あなたには、この言葉が読めますか?―あなたの人生を読み解く“魔法の言葉”


公開日:2015年12月28日( 最終更新日:2016年10月10日 ) [ 記事 ]
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突然ですが、あなたには、この言葉を読むことができますか?


カタカナに似ているけれども読めない文字が書かれたボードを持つ女性(日本人だけに読めないフォント)


「けむ……?も?」

とでも読むのでしょうか?

実は、この言葉。

あなたの人生を、まるで違うものにつくりかえてしまうほどの、魔法のような力をもった言葉なのです。


この言葉は、あなたの人生に、食事ものどを通らないような悲しみや、生まれてきたことに感謝せずにはいられないような幸せをもたらすことができます。

あるいは、はらわたが煮えくりかえるような怒り、

足取りが軽くなるようなウキウキした気分、

まわりには誰一人として味方も理解者もいないという、耐えがたい孤独、

仲間との信頼や絆、

生きることへの絶望も、人生への希望や至福すらもつくりだすことができます。


あなたの仕事も、結婚生活も、友達づきあいだって変えてしまいます。

あなたの過去や未来すらも変えてしまう力を持っているのです。


いえ。あなたの人生だけではありません


ある家族を、信頼や助け合いの“和”であふれる、笑顔の絶えない明るく“楽”しい家庭にすることもできます。

一方で、外への見栄はよくても、家族を自分のブランドを高めるアクセサリー(“見せかけの楽”)程度にしか考えていないような“取り繕った和”が支配する場にしてしまうこともできます。

誰かの支配欲を満たすためだけの場にしてしまうこともできるでしょう。


あるいは、教育の場であればどうでしょう?

その“魔法の言葉”は、学校を、“和”やかな雰囲気の中で、“楽”しみながら、一人ひとりの個性を最大限伸ばすことを助ける場にすることができるかもしれません。

その一方で、その“魔法の言葉”は、教育の場を、どんなに抑圧的なルールでも、理不尽な命令でも、黙って盲目的にしたがうような人間を育てる……。

そんな、ただただ決められた通りに動くだけの工業製品を組み立てるような場にしてしまうこともできるでしょう。

自分には能力がない」、「自分には価値がない」、「自分は誰にも認められない」と自信を失ってしまった人を、次から次へと生み出すこともできます。


仕事の場だって同じことです。

職場を、一人ひとりが没頭するように仕事を楽しむことができる場にすることもできます。


その一方で、

“あなたの意見などには聞く耳は持たず、有無を言わさずコミットさせられる、お題目だけの「わたしの」目標”、

“ただ昔からそうしているという理由だけで絶対視される、その職場でしか通用しない理不尽な独自ルール

押し付けでしかない「やりがい」”、

“右を向けば「苦虫を噛み潰したような顔をしている人」、左を向けば「うなだれている人」な状況”、

“本音を語らず、建前だけを振りかざす人々”、

「サービス残業なんて、当たり前。」という雰囲気”、

あら探しや、無意味な自己アピール、そして権力闘争だらけの会議室”、

“理不尽で醜い責任の押し付け合い”、

“毎朝唱和させられるわりに、唱和させている本人すらも本気にはしていない経営理念”、

“よくないとはわかっていても、誰も異論を唱えることができない「数字の辻褄合わせ」

……etc.

こういった、重苦しいどんよりした雰囲気の職場をつくることも出来ていまいます。

いったい、その“魔法の言葉”とは何なのでしょうか――?

それを考えるために、今から少しの間、想像してみてください……。

価値観の違い ― ある国語の授業の1コマから ―

突然ですが、小学校や中学校の国語の時間を思い出してください。

あなたのいる教室では、先生に指名された人が、教科書に書かれた文章を1段落づつ朗読しています。

今読んでいた人がちょうど読み終わり、先生は、次は誰にあてようかと教室を見回しています。

「あたりたくないなぁ~。」

あなたは、そう思いながら、先生と目を合わせないように、うつむきながら、じっとしています。

「早く誰かがあたらないかな」と思いながら、教科書の端に書かれた落書きを、ボーっと見つめていると……。


落書きされた教科書


「じゃあ、次。○○さん。」

先生は、見事にあなたの名前を指名してきました。

仕方なく立ち上がり、次の段落を読み始めると……。

あるところまで読んだところで、クラス中にドッと笑いが巻き起こりました。

何が起こったのかわからず、混乱するあなた。

どうやら、ちょっと面白い漢字の読み間違いをしてしまったようです。


さあ、ここで質問です。

こんなとき、あなたなら、いったいどんな気持ちになりますか?

ちょっと、考えてみてください。


いかがでしょう?想像できましたか?

もしかしたら、あなたは、顔を真っ赤にして恥ずかしがるかもしれません。

あるいは、照れ笑いしながらも、「笑いがとれて、おいしい!」と、内心喜んでいるかもしれません。


このような感じ方の違いは、いったいなぜ起こるのでしょうか?

それは、“価値観の違い”によるところが大きいでしょう。

価値観の違い2 ― ある葬儀の1コマから ―

では、この“価値観の違い”。

ほかには、どのような場合がありそうでしょうか?

