自立とは何か?―10年間熟成させた“自立”の意味
恥ずかしながら、告白します。
わたし、思い上がっていました。
「自立については、ちょっとわかっているよ!」と……。
思い返してみれば、今から10年近く前の話になります。
当時は、まだ“和楽の道”というサイトは存在していませんでしたが、その頃に私が運営していた別のサイトで「自立とは何か?」というテーマで記事を書いたことがありました。(2009年3月公開)
これがなかなか好評で、転載の許可を頂けている感想を、ほんの一部紹介するだけでも……、
自分の生き方について、深く悩んでいました。
仕事のこと、家庭のこと、子供のこと…自分を取り囲む全てのことに。
自立しないといけない! 自立という言葉だけが一人歩きしていたと思います。
自立を考えるシリーズを読ませていただいて、紙にメモを取りながら自分のことに
重ねてみながら…いかに、物事を考えずに行動していたか…他人のせいにしてはいけない!と思いながらも、結果的には誰かのせいにしていた自分を知り、ガラガラと音を立てて何かが崩れていくような…虚しさだけが残るような感覚になりました。
何度も何度も読ませていただきます。これからの人生を豊かに過ごせるように( ^ω^ )
自立を考えるシリーズに出会えたことに感謝します。ありがとうございます??
仕事のこと、家庭のこと、子供のこと…自分を取り囲む全てのことに。
自立しないといけない! 自立という言葉だけが一人歩きしていたと思います。
自立を考えるシリーズを読ませていただいて、紙にメモを取りながら自分のことに
重ねてみながら…いかに、物事を考えずに行動していたか…他人のせいにしてはいけない!と思いながらも、結果的には誰かのせいにしていた自分を知り、ガラガラと音を立てて何かが崩れていくような…虚しさだけが残るような感覚になりました。
何度も何度も読ませていただきます。これからの人生を豊かに過ごせるように( ^ω^ )
自立を考えるシリーズに出会えたことに感謝します。ありがとうございます??
現在、公立中学校の教頭をしております。
昨今の学校教育・家庭教育が抱えているほとんどの問題の原因が、「自立を目指した教育」の欠如にあると考えておりました。
今回ふとしたきっかけで、こちらのサイトを閲覧させていただいたところ、まさに目から鱗が落ちた思いをいたしました。また、我が意を得たりという箇所もありました。
自立できない国民が増えれば、真の自立した国家たることは困難になると危機感を抱いております。
先生(と呼ばせていいただきますが)のサイトを拝読して、若手教員の育成と保護者の啓発に取り組んでまいりたいと強く感じた次第です。
昨今の学校教育・家庭教育が抱えているほとんどの問題の原因が、「自立を目指した教育」の欠如にあると考えておりました。
今回ふとしたきっかけで、こちらのサイトを閲覧させていただいたところ、まさに目から鱗が落ちた思いをいたしました。また、我が意を得たりという箇所もありました。
自立できない国民が増えれば、真の自立した国家たることは困難になると危機感を抱いております。
先生(と呼ばせていいただきますが)のサイトを拝読して、若手教員の育成と保護者の啓発に取り組んでまいりたいと強く感じた次第です。
これから社会人になる前の大学院生として
自立とは何か、それを自問自答していました。
その答えがこのサイトにあったと思っています。
口で言うのは本当に簡単で
いつも、大口を周りに叩いていた人間なのですが
少しずつ、私自身の方法を見つけ、
両親・学校・先生・社会制度から能動的に選択できるよう
自立をしていきたいと思います。
ありがとうございました。m(__)m
自立とは何か、それを自問自答していました。
その答えがこのサイトにあったと思っています。
口で言うのは本当に簡単で
いつも、大口を周りに叩いていた人間なのですが
少しずつ、私自身の方法を見つけ、
両親・学校・先生・社会制度から能動的に選択できるよう
自立をしていきたいと思います。
ありがとうございました。m(__)m
というような感謝の声をたくさん頂いていました。
また、ブロガーさんにも好評で「辞書の定義より納得できる」ということで、私の提案した“自立の定義”をもとにして、自立についての考察記事を書いてくれた方も、私が把握しているだけで何人かいらっしゃいました。
他にも、プライバシーにかかわるので公開できませんが、自分の就職活動の現状を「内的自立」と「外的自立」の視点から分析したレポートを送ってくれた学生さんなんかもいらっしゃいました。
※ 2018年5月現在、当時、ブロガーさんが書いてくれた記事を見つけようと少し検索して探してみたのですが、残念ながら見つけることが出来ませんでした。
これだけ感謝の声をもらい、ブロガーさんなどにも「辞書の定義よりも良い」などと言われてしまうと、私も人間ですから、ちょっと“自立”というものがわかっているような気になってしまいます。
