論理的思考で「正解」は見つけられる!?―「正解」は見つけるものでなく、つくるもの。
「だから、もっと論理的に考えろって言っただろ!?こういうことは、もっとロジックで考えなきゃ、正しい答えにたどり着けないぞ!」
あなたは、こんな言葉を耳にしたことはありませんか?
理屈派の人が多い環境だったら、よく耳にする言葉だと思います。
もしかしたら、家でも、お父さんからこんな風に怒られたことがあるかもしれません。
そんな環境にいない人でも、1度や2度くらいは、こんな言葉を耳にしたことがあると思います。
こういう言葉をかけられて、悔しい気持ちになったり、落ち込んだりしたこともあるかもしれません。
でも実は……。
まるで常識かのように語られるこのような言葉ですが、よくよく考えてみると、実は、必ずしも正しくないことがわかってくるのです。
そう。どんなに論理的に考えたって、必ずしも、正しい答えにたどり着けるわけではないのです。
それどころか、論理的に正しく考えてしまったがために、間違った答えにたどり着いてしまうことすらあり得るのです。
(詳しくは、これから説明していきます。)
さらには、このことを突き詰めて考えると、私たちが望む人生をつくっていくためのヒントまで見えてきます。
もしあなたが、冒頭のような言葉に悩まされ、落ち込んでいるとしたら、この記事を読んでみてください。
次にそんな言葉を浴びせられたときには、達観して冷静でいられるかもしれません。
あるいは、もしあなたが、そんな言葉を口にしてしまっている場合にも、この記事を読んでみてください。
冒頭の言葉のどこが間違っているのかがわかり、変なことを言って、恥をかいてしまわずに済むでしょう。
そして、あなたが、もっと望ましい人生をつくっていきたいと思っている場合にも、この記事を読んでみてください。
きっと、あなたが望み通りの人生をつくるためのヒントが得られるでしょう。
では、さっそく本文に入っていきましょう。
二人の男の人(AさんとBさんとしましょう)が、喧嘩をしている場面です。
Aさんは、とても真面目なタイプで、「人に笑われることは恥ずかしいことだ」と思っています。
一方で、Bさんは、いつもおバカなことをして周りの人を笑わせているようなタイプで、「人を笑わせることは、“おいしい”ことだ」と思っています。
この二人にとって、この考え方は、生まれたときから長い年月をかけて自分の中で育ててきた「絶対的に譲れない」考え方です。
この二人が、どうやら、喧嘩をしているようです。
どうやら、Aさんが、何かおバカなことをして笑われたのをきっかけにして喧嘩が始まったようです。
そして、喧嘩の流れの中で、どちらが論理的に正しいかの意見がぶつかりあう場面がありました。
ところで、この2人のうち、いったいどちらが論理的に正しかったのでしょうか?
あなたには、どちらの論理が正しかったのかわかりますか?
これがわかれば、もう、この記事のポイントは理解したも同然です。
さあ、考えてみてください。
論理的に正しいのは、Aさんですか?
それとも、Bさんが正しいのでしょうか……?
これから、ややこしい言葉というか、響きが難しそうな言葉がいくつか登場します。
ですが、言っていることは難しいことではありませんので、難しそうな響きに惑わされずに、気楽に読んでみてください。
例えば、もっとも論理的だと思われる世界の1つに、数学の世界があるでしょう。
では、中学や高校の数学の時間にやった「図形の証明」の問題を思い出してみてください。
「中点連結定理より、辺ABと辺XYは平行である。したがって、線分ABと線分XYを延長した直線は交点を持たない。」
とか、やりましたよね?
なんとも、「厳密」で「論理的」な雰囲気で、絶対的に正しい議論のように聞こえてしまいます。
ところが、これが絶対的に正しいのかと言うと、必ずしも、そうとは言えない[※1]のです。
順を追って、考えていきましょう。
まずは、言葉の意味からです。
今、上の文章の中で、「定理」という言葉をつかいました。この「定理」という言葉について考えてみましょう。
辞書の意味を見てみましょう。
なるほど。「公理」というものから出発して、論理的に証明されたものが「定理」なのですね。
では、その出発地点になる「公理」というのは、いったい何者なのでしょうか?
いまは数学について考えているので、2の意味だと考えるのがよいでしょう。
しかし、「論証がなくても自明の真理として承認され」などと書かれると、なんとも仰々しくて、わけがわかりません。
これを簡単に言えば、公理というのは、「これは正しいに決まってる(自明の真理)から、そういうことにして話を進めるよ」という前提条件のことだと言えます。
で、その「前提(公理)」から出発してつくられたのが「定理」でした。
例えば、「公理A」と「公理B」から考えると、「こういうことが言えるよね?」と導き出されたのが定理(以下、仮に「定理C」と呼びます)となります。
(こういう考え方を「演繹(えんえき)」と言います。)
ところで、このときに「論理」という言葉がかかわってくるのは、「公理A」と「公理B」から「定理C」を導き出すプロセスの部分になります。
つまり、「論理」が問題にするのは、『本当に「公理A」と「公理B」から、「定理C」という結論に至っていいの?どこかで考え違いをしていない?』ということです。
逆に言えば、「論理」は「前提(公理)」が正しいかどうかということを問題にしないのです。
このことが、ポイントです。
今回の記事の最重要ポイントだと言ってもいいでしょう。
数学で説明するとややこしくなってしまうので、イメージで説明しましょう。
二人は、どちらも、「自分の方が論理的に正しい」と主張していましたが、正しいのは、いったいどちらだったのでしょうか?
もったいぶっていても仕方がないので、答えを言ってしまいましょう。
Aさんも論理的に正しいし、Bさんも論理的に正しい。
それが、この記事の答えです。
とは言っても、まったく別のことを言っている2人の論理が、どちらも正しいなどということがあるのでしょうか?