例えば、あなたにとって大切な親族が亡くなり、その葬儀に来てくれた親戚を迎えてる場面を思い浮かべてください。

「この度は、誠にご愁傷様でございます。」

そんなお悔やみの言葉が聞こえてくるのだろうと思っていると……。


香典袋


この度は、誠におめでとうございました。

そんな、思わず耳を疑わずにはいられないような言葉が聞こえてきたのです。

想像してみてください。

あなたなら、こんな思いもよらない言葉を浴びせられたとしたら、いったいどのような気分になるでしょうか?

私なら、そろらく、不快感を隠すことができないと思います。というか、怒り出すと思います。

その親戚とは、もう二度と付き合わなくなってしまうかもしれません。

ですが、この葬儀の場面での「おめでとうございます」などという、非常識きわまりないこの言葉。

実は、必ずしも非常識という訳でもないのです。

実際、この記事を書くために少し検索していたら、こんな体験談をみつけました。


所用で一人で帰省していたとき、遠い親戚でもある近所のおじいさんが亡くなり、お通夜・お葬式に行くことになった。
100歳過ぎで、私が子供の頃から白髪のおじいさんだったが、声の大きく元気な人だという印象があった。

親族扱いでの参列ということで少し早めに葬祭殿に行くと、ロビーでウェルカムドリンクにお茶菓子まで頂いた。
喪主のおじさんが私がいることを見つけると、「よく来てくれた」と頭を下げられ、「食事を手配したから残って欲しい」と言われた。
偶然帰省していただけだったので恐縮したが、おじさんが是非ともということで父とともに残ることになった。
祭壇とかもすごく立派だったし、たくさんのスタッフがお世話をしていて、来た親族はその間ロビーでおじいさんの思い出話に花を咲かせていた。

お坊さんが到着して喪主のおじさんが迎えたが、その時お坊さんが「おめでとうございます」と言ったことに、私は耳を疑った。
お通夜の後に参列者にお坊さんが法話をするときにも、「故人は誠に良い人生を全うされました。めでたい、めでたい」と。聞いている人もウンウン頷いていた。

終わってからの食事は、お弁当や折詰みたいなものと思っていたら披露宴会場みたいなホールで、半分ビュフェ形式のコース料理、お酒も飲み放題だった。
親戚や近所の人で宴会になっていた。
結婚式じゃなくてお葬式だよね?」とちょっと混乱した。

近所のおばあさんが「香典も出していないのにこんなもてなしを・・・」と恐縮していたら喪主のおじさんが、「『葬式では世話になった親戚や近所の人にできるだけのお返しを』という親父の意向です。親父は年金から自分の葬式代を積み立てていたのですが、長生きしたので思った以上にたまっていたんです。親父からだと思って受け取ってください」と説明していた。

それで私も少し合点が言った
酔った父が言うには、自治会では冠婚葬祭での華美なもてなしはしない取り決めがあるが喪主さんがそういう意向を父たち自治会役員に告げ、特別に了解を求められたらしい。
父たちも町内の最長老だし功労者だったからと了解したらしい。

しかし、家に帰って、帰り際に頂いた紙袋を開けたらもう一つびっくり。

百貨店の商品券と、紅白饅頭、紅白の砂糖、そして紅白のぽち袋に入った500円玉が入っていた。

長寿の人のお葬式にはこういうふうにする場合もある、と父や旦那から聞いたが、私が今まで経験したお葬式のイメージが全然当てはまらないお葬式が衝撃的だった。

とはいえ、参列した人たちの雰囲気とかをみれば羨ましいものだと思う。
ちなみに紅白のぽち袋の500円は、長寿のお裾分けという意味があるらしい。

※ 注:太字は引用者による強調



たしかに、言われてみれば、「寂しいこと」や「悲しいこと」が必ずしも「お悔やみ」だとは限りません

例えば、学校の卒業式では、どんなに別れが悲しかったとしても、「卒業おめでとう」とお祝いします。

娘を嫁入りに送り出す両親だって、どんなに寂しかったとしても、やっぱり「結婚おめでとう」と言うでしょう。

もし、結婚式の場で、「お悔やみの言葉」など言おうものなら、一生恨まれてしまうかもしれません。

そう考えれば、人生の卒業式である葬儀を「お祝い」ととらえる考え方も、理解できないことはありません。

これも、ある種の“価値観の違い”と言えそうです。


あぁ、あれか。わかった、わかった。

どうせ、「受け取り方しだいで、どんなことでも幸せを感じられるんです」とか言いたいんでしょ?

そんな声が聞こえてきそうです。



ですが、そう思われた、そこのあなた。

残念ながら、この記事は、それだけでは終わるつもりはありません

もちろん、「受け取り方しだいで、どんなことでも幸せを感じられる」という側面があることは、その通りだと思います。

けれども、この話には、まだその先があるのです。

と言うよりも、ここからが本番なのです。

ここからの内容を理解することができれば、あなたの人生の謎の多くを読み解くことができるのです。

ですがその前に、もう少しだけ説明をさせてください。

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あなたから自然に出る行動は、あなたの価値観に結びついている

先ほどの漢字を読み間違えてしまった人を思い出してみてください。

笑われることは、恥ずかしいこと

笑いをとれるのは、おいしいこと

そんな“価値観の違い”をもった人の人生には、いったいどのようなことが起こるのでしょうか?


