幻想”など知る由もありません。
しかしその子は、成長の過程で、不思議な「紙切れ」を大人たちが大事に扱っている場面を目撃するでしょう。
その「紙切れ」がなければ、スーパーで食べ物を手に入れることが出来ないのです。
それだけではありません。服を買うのにも、電車に乗るにも、髪を切ってもらうのにも、旅行に行くのにも、その「紙切れ」が必要になります。
その子が、その「紙切れ」を雑に扱うと、大人たちから「大切に扱いなさい」と怒られてしまいます。
お小遣いが足りないばかりに、欲しかったマンガやゲームを我慢しなければならないという経験もするでしょう。
その「紙切れ」をめぐって、大人たちが大声を張り上げて争う姿も目撃するかもしれません。
月に手に入れられる「紙切れ」の枚数で一喜一憂する大人の姿も目にするでしょう。
場合によっては、その「紙切れ」を巡って、人の命が失われる場面すら見聞きするかもしれません。
たくさんの「紙切れ」を持っているからと言って、あまり「紙切れ」を持っていない人を見下す大人や、「紙切れ」を渡せば人を支配できるとでも言わんばかりの大人に出会うこともあるでしょう。
このような、日々の小さな出来ごとの積み重ねが、真っ白だった子供の頭に、「お金には価値がある」という“幻想”を、当然のこととして信じさせてしまうのです。
“幻想”は“現実”として固定化され、固定化された“現実”がさらに“幻想”を強化する
これらのことから考えると、次のようなことが言えるのではないでしょうか?
荒唐無稽な“幻想”も、それを受け入れてしまえば、その“幻想”が“現実”として固定化される(方向の力がはたらく)。そして、固定化された“現実”が、さらに“幻想”を強固にする。
もう少し詳しく説明しましょう。
ここまで、何度も書いてきたように、「お金」は“幻想”です。
20円ちょっとの「紙切れ」が、その500倍もの価値のある一万円札として扱われています。
それどころか、銀行口座に入っていれば、たとえ一億円でも、通帳に印刷されたインクか、PCの画面に表示された数字に過ぎません。
しかし、「お金には価値がある」という“幻想”を「信用」することによって、“幻想”は“現実”として創造されます。
冒頭の物語を思い出してください。
それに価値があると信用するまでは、紙ヒコーキにして飛ばしてしまうことすら出来た一億円札(物語内の架空のお金)です。
しかし、それに本当に価値があると信じた瞬間、一億円札を持つ手はガクガクと震えだしました。
喜び、不安、恐怖……etc。
様々な感情が、心の中を駆け巡りました。
これ。当たり前のことのようですが、凄いことですよ。
手にしていたのは、さっきも今も、まったく同じ1枚の「紙切れ」です。
しかし、それに「価値がある」という“幻想”を受け入れるだけで、実際に感じている感情を、完全につくり変えてしまいました。
喜びや恐怖の感情が現れたのも、お金に関係する思い込みが原因です。
例えば、「お金には価値がある」という思い込みが、「その価値あるモノを手に入れたのだからうれしい」という感覚を生み出すかもしれません。
「大金を持っていれば、誰かに狙われる」という思い込みが、「誰かに狙われたらどうしよう」という不安や恐怖を生み出すかもしれません。
でも、思い出してください。
物語で、本当に「一億円札」が一億円の価値があるかどうかは明かされていません。
知り合いの子供と、銀行員の友人が「一億円の価値がある」と言っていただけに過ぎません。
(しかも、子供に「1億円だよ」と言われても、ほとんど感情は動きませんでしたが、銀行員の友人が「1億円だ」と言うのを聞いた途端に、一生忘れられないくらいに激しく感情を動かしています。これが、“幻想”を信じた(受け入れた)途端に、“現実”が変わるということです。)
もしかしたら、みんなでドッキリをしかけようと、演技をしているだけかもしれません。
もし仮に、物語の中でも、一億円札などというものは、ただの冗談で、本当には存在しなかったとしましょう。
それでも、本当はただの「紙切れ」でしかない一億円札に、「一億円札の価値がある」という“幻想”を信じるだけで、本当に一億円を手にしたのと同じような感情が呼び起こされたことは注目に値します。
そう、“幻想”は、少なくとも彼(彼女)の中では、“現実”として創造されたのです。
そしてもし、この“創造”が、一人の中ではなく、集団の全員に起こったらどうでしょう?