ですがこれ、たんなる思い上がりに過ぎなかったんですね……。
というのも、あれから約10年の時を経て、私の中での“自立”というものに対する定義が、よりシンプルで、より本質的で、より直感的に納得できるものに進化してしまったのです。
いや、正確にいえば、進化ではありません。
10年前の私も、実は、今日の記事で書こうとしていることは無意識のうちに念頭に置いていました。
というよりも、今日、これから書く内容を言葉にできるだけの力がなかったので、「内的自立」「外的自立」というような複雑な説明になってしまっていたのです。
というわけで、この記事では「より洗練された“自立”というものの概念」について書いてみようと思います。
今日の内容は、10年前の当時でもたくさんの感謝を頂いた内容を、さらに10年間熟成させてきたエッセンスです。
と言っても、答えを書いてしまうと、死ぬほどシンプルで逆に拍子抜けしてしまうかもしれませんが…(笑)
では、そろそろ本題に入っていきましょう。
辞書の定義は間違っている!? ― 辞書の意味だと誰も自立できない
まずは、私が10年前に書いた内容を、簡単に紹介していきましょう。当時の私は、まず、辞書の定義に疑問を持ちます。
辞書には、「自立」の意味として、次のように書かれています。
他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること。
デジタル大辞泉(コトバンク「自立」の項目)より
他の助けや支配なしに自分一人の力だけで物事を行うこと。ひとりだち。独立。
大辞林 第三版(コトバンク「自立」の項目)より
ですが、これ。
ちょっと考えてみると、こんなことはあり得ないことがわかってきます。
たとえば、経済的な自立について考えてみましょう。
大手の有名企業に勤務して、家賃や光熱費などの公共料金、それに日々の生活費や交際費も全部自分で支払っているサラリーマン。
こんな人が居たとしたら、一般的には、「経済的に自立した人」として扱われる典型例ですね?
ですが、辞書の定義からするとこの人は自立していません。
なぜならば、彼は、職場で上司や同僚、そして(もし居れば)部下とも協力して助け合いながら仕事(経済活動)をしているはずです。
辞書の定義からすると、「他者からの助力」を受けている場合には自立していないということになりますから、彼は自立していません。
「いや!オレはすべての仕事を自分の力でしている!誰の力も借りていない!!」
という方もいるかもしれませんが、そんなことはあり得ません。
たとえば、あなたが使っている会社のトイレは誰かが掃除してくれたものではないでしょうか?
あなたが働いているオフィスは自分で建てたんでしょうか?
コピー用紙の補充はどうでしょう?
そうです。
どんなに、自分の力だけで仕事(経済活動)をしたいと望んだとしても、そんなことは不可能なのです。
これは、自営業だって、大企業の役員や社長だって、配当生活を送っている株式投資家だって同じことです。
つまり、辞書に書かれた自立の意味が正しいとすると、私たちの社会には「経済的に自立した人」は存在しないことになってしまうのです。
ですが、私たちが「この人は経済的に自立してる」と感じる人は、たしかに存在しています。
このように考えると、辞書の定義よりも、もう少し現実に即した「自立の定義」が欲しくなってきます。
内的自立と外的自立
そこで私が提案したのが、“内的自立”と“外的自立”という考え方です。私は、この2種類の自立について、次のように定義しました。
内的自立:自己責任の意識を持ったうえで、自分の意志に従って行動や判断などを決定することができること
外的自立:現実的な選択肢を複数持っていること
外的自立:現実的な選択肢を複数持っていること
もう少し、詳しく説明しましょう。
たとえば、先ほどの大手の有名企業に勤めている人であっても、その人が、こんなタイプだったらどうでしょう?
- 大手企業に勤めていることだけが自尊心のよりどころ
- いつも上司に気に入られることばかりを考えていて、自分の考えはあまりない
- 上司の言うことには逆らわず、何でも言うことを聞く
- 逆に指示がなければ、自分から仕事をつくりだすようなことはしない(仕事をやらされている感覚)
- 別の職場でやっていける自信がない
- だから、仕事が嫌だと感じることがあっても、会社には絶対に逆らえない
- ストレスは居酒屋で上司の悪口を言って発散
- それでも大企業勤務のステータスは捨てがたいので、仕方なく働いている
いくら、自分で収入を得て生活していると言っても、ちょっと「自立している人」のイメージからは遠ざかってきますよね?
ハッキリ言ってしまうと、「自立している」というよりは「会社にベッタリ依存している」と言った方がしっくり来ます。
逆に、彼がこんな人だったらどうでしょう?