私たちは、日々、なにかしらの行動を選びながら生きています。

結婚や就職のような人生の一大事から、朝、目ざましに起こされたときに、「あと5分だけ」とスヌーズボタンを押すのか、すぐに起きるのかというような些細なものまで含めて、人生は選択の連続です。


ここで、少し想像してみてください。

あなたは、友人と何気ない会話を楽しんでいます。

会話を楽しんでいると、ふと、あなたの友人が、ちょっとした問いかけをしてきました。

あなたには、今、たくさんの選択肢が与えられています。

「黙って立ち去る」とか、「無視して別のことを言う」というような極端な選択肢は考えないことにするとしても、それでもたくさんの選択肢が与えられています。

「淡々と論理的に答える」

「やさしく、相手が喜びそうな答えを言う」

「皮肉っぽく答える」

「少しひねった、面白い答えを言う」

「驚いたふりをする」

……などなど、です。


ですが、私たちが普通に会話をしている時、パッと思い浮かぶ答えは、1つ~多いときでも2,3個くらいだと思います。

そして、普通に思い浮かんだ反応を選べば、たいがい、その反応は「あなたらしい」ものになるはずです。


この時、私たちの頭の中で起こっていることを考えてみましょう。

これは、あくまでも推測でしかありませんが、こんなことが起こっているとは考えられないでしょうか?

以前の記事で、カクテルパーティー効果(選択的注意)という考え方を紹介したことがありました。

カクテルパーティー効果については、こちら↓の記事に書かれていますので、ご覧ください

とくに、注意力テストの動画が衝撃的ですので、是非、ご覧ください。

【 参考記事 】


一応、この記事でも、カクテルパーティー効果について簡単に説明しておきましょう。

パーティー会場のような、ザワザワした場所で、少し離れたところで話している人の会話は、ふつう、ガヤガヤとした雑音にしか聞こえません。

しかし、その会話の中で「あなたの名前」が出てきたようなときには、ガヤガヤしたノイズの中から自分の名前だけがハッキリと聞こえることがあります。

このように、自分にとって重要だったり興味があったりする情報に、無意識のうちに、優先的に注意を向けてしまうような現象が選択的注意(カクテルパーティー効果)です。


ところで、「笑いをとれることは、おいしいことだ」という価値観をもった人にとって、会話の中で大切なことは何でしょうか?

考えるまでもなく、「笑いをとること」ですね。

一方で、「笑われることは恥ずかしいことだ」という価値観の人にとっては、「笑われないように振る舞うこと」が大切かもしれません。


もし、このような場合にもカクテルパーティー効果がはたらくのだと考えるとすると、どうでしょう?

「笑いをとること」を大切にしている人の頭には、無意識のうちに、笑いをとりやすい言葉が浮かんでくるのではないでしょうか?

カクテルパーティー効果によって、数ある言葉の中から、無意識のうちに、自分にとって大切な「笑いをとれる言葉」を選び出しているのだという考え方です。

そうであれば、「笑われないこと」を大切にする人の頭には、なるべく笑われないような言葉が浮かんでくるはずです。

わざわざ、カクテルパーティー効果などという仰々しい説明を持ち出さなくても、感覚的には当たり前のことだと思います。

あなたの行動が、あなたの価値観を強化する

なにが言いたいのかイマイチ見えてこないかもしれませんが、もう少しだけお付き合いください。

このように、「笑いをとることは、おいしいことだ」という価値観から、笑いがとれるような言動をしたり、「笑われることは恥ずかしいことだ」という価値観から、絶対に笑われないようにと警戒した言動をとっていると、いったい何が起こるでしょうか?

例えば、いつも笑いをとろうと、面白いことや、おかしなことをしている人が、ふと、「なんでこんなバカなことばかりやってるんだろう?」と思ってしまう瞬間があったとします。

その瞬間、その人の頭の中では、「認知的不協和」が起こることになります。

「認知的不協和」というのは、「おいしそうなブドウを見つけたけれど手が届かない」というような矛盾や葛藤をかかえた状態ですね。

そして、このような認知的不協和(矛盾や葛藤)を解消するために、私たちは「どうせ、あのブドウはすっぱいに決まってるさ」などと思おうとする傾向があります。

【 参考記事 】


では、笑いをとるために、普段から面白いことや、おかしなことをしている人が、ふと「なに、バカなことをやってるんだろう……。」と思った場合はどうでしょう?

そんな場合には、

  • 笑いをとることは、おいしいことだ
  • 笑いをとるために、私はバカらしいことをしている

という葛藤がおこることになります。

この葛藤を解消するためにはどうすればいいでしょうか?