つまり、誰もが、ニセモノの一億円札を、本当に一億円の価値があると信じてしまったということです。
そうなれば、たとえニセモノのであっても、誰もが取引に応じてくれるのですから、何不自由なく、本物の一億円札として使うことができます。
(なかなか1億円もの大金を使う機会は少ないと思いますが、その点については、今は考えないことにしましょう。)
もはや、誰かが、「その一億円札はニセモノだ!」と指摘するまで、それは本当の一億円として機能してしまうはずなのです。
いや、誰かが指摘しても、誰もその言葉を信じようとしないかもしれません。
「今までずっと使われてきたこのお金が、ニセモノの訳がないだろう!」
と、誰も、彼の言葉に耳を傾けないのです。
それどころか、真実を語ったはずの彼が、社会の秩序を乱す悪党として抑え込まれてしまったとしても不思議ではありません。
考えてみてください。
もし、あなたなら、本当にそれがニセモノだったとしても、誰もが本物と信じている一億円札をニセモノだと宣言する勇気がわいてくるでしょうか?
「頭がおかしいと思われるんじゃないだろうか?」
「別に、普通に使えるんだから、このまま使ってればいいんじゃない?」
そんな気持ちになるのではないでしょうか?
そうです。
ひとたび、“幻想”が“現実”として創造されてしまうと、その“現実”が固定化され維持され続けるような力が働くのです。
その“幻想”は、大人たちの日々の振る舞いを通して、子供たちにも引き継がれます。
その“幻想”がニセモノだと声をあげることを躊躇(ちゅうちょ)させる方向の力が生まれます。
もし「それは“幻想”だ」と声を上げる人が現れても、悪意なく、その真実を語った人を抑圧してしまう可能性すらあるのです。
これが、
荒唐無稽な“幻想”も、それを受け入れてしまえば、その“幻想”が“現実”として固定化される(方向の力がはたらく)。そして、固定化された“現実”が、さらに“幻想”を強固にする。
ということです。お金は便利だから普及した? ― お金が普及するための、便利さよりも大切なこと
もう1つ、例をあげてみましょう。あなたは、「金と交換できなくなってしまった、今のお金なんて使いたくない!」と思ったとします。
もし、本気でそう思って、「絶対にお金を使わずに生活してやる!」と決意したなら、お金を使わずに生きていく手段も見つかるかもしれません[※1]。
例えば、取引に応じてくれる相手を探して、物々交換をすることも不可能ではありません。
あるいは、お米を媒介にした取引をすることだって、絶対に不可能だというわけではありません。
例えば、お米農家に、「仕事をするので、給料はお米の現物支給でお願いします」と頼みます。
そして、服が買いたい場合には、お米と服を交換してくれるように洋服屋さんと交渉するのです。
…………。
もし、あなたが現代の貨幣制度に疑問を感じていたとして、ここまでする気になれますか……?
きっと、少しくらい、現代の貨幣制度に疑問を感じたとしても、さすがにここまでの手間はかけられないのではないでしょうか?
それは、いったいなぜでしょうか?
言うまでもなく、あまりにも手間がかかり過ぎるからですね。
そして、その手間に見合っただけのメリットも見当たりません。
言い方を変えれば、お金を使った取引の便利さに比べて、他の取引方法が不便だからだと言うこともできるでしょう。
では、いったいなぜ、お金を使った取引は、そんなに便利なのでしょうか?
「お金は、金やお米に比べて、軽くて持ち歩きやすいから!」
もちろん、そういう要因もあるでしょう。
ですが、一番の理由は、「どこに行っても使えるから」ではないでしょうか?