- 上司からの指示であっても、やみくもに言われたとおりにするのではなく、自分の頭でもう一度咀嚼してから実行している
- もし上司の指示よりも良いと思える意見があれば、それをしっかりと提案している
- 特に指示がなくても、空いた時間には、新しい企画アイディアを練ったり、販売方法について勉強したりなど、自主的に活動している(自分が仕事をつくっている感覚)
- いまの仕事をやめても、いくらでも他の職場で働けるだけの実力を持っている
- 正直、仕事が嫌になることもあるが、そんな時は、その「嫌な状態」を解消するための行動をしていく(たとえば、単純な繰り返し作業にストレスを感じているような場合には、その繰り返し作業を自動化する方法を考えるなど)
- 上司に不満を感じることはあるが、上司が変わることを期待するよりも、自分が望む状態をつくるために何が出来るかに意識を向ける
- 他にもいろいろな選択肢があるなかで、自分が選んで今この仕事をしているという感覚
- 近日公開予定
- 自分で決める(内的自立)ことが出来なければ、自由意志を発揮することは出来ない。
- 現実的な選択肢(外的自立)がなければ、やっぱり自由意志を発揮することは出来ない。
- 秩序1.0 … 強者が弱者をコントロールする関係性
- 秩序2.0 … お互いに相手をコントロールしようとするが、力が拮抗していて決着がつかない“綱引きの均衡”状態
- 秩序3.0 … 互いに対する思いやりや優しさが上手く機能することによって成り立つ関係
- 秩序4.0 … 思いやりすらなくても成立してしまう良好な関係
- なぜ、人生は“楽”しく、世界は平“和”なのか?
- 地球と人類とあなた自身のために、今あなたに出来ること
- 和と我―大切なのはどっち?天使と悪魔の分かれ道
- ソニー神話から導く、あなたの神話のつくり方―井深大さんのマネジメントと和楽の空間
- “人事を尽くして天命を待つ”に隠された、もう1つの意味
こんな具合になると、自立している社会人というイメージに近いのではないでしょうか?
では、この2つの状態の違いをつくっているのは、いったい何なのでしょうか?
それが、「自己責任で決めること(内的自立)」と「複数の選択肢を持っていること(外的自立)」です。
外的自立 ― 自立とは依存先を増やすこと?
まず、わかりやすいのは「外的自立」です。上の例では、後者の場合、今の仕事をやめてもいくらでも他の仕事に就けるだけの実力を持っていました。
だから、他の仕事をするという選択肢もあるのかで、今の仕事をすることを選んでいるという意識で居ることができました。
一方で前者の場合は、それが難しい状態です。
他の職場でもやっていける自信がなければ、たとえ嫌であっても会社の言いなりにならざるを得ないのは、ある意味で当然でしょう。
その会社に依存するしか選択肢がないのです。
「自立とは、依存先を増やすことだ」という意見がありますが、まさに、それが「外的自立」なのですね。
ちなみに、外的自立の度合いは、選択肢が増えれば増えるほどに高まっていきます。
たとえば、どこに行っても働けるだけの高い能力を持った人でも、事故や病気で長期間入院してしまったら仕事はできなくなってしまうかもしれません。
つまり、「収入」が「健康」に依存しているのです。
ですが、たとえば、その人が不動産からの収入を持っているような場合には、たとえ入院して寝込んでいたとしても不動産収入が止まることはありません。
このように、たんに大手有名企業に勤めているだけの状態よりも、それ以外の収入を持っている方が「経済的な外的自立」の度合いは高まっていくのです。
また、これは個人だけでなく企業にもあてはまります。
たとえば、売上げの100%を1つの大企業に依存している企業と、お客さんが100社いる企業では、どちらが自立した経営が出来るかは説明するまでもないでしょう。
ただし1点補足しておくと、外的自立の度合いを単純に選択肢の数だけで考えるのは正確ではないと、今は思っています。
たとえば、あることに対してたった1つの選択肢しかもっていなかったとしても、その選択肢が「堅い選択肢」であれば、それなりの外的自立状態をつくることが出来るはずです。
逆に、3つの選択肢を持っていたとしても、そのどれもが頼りないものであれば、たった1つの「堅い選択肢」に敵わないこともあるかもしれません。
たとえば、パチンコ・競馬・FXという3つの収入源を持っている人よりも、大企業勤務というたった1つの選択肢に頼り切りの人の方が外的に自立しているということは普通にあり得ます。
(プロのFXトレーダーのような人もいるので、一概には言えませんが)
もちろん、不動産からの家賃収入・優良企業からの株式配当・印税収入・自営業のようなかたちで、それなりに堅い複数の収入源を持つことが出来れば、さらに強いことは言うまでもありません。
このように、より「堅い」選択肢を、より「多く」持っている程、外的自立の度合いが高まるのです。
内的自立 ― 自分の意志と責任で決めること
次に、「内的自立」はどのようなものなのでしょうか?内的自立は、「自分の責任で決められる」ということです。
既に書いたように「外的自立」は複数の選択肢を持っていることでした。
では、たくさんの選択肢を持っていれば、それだけで自立していると言えるのでしょうか?