まず1つ思いつくのは、笑いをとるために面白おかしいことをするのがバカらしく感じられるなら、それをやめてしまえばいいような気がします。

しかし、この決断には勇気が必要です。

なぜならば、それまで自分がしてきた行動を否定することにつながるからです。

それまで、笑いをとるためにしてきた面白おかしい言動を、「バカな行為だった」と切り捨てなくてはならないのです。

この決断をするためには、過去の自分を葬り去る、ある種の“死の恐怖”を乗り越えなければなりません。


ですが、そんな恐怖を乗り越えなくても、その葛藤を解消してしまえる方法はあります。

例えば、「ちょっとバカらしいことをして笑いをとることも、誰かを楽しませる素晴らしい行為なのだ」と考える方法があります。

「人を楽しませるために、進んで、ちょっとバカらしいことをしているのだ」と考えれば、矛盾による葛藤は和らぐはずです。

オレは、バカなことをしているのではなくて、人を楽しませるという価値ある行動をしているんだ」と考えるのですね。


ここで、念のため書いておこうと思いますが、私がこのようなことを書いている目的は、心理的なメカニズムを考えるためです。

決して、どちらが良いとか、どちらが悪いなどと言いたいわけではありません

人を笑わすことに重きを置くことにも、それ以外のことに重きを置くことにも、優劣はありません

もし、そこに優劣を感じるのだとしたら、それは、あなたの価値観が、そう感じさせているに過ぎません。

あなたの価値観が、あなたがそう感じられる世界をつくりだしているのです。


ここでのポイントは、それまで自分がしてきた行動に結びついている価値観を変えるのは難しいということです。

そして、それは、その価値観に結びついた行動に費やしてきたエネルギーが大きければ大きいほどに難しくなるはずです。

それは、そうでしょう。

例えば、同じ「笑いをとる」という行動であっても、学校のクラスでふざけている人と、人生を賭けて芸人として生きてきた人では、それを捨てる時の心理的抵抗には天と地ほどの差があるでしょう。

もちろん、このことは、これまで笑われないようにと努力を重ねてきた人にも同じことが言えるでしょう。

人から笑われないようにと、それこそ死に物狂いの努力をしてきた人に、「○○さんのモノマネをして、みんなを笑わせてください」と言ったら、もの凄い心理的な抵抗を見せるはずです。

逆に、笑いをとりたくてしょうがない人であれば、「チャンス到来!」と喜んでモノマネをするかもしれません。

容易に想像できますね。

重要ポイント1 ― 価値観と行動はループしながら強めあう ―

こんな当たり前のことの、いったいどこがポイントなのでしょうか?

思い出してください。

先ほど、「笑いをとることは、おいしいことだ」と考えている人は、カクテルパーティー効果によって、無意識のうちに笑いをとれるような言動をするようになるだろうと書きました。

また、認知的不協和の考え方から考えれば、「笑いをとることは、おいしいことだ」という価値観をもちながら、「笑いをとりにいかない」という行動はとりずらいでしょう。

「おいしいこと」であるはずなのに、笑いをとりにいかないということは矛盾しています。

その矛盾が不協和を生み出し、「笑いをとりに行くように」という心理的なプレッシャーをかけてくるはずです。

もちろん、人はたくさんの価値観を持っていますので、「笑いをとることは、おいしいことだ」という価値観を持っている人が、必ずしも、いつも笑いをとろうとするわけではありません

例えば、「シリアスな場面では、笑いをとりにいってはいけない」という価値観をもっていて、それが「笑いをとることは、おいしいことだ」という価値観よりも強ければ、シリアスな場面で笑いをとりにいくようなことはないでしょう。

あるいは、「笑いをとりたい」と思いながらも、それ以上に強く「自分には面白ことはできない」とか、「すべったら恥ずかしい」などと考えている場合にも、笑いをとりに行くことには抵抗があるでしょう。

たくさん持っている価値観を総合して、行動を選んでいるのですね。

とは言っても、私たちが、自然に行動を選べば、それは自分の価値観に結びついた行動なのだということは言えるでしょう。


そして、もう1つ思い出して下さい。

「笑いをとる行動」をすればするほどに、「笑いをとることは、おいしいことだ」という価値観を手放すことが難しくなると書きました。

これは、私たちは、自分の行動に結びついた価値観を強化しているだろいうということを表しています。


これって、凄くないですか?

「えっ?何が凄いの?」

その気持ちはよくわかりますが、よく考えてみてください。


私たちは、自分の価値観に沿った行動を、自然に選んでしまいます

そして、ある行動をすることは、その行動に結びついた価値観を強化することにつながります。

と、いうことはです。


…… → ある価値観に結びついた行動をとる → その行動が価値観を強化する → 強まった価値観にもとづいて行動する → さらにさらに価値観が強くなる → ……


という無限ループが起こることになります。

そうだとすれば、私たちは、放っておけば、 一度受け入れた価値観をどんどんドンドン強くしてしまうという無限ループを繰り返すことになるはずです。

もしかしたら、年を重ねた人ほど頑固に見えることが多いことの裏側では、このようなメカニズムが働いているのかもしれません。


せっかくですから、このことについて、もう1つだけ簡単な例をあげましょう。

あなたは、本音ではそう思っていなくても、友達に話をあわせるために、「たしかに、○○さんは優しいですよね」と言っていたとします。

本音ではそう思っていなくても、何回か「○○さんは優しい」と言っていると、「もしかしたら、本当に優しいのかもしれない」という気がしてきたりすることはないでしょうか?

そして、さらに何回も言っていると、いつの間にか、本当に優しい人なのだと感じてしまったことはないでしょうか?