「お米」で取引してくれる相手を探すのは大変ですが、「お金」での取引は、どの店でもまず間違いなくすることができます。
ですが、想像してみてください。
例えば、5年後の日本では、何かしらの理由で、「お金」での取引が廃れてしまって、「お米」での取引が主流になってしまったとします。
2軒、3軒とお店を回っても、「お米」ではなく「お金」で取引してくれるお店はなかなか見つかりません。
そうなれば、あなただって、重くて不便でも、仕方なく「お米」での買い物をするのではないでしょうか?
そうです。
「軽くて持ち運びやすい」などの理由は二の次で、まずは「どこでも取引できること」が一番の便利さなのです。
ここで考えてみてください。
では、いったいなぜ、私たちの社会では「お金」が「どこでも取引できる手段」の地位を得ているのでしょうか?
それは、何度も説明しているように、誰もが「お金こそが、価値があって、取引に使うのに相応しいもの」だという“幻想”を信じているからです。
「軽くて持ち運びやすいから」などの理由は二の次です。
まずは、この“幻想”が受け入れられていることが大前提なのです。
そして、この“幻想”は、皆に受け入れらることによって“現実”として創造され、「誰もがお金を取引に使っているという“現実”」が、その“現実”をさらに“絶対的な現実”として固定してしまうのです。
どういうことかと言えば、「お金以外を取引に使うなんて考えられない“現実”」として、“現実”を固定する力がはたらくということです。
皆が受け入れた決まりや制度は、その集団の中での事実上の“標準”となり、その標準から外れた生き方をするのを難しくさせる力があるのですね。
繰り返しになりますが、これが、
荒唐無稽な“幻想”も、それを受け入れてしまえば、その“幻想”が“現実”として固定化される(方向の力がはたらく)。そして、固定化された“現実”が、さらに“幻想”を強固にする。
ということです。
[※1] 実際、20年近く(2016年現在)もの長い間、お金を使わずに生活している人が存在しています。それも、経済があまり発達していない国などではなく、世界有数の経済規模を誇るドイツで、一見普通の都市生活を送っているというのですから驚きです。詳しくは、下の参考ページをお読みください。
【 参考ページ(外部サイト) 】
“幻想”に振り回されるのではなく、“幻想”を利用する
お金とは、“幻想”が固定化されたもの。そんなことを書くと、私が、お金のことを、「幻想を信じこませる詐欺的なシステムだ」と主張したいのだと勘違いされるかもしれません。
しかし、私が言いたいことは、そんなことではありません。
詳しくは、また別の記事を書きたいと思っていますが、「お金」に限らず、私たちが受け入れているルールや制度は、つきつめて考えれば、少なくとも、そのほとんどは“幻想”です。
ですから、「お金」だけを、「そんなの“幻想”だ!」と否定するつもりはありません。
というか、“幻想”を信じること自体、否定するつもりはありません。
別の記事書いたように、私たち一人ひとりが受け入れた“観念”(“幻想”)は、一人ひとりが生きる現実を、その“観念”通りの現実に近づけるような作用を持っています。
【 参考記事 】
個人の場合と同じように、私たちが集団として受け入れた“観念”(“幻想”)も、その“観念”が現実になるような作用が(少なくとも「お金」という“幻想”については)存在するのですね。
【 ▶ 他の例についても書きました 】
私たち一人ひとりの個人の人生についても、社会などの集団についても、何かしらの“幻想”(“観念”)を受け入れることをやめてしまえば、まともに機能しなくなってしまいます。
大切なのは、“幻想”は現実をつくりかえる力を持っていることを知り、自分がどんな“幻想”を受け入れているのかを自覚して、その“幻想”が望まないものであったとしたなら、より望ましい“幻想”を選ぶことだと思います。
“幻想”に振り回されるのではなく、“幻想”を見抜き、“幻想”を利用して“創造”を行うということです。
このことについては、いくつかの記事にわけて書いていきたいと思います。
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