そんなことは、ありません。
いくらたくさんの選択肢をもっていたとしても、その中からどの選択肢を選ぶのかを自分で決められなければ、結局は選択肢を持っていないのと同じことになってしまいます。
たとえば、小さなころから「お前は銀行員になるんだ」と言われて育ってきた人がいたとしましょう。
そしてその人は、銀行員以外の職業でも十分に通用する能力をもっていたとします。
もし彼が、「親に言われたから」という理由だけで盲目的に銀行員をやっていたとしたら、それは説明するまでもなく依存的な姿勢ですよね?
精神的に親に依存したままなのです(内的依存)。
逆に、現象的にはまったく同じように銀行員をやっていたとしても、「(親のアドバイスも受けた上で)自分で銀行員になることを選んだ」と考えていたらどうでしょう?
これは、自立した人の姿勢と言っていいでしょう(内的自立)。
前者のように内的に(精神的に)親に依存したままであれば、たとえ銀行員以外の選択肢があったとしても、銀行員以外の選択肢を選ぶことはできません。
逆に、後者であれば、本人にそのつもりがあれば、銀行員以外の選択肢を選ぶこともできます。
このように、せっかくの選択肢(外的自立)を活かせるかどうかは、「自分の責任で決めること(内的自立)」にかかっているのです。
「内的自立」の見分け方
ところで、この内的自立をしているかどうかは、次のような場面の言動で簡単に判断することができます。たとえば、上の例のように銀行員をやっている人がいたとしましょう。
その人が銀行員の仕事に不満を感じた時に、次のどちらの発言をするか観察すればいいのです。
1.親に勧められたから銀行員になったけど、こんな仕事は最悪だ!親のせいでこんな目にあっている!
2.銀行員になったのは失敗だったかもしれない。この仕事は向いていなさそうだから、今後どうしていくか少し考えてみよう。
この2つのへ発言で、注目すべきは、責任を誰に求めているかです。
1では、問題の責任は親にあると考えています。
その一方で、2では、「銀行新になったのは失敗だった」と自分の選択の結果が現状だということを認めています。
このように、「自分の責任で選んだ」という意識が「内的自立」の条件なのですが、このポイントこそが、感情的に受け入れにくく、「内的自立」のための大きなハードルになることが多いので、もう少しだけ詳しく説明しておきましょう。
内的自立への大きな障害(ハードル)
なぜそんなことがわかるかと言えば、こんな記事を書いている私にとっても、ここが大きなハードルになっているからです。(笑)本当に、この部分で反論したくなる気持ちは、私にも痛いほどよくわかるのです。
たとえば、上司に不満を持った経験についてお話ししましょう。
こんな偉そうな記事は書いていますが、私も上司に不満を持ったという経験は、1度や2度ではありません。
それこそ数え切れないほどあります。
もう、随分前の話です。
当時の私は、毎日終電帰りか、下手をすると終電にも乗れないくらいに仕事が忙しく、休日出勤も当たり前の状態でした。
終電を乗り過ごしたときは、仕方がないので自腹でビジネスホテルに泊まるのですが、移動時間が少ない分「いつもより睡眠時間が長い!」と喜んでいるようなありさまでした。
たまに取れた休みは疲れ果てて昼過ぎまで寝てしまい、やっと目を覚まして生活のための用事を済ませたら、もう休日も終わろうとしている……。
会社と家を往復するだけの毎日で、自分がやりたいことをする時間なんて、本当にまったくとれない。
今思えば、睡眠不足で正常な判断力も失っていたと思います。
(その状態から脱出して、まともな睡眠時間が確保できるようになった後に、その頭の軽さには驚いたものです。)
上司には、現状をどうにかしてもらおうと、論理的に説得したり、頼み込んでみたり、感情的になって要求を突き付けたり、etc、etc、etc.