あるいはその逆に、誰かの悪口に同意していたら、実際以上にその人のことが悪い人に思えてしまったという経験もあるかもしれません。

これも、行動によって価値観(人物観)が変わってしまった、よい例ですね。

そうなってしまえば、今度は、無理に話を合わせようとしなくても、自然に「○○さんは優しい」という言葉が出てくる(価値観が変わると、自然に出る行動が変わる)のではないでしょうか?

そうです。

「行動」と「価値観」が強めあうループが起こったのですね。

重要ポイント2 ― 価値観と体験はループしながら強めあう ―

その次には、何が起こるでしょう?

もし、「○○さんは優しい」という価値観(人物観)が確固としたものになれば、「確証バイアス」や「カクテルパーティー効果」の力で、「○○さんが優しい証拠」が次々と集まるはずです。

【 参考記事 】


あるいは、「この人は優しい人だ」と確信している人からちょっと失礼なことを言われても、「今日はたまたま機嫌がわるかったんでしょ?誰でもそういう日はあるし。」と思うかもしれません。

ですが、もし相手のことを「アイツは嫌な奴だ」と思っていれば、ちょっとくらい優しくされても、「なにか裏があるに違いない。やっぱりアイツは嫌な奴だ」と思うでしょう。

これは、「認知的不協和」の考え方で説明できますね。

つまり、これまでのあなたの認識を変えずに「認知的不協和」を解消するために、自分に都合がいい解釈をしているのです。

【 参考記事 】


そうです。

価値観(人物観)が、あなたがその人に対して感じる「感じ方」を変えているのですね。

そうだとすると、どうでしょう?

「○○さんは優しい」という価値観(人物観)が、「○○さんは優しい」と感じさせてくれます。

すると次には、「やっぱり、○○さんは優しいな!」と価値観(人物間)の強化が起こるのではないでしょうか?

「嫌な奴だ」と思っている人に、ちょっとくらい優しくされても、「裏があるに違いない。やっぱり嫌な奴だ。」と価値観の強化が起こってしまうことも既に説明しました。


つまり、「価値観(人物観)」が「感じ方」を呼び起こし、「その感じた体験」が「さらに価値観を強化する」ということですね。

…… → ある価値観にもとづいて何かを感じる → 「やっぱり私の価値観は正しかった」と価値観を強化する → より強まった価値観で何かを感じる → ……

という循環が起こるということです。


もちろん、○○さんが、あまりに不誠実で傍若無人な行動を繰り返していれば、いつまでも「優しい人だ」と思われ続けるのは難しいでしょう。

けれども、「○○さんは嫌な奴だ」からスタートするのに比べれば、「優しい人だ」からスタートする場合の方が、その人のことを実際以上に優しい人だと捉える「補正」がはたらくだろうと考えられます。

また、世の中には、一般的にはとんでもない詐欺師のようにしか見えない新興宗教の教祖様のことを、本気で救いの神だと崇め続けるような人もいますから、○○さんがどんなに卑劣な行いをしても、「優しい人だ」と思い続ける人すらいるかもしれません。



はなしを戻して、もう1つだけ例を見てみましょう。

漢字を読み間違えて笑われてしまった時を思い出してください。

「笑われることは恥ずかしい」と思っている人は、恥ずかしい思いをすることになります。

「笑われることは、おいしい」と思っている人は、おいしい思いをすることになります。

両方の価値観を半分くらいづつ持っている人は、ちょっと恥ずかしいような、ちょっとおいしいような思いをすることになります。

そして、笑われて恥ずかしさを感じた人は、「あぁ、やっぱり笑われるのは恥ずかしいや」と思うでしょう。

笑われておいしい思いをした人は、「やっぱり、笑いをとるのはおいしいな」と思うでしょう。

嬉し恥ずかしな気分を味わった人は、「笑われるのは、ちょっと恥ずかしいけど、嬉しいなぁ」と思うでしょう。

この場合も、価値観によって感じ方が変わるのと同時に、その感じた感情によって価値観がさらに強められています。

まとめると、

  • 価値観は行動を呼び起こし、さらにその価値観を強める。
  • 価値観は感情を呼び起こし、さらにその価値観を強める。

というループが起こっているのですね。


ところで、この「価値観と行動が強めあう循環」、「価値観と感情が強めあう循環」が存在するとなると、どうでしょう?

もし、これが事実であれば、とんでもない重大事実です。

なぜならば、このことは、私たちが一度ある価値観を受け入れてしまえば、放っておけば、その価値観に囚われ、その価値観の中から抜け出すことが難しくなってしまうからです。

もちろん、その価値観が、あなたを幸せにしてくれる価値観ならよいでしょう。

しかし、あなたを不幸にする価値観を、自分で強化し続けていたのだとしたら、これは笑えません。

ちょっとしたホラー映画よりも恐ろしい現実です。


では、放っておかなければどうなのか?

あなたが囚われてしまった価値観から抜け出す力はないのでしょうか?

もうこの記事もかなり長くなってしまったので、そのことについては、後ほど簡単に触れるだけに留めておきます。

今はもう少し、「価値観と行動が強めあう循環」、「価値観と感情が強めあう循環」について考えます。

「価値観」を「観念」に拡張する

ところで、これまで説明してきた「価値観と行動が強めあう循環」、「価値観と感情が強めあう循環」 は、価値観についてのみあてはまることなのでしょうか?