ほんとうに色々やってはみたけれど、「考えておく」「上と相談してみる」とは言われるのですが、半年たっても、1年たっても状況はまったく変わりませんでした……。
いわゆる「ブラック労働」のような経験をしていたのですね。
そんな時に、「上司が変わることを期待したって仕方ないよ。そんなことよりも、自分が何をできるかを考えるんだ!」などと偉そうにアドバイスされたら、ハッキリ言って、相当イライラします。
「は?こんな状態で、いったいどうしろって言うんだよ!?」
そう叫びたくもなります。(笑)
しかし、当時の私は、そう叫ぶことすらも出来ませんでした。
なぜなら、そのアドバイスをしてきていたのが、他ならぬ自分自身だったからです。
だから、もし今、同じような状態にある方がこの文章を読んだとしたら、強い反発を感じることは当然だと思います。
でも結論をいうと、これは本当のことなのです。
私自身も、上司が悪いと考え、上司を変えようとし、上司が変わらないことに不満を募らせることに意識を向けるよりも、より望ましい毎日をつくるために自分には何が出来るのかに意識を向けることでその状態を抜け出す一歩を踏み出すことが出来ました。
もちろん、私が何もしなくても、上司や会社が変わってくれれば、私はその状態から抜け出すことは出来たでしょう。
しかし、それだけを期待していたとしたら、上司や会社が変わろうとするまでは、私は永遠にその状態から抜け出すことはできませんでした。
私の運命は、上司や会社に完全に握られている状態です。
言い換えれば、私の運命は「上司や会社の方針に完全に“依存”していた」ということになります。
だから、もし上司や会社の方針がどうあろうと、その状態を抜け出したいと思うなら、「上司が変わってくれることを期待するよりも、自分が変わること」に意識を向けた方が建設的です。
もちろん、感情的な葛藤は当然あります。
「なんで、別の部門の人は、当たり前のように毎日定時に帰っているのに、私の部門はこんな状態に追い込まれなければいけないの?」
「そんな状態にもかかわらず、他部門に応援を頼まない上司が悪い!こんな状態を放置しておく経営陣や社長も悪い!」
「明らかな違法状態を野放しにする労基署も悪いし、政治もどうしようもない!」
「本来なら、こんなどうしようもない上司が、会社が、労基署が、政治が、世の中が変わるべき※1なのに……。なんて、こんなにまで追い込まれている私が変わる努力をしなきゃいけないの……?」
こんな気持ちになったとしても無理はありません。
そして、その気持ちは何も間違っておらず、明らかに違法なレベルの過労状態を放置する上司も、会社も、労基署も、政治も、世の中も悪いのです。
間違いなく悪いです。
ですが、です。
たとえ他人が悪かったとしても、他人が変わることを期待する限り、運命は他人の手の中に握られたままです。
あなたの運命は、あなた以外の誰かに”依存”したままなのです。
もし、自分の意志で、自分の運命を切り拓きたいと思うなら、自分が変わると決めなければなりません。
たとえ、それが「その職場から逃げる」という、あまり格好良くは見られない選択肢だったり、「私はこれ以上の仕事は引き受けません」と宣言してしまうような、その職場では非常識でワガママと捉えられてしまうような選択肢だったとしても構いません。
他の誰かが「その仕事はもうやめなさい」、「もうこれ以上の仕事をこなすのは無理だろうから断りなさい」と決めてくれなくても、自分でそれを選ぶこと。
これが、「内的な“自立”」の状態です。
このことについては本当に重要なので、もう1つだけエピソードを紹介したいのですが、長くなりすぎるので別の機会に譲りましょう。
【 参考記事 】
10年前の結論 ― 内的自立・外的自立による「自立」の説明
長くなりましたので、1回、まとめておきましょう。「内的自立」、「外的自立」とは次のような意味でした。
内的自立:自己責任の意識を持ったうえで、自分の意志に従って行動や判断などを決定することができること
外的自立:現実的な選択肢を複数持っていること
外的自立:現実的な選択肢を複数持っていること
そして、これらは、どちらか1つだけでは“自立”状態になるには不十分でした。
たとえば、たくさんの選択肢を持って「外的に自立」していたとしても、それらの選択肢の中から自分の責任で選ぶという「内的自立」をしていなければ、結局は選択肢をもっていないのと同じことです。
また、こちらについては説明するまでもないので詳しく書きませんでしたが、逆パターンも同じです。
仮に、自分の責任で選ぶという「内的に自立」した姿勢の人であっても、現実的に選べる選択肢が1つしか見当たらなければ、その選択肢を選ぶ以外の方法がありません。
つまり、“自立”をするためには、「内的な自立」と「外的な自立」を両立しなければならないのです。
ですから、今は“依存”状態にある人が“自立”を目指すのであれば、自分が「内的な理由」と「外的な理由」のどちらによって依存状態にあるのかを分析して、解決していく必要があります。
もし、選択肢がないこと(外的依存)が問題だったとするならば、選択肢を増やす努力をすればいいでしょう。
あるいは、選択肢があっても自分で決められないこと(内的依存)が問題だったとしたら、少しずつでも、自分で決められる人になっていく必要があります。
もちろん、内的にも外的にも依存状態なのだとしたら、その両方を自立状態にもっていく必要があるでしょう。
その場合には、まずは内的自立を目指すのがよいでしょう。
なぜならば、内的に自立した人は、自ら選択肢をつくりだす行動を起こすことが出来るからです。
それどころか、新しい選択肢をつくりだす努力すらしなくても、すでに存在していたけれども気づいていなかった選択肢を発見することもあるでしょう。
【 参考記事 】
だいぶ簡単にまとめましたが、ここまでが10年前に公開した内容です。
この記事の最初にも書いたように、ここまでの内容だけでもかなり好評で、たくさんのお礼をいただきました。
ですが、10年もの時間が過ぎると、考えも熟成され、変わってきます。
私の中での“自立”という言葉は、もっとシンプルな表現ができるようになっていました。
「内的自立」、「外的自立」というような、複雑な表現は必要なくなっていたのです。
といっても勘違いしないで頂きたいのは、10年前の内容が無駄だというわけではありません。
これから書く、2018年版の“自立の定義”と10年前の“自立の定義”は、決して矛盾するものではありません。
むしろ、10年前の内容をベースにして、よりシンプルな表現にしたようなイメージです。
新しい「自立」の定義と説明
もったいぶっていても仕方がないので、書いてしまいましょう。10年間熟成させた、自立の定義――。
それは……。
自立とは、「どれだけ自分の思い通りに生きられるか?」の度合い。
もう少し堅い表現にすれば、
自立とは、「自分の自由意志にしたがった生き方ができる能力」。
と表現してもいいでしょう。
えっ……?