ちょっと考えてみましょう。

価値観という言葉は、「価値」という言葉と、「」という言葉に分解することができます。

この観という言葉は、「ものの見方」という意味をもっています。

例えば、人生観という言葉は、「人生をどのようなものだと見ているか?」ということを表しています。

以前紹介した、セルフイメージという言葉は、「自分自身に対して抱くイメージ」のことですから、自己観と言っていいでしょう。

(一般的には、セルフイメージの和訳には自己像という言葉が使われるようですが、ほとんど同じ意味でしょう。)

結婚観であれば、「結婚とは、こういうものだ」という、ものの見方を表しています。

世界観なら「世界に対する見方」、人間観なら「人間に対する見方」、宇宙観なら「宇宙に対する見方」を表しています。

恋愛観でも、親子観でも、家族観でも、仕事観でも、歴史観でも、宗教観でも、自然観でも、みんな同じことです。

どの言葉も、「ものの見方」「どのように見るのか?」ということを表しています。

こういった言葉をすべてひっくるめて、ここでは“観念”と呼ぶことにしましょう。

この“観念”という言葉にも「ものの見方」という意味があります。

例えば、固定観念という言葉であれば、凝り固まった(固定)ものの見方(観念)というような意味ですね。

また、これまで出てきた言葉にはすべて“観”の文字が含まれているので、それらを総称するのにぴったりの言葉だと思います。


ところで、先ほどの、「価値観」という“観念”は、価値について観念ですね。

何に価値があると見て、何に価値がないと見るのか?ということです。


この価値観については、

  • 価値観が行動を呼び起こし、その行動がさらにその価値観を強める。
  • 価値観は体験を呼び起こし、その体験がさらにその価値観を強める。

という循環があるだろうということについては、すでに説明しました。


結論から言うと、私は、これは観念全般に言えることではないかと思っています。

  • 観念が行動を呼び起こし、その行動がさらにその観念を強くする。
  • 観念は体験を呼び起こし、その体験がさらにその観念を強くする。

もしそうだとすると、いったいどんなことが言えるでしょう?

例えば、あなたの恋愛観や結婚観が、あなたの恋愛や結婚の質を変えてしまいます。

あなたの家族関係は、あなたの家族観によって大きく変わります。

あなたが築くすべての人間関係は、あなたが抱く人間観の影響を受けるでしょう。

あなたという人間のあり方や、あなたの人生は、あなたの自己観(セルフイメージ)や人生観と無関係ではいられません

そして、あなたが体験する世界、そして宇宙は、あなたの世界観や宇宙観によって、まったく違うものになってしまうのです。

もちろん、そんな仰々しいことを突然言われても、しっくりと来ないと感じられるかもしれません。

証拠を、お見せしましょう。

と、言いたいところですが、長くなりすぎてしまうので、また別の機会に書きたいと思います。

さあ、あなたの観念を読み解きましょう!

ここでは、少しだけ例をあげましょう。

長くなりすぎてしまうので、詳しくは書きません。

細かい部分は、この記事に書いた価値観の例や、すぐ上で紹介したこれから公開予定の記事を参考にしてみてください。


ポイントになるのは、

  • 観念が行動を呼び起こし、その行動がさらにその観念を強くする。
  • 観念は体験を呼び起こし、その体験がさらにその観念を強くする。

という循環があることです。

この循環によって、ある観念は、その観念の外側から影響を受けなければ、その観念にそった体験や行動を生み出しては強くなり、生み出しては強くなりを繰り返すということです。


では、例をあげましょう。

例えば、「仕事は楽しいのが当然」という仕事観を持っている人と、「辛くない仕事なんて価値がない」という仕事観を持っている人がいたとしたらどうでしょう?

この二人は、仕事を通して、どのような体験をするでしょうか?

部下を持つことになったら、部下に対する態度はどうでしょう?あるいは、自分の子供に仕事選びのアドバイスをするときはどうでしょうか?

どうしても避けられない「やりたくない作業」があったときの、二人の反応を考えてみてください。

「オレなんて、こんな嫌な仕事振られちゃって。」「私なんて……。」という具合に、なぜか「苦しみながら働くこと」が好きそうにしているのはどちらでしょうか?

まったく同じ結果を得るためであっても、「楽しく、充実しながら働いている状態」よりも、「苦しみもがきながら必死に働いている状態」の方が、なぜか精神的に落ち着いてしまう人のことです。

その一方で、その避けられない「やりたくない作業」を楽しみながら終わらせるために、なにか工夫できるはずだと考えるのはどちらでしょうか?

あるいは、その作業をしなくても仕事がうまく回るような仕組みを考えたり、その仕事を最小限の時間で終わらせることができるようにパソコンを使って自動化する方法を考えるかもしれません。

では、このようなチャンスが目の前に落ちていても見逃してしまう人と、しっかりと見つけ出す人が持っている観念には、どのような違いがあるでしょうか?

【 参考記事 】


そして、見つけ出したそのチャンスを、しっかりとモノにするためには、どのような観念を持っている必要があるでしょうか?

例えば、「私には出来る」という自己観(セルフイメージ)と、「私には出来っこない」という自己観なら、どちらがチャンスをモノにできる観念でしょうか?