という感じですよね?
もったいぶったわりに、あまりインパクトのない表現だったかもしれません。(笑)
言葉にしてしまえばすごくシンプルですし、誰にでも思いつきそうな表現です。
ですが、これこそが、10年前に自立について書いた時には、無意識に言葉にしたいと思いながらも、文章にすることができなかった部分です。
「内的自立」や「外的自立」について書いていた当時も、結局のところは、なかば無意識に、なかば意識的に頭の中にあったのは「自由意志を出来る限り発揮するためには?」ということだったと思います。
「内的自立」「外的自立」という概念を持ち出したのも、
「より自由意志を発揮できている状態こそが自立である」という無意識の思考の結果、その状態を実現するためには「内的自立」と「外的自立」が必要だと考えていたのだと思います。
どういうことかと言えば、自分で決めることが出来なければ、自由意志を発揮できるわけがありません。
また、現実的に選べる選択肢が限られていれば、やはり、自由に行動を選ぶことは出来ません。
「内的自立」も「外的自立」も、結局は、自分の思い通りに生きるために必要な条件に過ぎなかったのです。
自立と人間関係
「思い通りに生きる」というと、「ワガママに生きること」を想像してしまうかもしれませんが、そのような関係性は自立した「個」と「個」の関係とは言えません。別の記事で、複数の「個」(二人以上の人)がつくりだす関係性(秩序)について書いたことがあります。
その記事では、人間同士の関係性を【 秩序1.0 】~【 秩序4.0 】の4段階にわけて考えたのですが、「秩序」という言葉が堅苦しければ、【 人間関係1.0 】~【 人間関係4.0 】と読み替えても本質的な意味は変わりません。
この4つの秩序レベルは、簡単に説明すると次のような意味でした。
詳しくは、それぞれの記事を読んでみてください。
【 参考記事 】
ところで、これらの4レベルのうち【 秩序1.0 】と【 秩序2.0 】は“他者をコントロールしようとする力”をベースとして成立する関係性でした。
(詳しくは、上の参考記事を読んでみてください)
完全にコントロールが出来ている関係(【 秩序1.0 】)と、コントロールしようとはしているけれど相手の力も強くて支配できないでいる関係(【 秩序2.0 】)という違いはあるものの、これらの関係性のベースにあるのは“他者をコントロールしようとする力”です。
では、その力はいったいどのようなものなのでしょうか?