ただし、もし、あなたが今自分に自信が持てなかったとしても、落ち込む必要はありません。

ここで落ち込めば、「自信がない(観念)」→「落ち込む(体験)」→「やっぱり私はダメなんだ(観念の強化)」という負の循環に入ってしまいます。

その負の循環を変えるためには、一旦、「自信がなくてもOK」と、自己否定の観念から自己肯定の観念へと循環の方向を反転させる意志をもたなければなりません。

自信に根拠は必要ありません。

「自己肯定の観念」が、回り始めれば、勝手に根拠がついてくるはずです。



互いに正反対の仕事観をもつこの二人が、お互いの仕事観を見たときに、何を思うでしょうか?

そして、二人の主張を客観的に聞いているあなたは、いったい何を思うでしょうか?


では、仕事についての観念の他にも、お金のついての観念はどうでしょう?

「お金は汚いものだ」、「お金は喜びの象徴だ」、「お金は諸悪の根源だ」、「お金は命の次に大切なものだ」、「お金さえあればなんでもできる」、「お金があると、人生失敗する」、「お金は苦労しなきゃ手に入らない」、「人を喜ばせることがお金につながる」、「悪いことをしなければお金は手に入らない」、「お金は人生を輝かせる便利な道具だ」……etc.

このような観念をもった人は、それぞれ、どのような人生(行動や体験)を送るでしょうか?

また、これらの言葉の中に、あなたの気持が揺れ動く言葉はあったでしょうか?

それが嫌悪感であっても、共感であっても、驚きであっても、反論したい気持ちであっても、あなたの心が動いた観念は、あなたにとって意味のある観念の可能性が高いでしょう。

強く感情が動いたものほど、よく見てみるといいかもしれません。


他にも、あなたの人間観はどんなものでしょうか?人生観世界観はどうでしょうか?

もう少し具体的に聞きましょう。

あなたは、事前情報なしで初めて出会った人のことを「仲間」と見なすでしょうか?

「ライバル」と見なすでしょうか?

「敵」と見なすでしょうか?

それとも、それらの感情が混ざり合っているでしょうか?

あるいは、まったく別のことを感じますか?


もし「仲間」と見なすなら、あなたは「人と人は良い関係を築くことができる」という人間観が強いのかもしれません。

「ライバル」と見なすなら、あなたは「競争の意識」が強いのかもしれません。

「敵」と見なすなら、「人間不信」の観念が強いのかもしれません。

「敵かもしれない」と警戒しながら、同時に「仲間だ」とも感じるなら、人間という存在への不信と信頼が同居しているのかもしれません。


ただし、ここで強調しておきたいのは、決して、どれが正しいとか、どれが間違いだなどと言いたいわけではないということです。

残念なことに、世の中には詐欺師のような人間もいますから、人を疑うことだって時には必要でしょう。

大切なのは、それが、「あなたにとって望ましい観念なのか、望ましくない観念なのか?」ということです。


あなたの人生観世界観はどうでしょうか?

あなたは、「人生は辛いものだ」と考えていますか?それとも「楽しいものだ」と考えていますか?

世界は「弱肉強食の原理が支配する競争の場」でしょうか?それとも、「助け合いで成り立つ共生の場」でしょうか?


あなたは「価値のある人間」だと、あなた自身を見なしますか?

それとも、「価値の低い人間」だと、あなた自身を見なしますか?



繰り返しになりますが、自信に根拠は必要ありません

根拠のない自信が、実績をもたらす行動へと、あなたを駆り立てるのです。


人生は、「容赦のない過酷な闘い」ですか?「誰にも頼れない孤独なもの」でしょうか?

それとも、「かけがえのない喜びの体験」でしょうか?


いかがでしたか?

1つでも、2つでも、あなたの“観念”を見抜くことができましたか?

大切なのは、このようなメカニズムを見抜くことです。

そして、見抜いた上で「じゃあ、何を選ぶのか?」というあなたの意志を発動させることです。

そうすることで、あなたは「…… → 観念 → 行動・体験 → 観念の強化 → ……」の無限ループから抜けることができます。

この記事も、もうかなり長くなってしまいました。

予告ばかりで申し訳ないですが、このことについても別の機会に書きたいと思います。

“魔法の言葉”の正体。それは……。

ところで、もう忘れてしまったかもしれませんが、この記事は「この言葉を読めますか?」という問いかけからはじまりました。


カタカナに似ているけれども読めない文字が書かれたボードを持つ女性(日本人だけに読めないフォント)


だいぶ遅くなってしまいましたが、正解を発表しましょう。

実は、この文字は、日本のカタカナや漢字を参考にして海外の方がつくった英字フォントなのです。

例えば、「A」という文字はカタカナの「ム」に似せて、「K」という文字はカタカナの「ケ」に似せてという具合でつくられた文字だったのです。

たしかに、「A」と「ム」や「K」と「ケ」は似ています。

ですが、普段からカタカナに親しんでいる私たち日本人には、「ケ」に似た文字は「K」よりも「け」に見えてしまう訳です。

少し前にネット上で話題になっていたので、もしかしたら「これ知ってる」と苦笑いされたかもしれません。

ですが、この話には続きがあります。

この記事の冒頭で、この言葉を読み解くことができれば、人生を読み解くことができると書きました。

“魔法の言葉”だとすら書きました。

それは、どういう意味だったのでしょうか?