たとえば、腕力で相手を支配しようとするのが一番わかりやすい例でしょう。
「あの人に逆らったら殴られるかもしれない」というレベルから「核ミサイル」まで、色々なレベルはあると思いますが、“腕力”が人を支配する力になりえることは間違いないでしょう。
上司が部下に言うことを聞かせたり、親会社が子会社に支配的な影響力を持つことが出来るのは、簡単に行ってしまえば“金の力”です。
あるいは、知識がない相手を言葉巧みに言いくるめることでコントロールすることもできるでしょう。
子供が自分から離れていくのが嫌で、子供が自分なしでは生きられない状態へと追い込もうとする親もいるでしょう。
恋人や配偶者が自分から逃げられないようにするために、あるいは従業員が去っていかないようにと、相手が自分(自社)に依存するように仕向ける人もいます。
このような行為のうち「腕力で脅す」という行為は、言い方を変えれば、相手の「外的な自立」を奪おうとする行為です。
たとえば、「今日は出かけたい!」と思っていたとしても、「家から出たら殴る」と脅されれば、その人にとっては外出することは現実的な選択肢ではなくなってしまうかもしれません。
人を、「本当は遊びに行きたいけど、給料をもらえなかったら現実問題として生きていけないから、嫌だけど仕事に行こう」という気持ちにさせる「金の力」も、これに似ていますね。
あるいは、子供を思いっきり過保護に育てて、親から離れられないようにするのは、子供の「内的な自立」を奪う行為です。
(同時に、外的自立を奪っている側面もあります)
「親が決めてくれなければ自分で決められない」という「内的自立(自分で決められる状態)」とは程遠い状態に誘導しようとしているからです。
依存、自立と反抗の違い
このような「他者をコントロールしようとする力」によって、一方的な「支配―被支配」が成立している関係が【 秩序1.0 】で、お互いに自分の主張を通そうとするものの決着がつかずに膠着状態で安定している関係性が【 秩序2.0 】です。自立との関係性で言うなら、【 秩序1.0 】は、完全に自立を奪われた状態(あるいは、みずから自立を捨て去って依存を選んだ状態)です。
そして、自立を奪おうとする他者との闘争が起こり、ぶつかり合う力がバランスしたときに現れるのが【 秩序2.0 】の関係性となります。
そういう意味では、【 秩序1.0 】よりも【 秩序2.0 】の方が、「自立」の雰囲気が強くなってきます。
ただし、それは真の自立というよりも、自立への「憧れ」や「渇望」という意味の方が強いものとなるでしょう。
なぜならば、自立とは、どれだけ自分の自由意志を発揮できるかにかかっているからです。
自分の意志を抑圧しようとする相手に対して闘いを起こすことは、支配された状態のままでいるよりは自立的です。
しかし、目の前の闘いを優先するあまり、結局、自分の自由意志を発揮する余裕がなくなってしまうということも少なくありません。
ともすると、相手に負けない努力、相手に勝つための努力でエネルギーを消耗してしまって、自分の本当にしたいことに割けるエネルギーが残っていないということがあるのです。
自由を得るための闘いに束縛されて、いつまでたっても自由になれないという事態が珍しくないのが【 秩序2.0 】の段階なのです。
また、自分が何をしたいかよりも、相手に反対すること、攻撃することを優先してしまうこともあるかもしれません。
自分が本当にしたいことよりも、「相手を負かすこと」を優先して反抗しているような状態ですね。
言ってみれば、子供が「自立」に向けた「反抗期」を迎えるようなものかもしれません。
「自分が何者になりたいのか?」よりも、「大人に反抗すること」が優先されているような状態です。
このように、【 秩序2.0 】は【 秩序1.0 】にくらべると自立の要素が強くなってくるものの、「自立した個と個の関係」と呼ぶにはまだまだ不十分なものになります。
自立した「個」と「個」がつくりだす秩序(関係)
もし、本当に「自立した個と個の関係」と呼ぶにふさわしい関係を築きたいと思ったら、その関係性には少なくとも【 秩序3.0 】以上のレベルが必要です※2。なぜならば、【 秩序3.0 】の関係性は、みずからの意志で、他者の自由意志をも尊重する人々がつくりだす秩序(関係性)だからです。
【 秩序2.0 】以下のレベルが「他者をコントロールしようとする力」を秩序の原動力としている以上、どうしても、他者の自由意志はないがしろにされがちです。
他者をコントロールしようとすることは、他者の自由意志の制限に他ならないからです。
【 秩序3.0 】の成立条件を思い出してください。
(詳しくは「秩序3.0 ― 思いやりの結晶」を参照)
「みずからの意志で他者の自由意志と共存することを選ぶこと」と「その意志を実際に実現できること」が、【 秩序3.0 】の必要条件でした。
誰もが、自分の意志を発揮しながらも、誰の自由意志も抑圧しない関係を実現できた状態です。
この状態では、他者との“綱引き”に消耗することもありませんから、自分の本当にやりたいことにエネルギーを集中することができます。
※2 ただし、【 秩序3.0 】の関係性が、自分1人ではつくりだすことが出来ない以上、相手が“綱引き”をしかけて来たなら、それに対抗して【 秩序2.0 】の関係性をつくることがダメなことだという意味ではありません。
詳しくは、参考記事を読んで頂きたいのですが、【 秩序3.0 】の関係をつくれないことの責任を必要以上に自分に求めて、自分を責める必要はないでしょう。
もちろん、このことを自分自身にある問題から目をそむけるための言い訳に使わないことは大前提ですが。
詳しくは、参考記事を読んで頂きたいのですが、【 秩序3.0 】の関係をつくれないことの責任を必要以上に自分に求めて、自分を責める必要はないでしょう。
もちろん、このことを自分自身にある問題から目をそむけるための言い訳に使わないことは大前提ですが。
【 参考記事 】
「秩序の進化」と「自立の道」に起こるシンクロとは?
ところで、【 秩序3.0 】の成立条件である「みずからの意志で他者の自由意志と共存することを選ぶこと」と「その意志を実際に実現できること」ですが、これ、何かに似ているような気がしないでしょうか?この記事の前半に関係した内容です。
何か、ピンときませんか……?