この“魔法の言葉”を解読してみましょう。


「ケ」のような文字は「K」、「ム」のような文字は「A」という具合で読み解いていくと……。

KA…N…。…NEN。

KANNEN。

そう、「観念」ですね。


観念が私たちが体験する経験にも、選ぶ行動にも、大きな影響を与えていることは既に書きました。

私たちの価値観が変われば見える世界がかわりますし、結婚観が変われば、結婚生活も様変わりするでしょう。さらには、人生観が変われば、人生そのものが変わってしまうはずです。

私たちが受け入れる世界観が変われば、世界だって変えてしまいます。

もう一度、この記事の冒頭に戻って、“魔法の言葉”(=“観念”)で、つくりだすことが出来ると書いた現象を読み返してみてください。

この記事を読み終え、“観念”の影響力を知ったあなたなら、それが、あながちウソではないことがわかっていただけると思います。


ですから、観念を読み解くことは、私たちの人生を読み解くことにつながるのです。

と、こんな子供だましのような結論では怒られてしまいそうですね……。

ですが、あの文字が私たち日本人にとって読みにくい文字になってしまったことの原因にも、実は、観念の作用がはたらいていることに、あなたは気付かれましたか?

表現が難しいですが、「文字観」とか「記号観」などと表現したらよいでしょうか。

私たちは、特定の記号を見たときに、その記号を特定の文字として認識することが出来ます。

例えば、「ム(全角)」も「ム(半角)」も、同じ「む」として認識することができます。

この記号に対する観念のせいで、あのフォントは私たち日本人には読みにくいものになってしまったのですね。

なぜならば、日本のカタカナの観念のない、英語圏の人であれば『「ム」は「む」である』という観念がないので、「ム」を似ている「A」として認識できるからです。

実は、この問題の背景にも、“観念の魔法”が秘められていたのです。

“和楽の道”が実現すること ― それは、“和楽”の観念を提供すること

すこし話は変わりますが、私が、このサイト“和楽の道”を通してやりたいことを、ちょっとだけ聞いてください。

私が、“和楽の道”を通して実現すること――。

それは、その意志を持つ人に、“和楽”の観念を提供することです。

“和楽”の観念とは、“和楽”の世界観であり、人生観であり、人間観であり、宇宙観、自然観、歴史観、結婚観、その他すべての観念を表します。

まだまだ書き足りないことだらけではありますが、“和楽”の観念については、下の記事を参考にしてみてください。

(本当は、“和楽の道”の記事は、すべて、何かしらのかたちで“和楽”の観念に結びついているのですが、特にわかりやすいものを選びました)

【 参考記事 】


もちろん、無理強いはしたくありません

無防備に、“和楽”の観念がつくりだす無限ループに囚われて欲しくはありません

しかし、もし、あなたの意志がそれを望むなら、“和楽”の観念を受け入れてみてください。

自分でも気付かぬうちに他人の観念に囚われることと、自らの意志で、自らの望む観念をつくりだすことは、まったく異なります。

つまり、あなたの意志で、あなたがかたちづくる世界のDNAの1つとして、“和楽”の観念を取り入れるということです。

すべてを同じにする必要はありません。

あなたの意志が選ぶままに、“和楽”のDNAを切り取り、必要な部分を取り入れてみてください。

それはもはや、“和楽”の観念ではなく、“和楽”の観念を咀嚼(そしゃく)して、あなた自身がつくりだした観念です。

その観念は、あなたが意識もしないうちに自然としている行動も、あなたが体験する世界も変えてしまうでしょう。

観念が、あなたの人生を大きく変えてしまうことは、この記事に書いた通りです。


そして、あなたが受け入れた人生観があなたの人生をつくるように、世界が受け入れた世界観が世界をかたちづくります

もちろんそれは、私個人が決めることではなく、私たちの全体がその世界観を受け入れるかによって決まります。

中心となる世界観が定まれば、私たちは、細かい部分はその世界観に沿うように自動的に整えてしまいます。

だから、何よりも大切なのは、その核となる世界観を私たちにとって望ましいものとして定めることです。

だから私は、この“和楽”の観念を、私たちが住む世界をつくりだす遺伝子のひとつとして提供したいと考えています。

それが、私が“和楽の道”を通して実現することです。

「行き詰まりを迎えている」と叫ばれている私たちの世界に、新しいDNAを提供したいのです。

だから私は、“和楽の道”を通して、“和楽”の世界観が、私たちが受け入れる新たな世界観に組み込むに足る遺伝子なのかを世に問いたいと思っています。


客観的に見れば、“和楽の道”は、まだまだ小さなサイトで、影響力も限られています。

正直に言えば、「自分なんかに、そんな大それたこと……」と感じている自分に気付くことも少なくありません。

しかし、根拠のない自信が、現実をつくるということもまた事実です。

私はこれからも、私自身の平“和”や“楽”しみと、調“和”するかたちで、“和楽の道”を続けていきたいと思っています。

もし、あなたの意志がそれを望むなら、“和楽の道”への応援をお願い致します

感想・応援のメッセージなどもお待ちしております。




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