そう。
「内的自立」と「外的自立」です。
この2つも、「みずからの意志で決めること」と「現実的な選択肢を持っていること(実際に実現できること)」ですから、そっくりです。
まあ、こんな風に書くと、先に壮大なシナリオがあって、それに沿って記事を書いているように見えるかもしれませんが、実はそうではありません。(笑)
「秩序3.0 ― 思いやりの結晶」の記事を書いている時点では、【 秩序3.0 】の成立条件と、「内的自立」、「外的自立」がシンクロしているなどとは考えてもいませんでした。
ただ、後になって考えてみると、このシンクロはある意味では必然だったのかもしれないと感じています。
理由を説明しましょう。
これまで「秩序の進化」については、それぞれの記事でいろいろな側面について書いてきました。
たとえば、それぞれの秩序レベルでの「ルールのあり方」や「変化のスピード・柔軟性」などについてです。
また、全体の大きな流れとして、「他者をコントロールの対象にするレベルから、尊重する対象にするレベルへの変化」や「動機付けが外発的動機付けから内発動機づけへ変わっていくこと」などについても書きました。
【 参考記事 】
秩序レベルには、このように色々な側面はあるのですが、そのレベル分けをするにあたって私が一番重要視していたのは“自由意志”です。【 秩序1.0 】から【 秩序4.0 】への進化を見ていくと、秩序レベルが上がるごとに、人々が自分の意志を発揮できる自由度が徐々に高まっていきます。
これまでの記事では、秩序レベルが上がるほどに自由意志が発揮できるようになるというような書き方をしていましたが、私の本心は、まったく逆でした。
どういうことかと言うと、“自由意志”という軸をまず設定して、一番低いレベルの「自由意志をまったく発揮できない関係性」~「完全に自由意志に沿った生き方が出来る関係性」までを分類していった結果、大枠で4つのレベルに落ち着いたというのが本当のところです。
だから、 “秩序の進化” と “依存から自立へのプロセス” は、ニアリーイコールで結ぶことができます。
“秩序の進化” ≒ “依存から自立へのプロセス”
そのどちらも、より自由意志を発揮した生き方への変化だからです。
秩序レベルが進化しなければ、その関係性の中にある個が自立(自由意志を発揮)することは難しいでしょう。
また、その関係性をつくる個と個が自立していなければ、高いレベルの秩序は実現できません。
このように、“秩序”と“自立”は強く結びついた関係なのです。
だから、“秩序の進化”の中で、大きく流れが変わる最大のターニングポイントである【 秩序3.0 】の成立条件と、「内的自立」、「外的自立」がシンクロしているのは、ある意味では当然だったのかもしれません。
さらに言ってしまえば、“秩序”と“自立”は、“和”と“楽”にも強く関係していたりしますが、長くなるので、このあたりまでにしておきましょう。
【 参考記事 】
「自立とは何か?」のまとめ
最後に、まとめです。今回の記事では、「自立とは何か?」について考えてきました。
まずは、約10年ほど前に提案した「内的自立」、「外的自立」という考え方と、最近感じている、よりシンプルな自立の定義について説明してきました。
内的自立 … 自己責任の意識を持ったうえで、自分の意志に従って行動や判断などを決定することができること
外的自立 … 現実的な選択肢を複数持っていること
よりシンプルな自立の定義 … 「どれだけ自分の思い通りに生きられるか?」の度合い(自分の自由意志にしたがった生き方ができる能力)。
外的自立 … 現実的な選択肢を複数持っていること
よりシンプルな自立の定義 … 「どれだけ自分の思い通りに生きられるか?」の度合い(自分の自由意志にしたがった生き方ができる能力)。
ただし、これらは決して矛盾した異なる考え方なのではなく、むしろ、同じことを別の階層から表現したといった方が正確です。
どういうことかと言えば、「自分の自由意志に沿った生き方」をするためには、「現実的に選べる選択肢」と「自分で決めること」の両方が必要だということです。
そして、自立した「個」と「個」の関係を築きたければ、その関係性が【 秩序3.0 】以上の秩序レベルである必要があることも説明しました。
なぜならば、【 秩序2.0 】以下の関係性は「相手をコントロールしようとする力」がベースとなっているからです。
相手をコントロールしようとするということは、相手の自由意志を奪おうとすることですから、相手の自立を奪うことにつながるからです。
と同時に、より高いレベルの秩序を築くためには、「個の自立」が求められるという側面もあります。
このように“秩序の進化”と“自立の道”は、切っても切り離せない、密接な関係で結ばれているのです。
というわけで、複数の「個」がお互いに自立した関係を築くためには、「全体の秩序レベル」と「個の自立レベル」の両方を高めることが必要になります。
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