真逆のことを言っている2人が、どちらも正しいだなんて、ちょっと違和感があります。
もし、そんなことがあり得るのだとしたら、それはいったいなぜなのでしょうか?
もうお気づきだとは思いますが、このようなことが起こるのは、2人の議論の前提が違うからなのです。
Aさんは「笑われることは恥ずかしいことだ」ということを前提に考えています。
だから、笑われている人を見て、羨ましいなどとは思いません。
一方で、Bさんは「笑われることは、おいしいことだ」ということを前提にしています。
だから、当然、「笑いをとれない人」が「笑いを取っている人」を見れば、「羨ましいと感じるだろう」と推測するわけです。
これを、あえて「公理」という言葉を使って表現するなら、
思い出してください。
「論理」が問題にするのは議論の道筋であって、「前提(公理)」が正しいかどうかは、「論理」の正しさとは無関係の問題でした。
だから、この2人のように、違う「前提(公理)」からスタートすれば、「論理的に正しく」別々の結論にたどり着くことができるのです。
だから、「前提」の違う2人の主張は、どんなに論理的に語り合ったとしても、どこまで行っても平行線を辿ることになるでしょう。
と言っても、「平行線が交わる世界(平行線が引けない世界)」も存在するのですが……。
と、突然言われても何が言いたいのかサッパリわからないと思いますが、実は、この「平行線」という言葉が、「論理的に正しい答えが2つ以上存在できる」ということに大きく関係しています。
次は、この「平行線」について説明したいと思います。
(ただし、AさんもBさんも、議論の前提を明確にせずに、いきなり結論を言っているのでどちらも論理が飛躍している感はあります。しかし、どちらの論理もきちんと説明すれば、筋が通ったものに思えます。)
(この部分は、これまで以上に小難しい言葉が次々登場しますので、気分が乗らなければ、次の章まで読み飛ばしてください。ただし、この記事のクライマックスは、まだもう少し先なので、ここでページを閉じないでくださいね。)
この話をするときに必ずと言っていいほど例にされるのが、「ユークリッド幾何学(きかがく)」と「非ユークリッド幾何学」です。
別に難しいことを言いたいわけではないので、この難しげな響きに圧倒される必要ははありません。
(というか、私は数学が苦手だったので、そんなに難しいことまで解説できないと言った方が正しいかもしれません……。)
「ユークリッド幾何学」というのは、言ってみれば「平面上の幾何学」で、私たちが小・中・高校と習う普通の幾何学のことです。
コンパスで丸を書いたり、三角形の面積を求めたり、色々やりましたね?
この「ユークリッド幾何学」には、いくつかの前提となる公理があります。
(下でも登場しますが、この「公理」のことを、「公準(こうじゅん)」と呼ぶこともあります。とりあえず、「 公理 = 公準 」と考えてOKです。詳しい背景を知りたい場合には、検索してみればたくさんページが出てきます。)
この公理では、例えば、「2つの点を結ぶ直線を引くことができる」という、誰がどう考えたって当たり前のこと(自明な真実)を言っています。
このいくつかの「公理(前提)」を、人類は長い間受け入れて、ユークリッド幾何学という学問(世界)を構築してきました。
しかし、それらの「公理」の中にある「平行線の公理」と呼ばれる公理に疑問を持つ人が現れ始めます。
そして構築されたのが、「平行線の公理」を採用していない「非ユークリッド幾何学(ユークリッド幾何学ではない色々な幾何学)」です。
いったい何が起こったのかというと、疑う必要もないほど明らかな前提だったはずの「平行線の公理」が、必ずしも成り立つわけではないということがわかってしまったのです。
具体的には、平面的な空間では成り立つと思われていた「平行線の公理」が、歪んだ空間では必ずしも成り立たないと考えられるようになったのです。
でも、こういうテーマは、言葉でいくら説明されたところでよくわかりませんよね……?
というわけで、動画か何かがあるとイメージしやすいので、youtubeを探してみたところ、「平行線の公理」についてわかりやすく説明してくれている動画(背理法と素数の性質1−ユークリッド原論と第5公準)がありました。
難しそうな響きの言葉が並んでいますが、とてもイメージしやすい動画なので安心して見てください。
7分あたりからが、「平行線の公理」についての説明です。
(動画の中では「第5公準」と呼ばれていますが、この「第5公準」が「平行線の公理」のことです)
下の埋め込み動画を再生すれば、自動的に7分から始まるようになっています。
ここで注目していただきたいのは、「平行線が1本だけ引ける世界」、「平行線が1本も引けない世界[※2]」、「平行線が2本以上引ける世界」が同時に存在することができるということです。
「平行線が1本だけ引ける世界」を前提にスタートすれば、私たちがよく知っている普通の幾何学(ユークリッド幾何学)ができあがり、「平行線が引けなかったり、2本以上引けたりする世界」を前提にスタートすれば「非ユークリッド幾何学」ができあがるのですね。
そう。
違う前提からスタートすることで、「ユークリッド幾何学」という世界と、「非ユークリッド幾何学」というまったく別の世界が出来てしまうのです。
そして、それは、どちらが「正しい」とか「間違っている」などの問題ではありません。
絶対的に正しいただ1つの世界が存在するのではなく、どちらも正しい複数の世界が存在できるということなのです。
そして、「役に立つか?」という視点で考えても、どちらの世界も素晴らしく役に立っています。
例えば、かの有名なアインシュタインの「一般相対性理論」も、この非ユークリッド幾何学によって構築されていると言います。
この「一般相対性理論」は、私たちにも身近なGPSシステムに必要不可欠な理論として知られています。
つまり、「非ユークリッド幾何学」がなければ、カーナビはもちろんのこと、今や、私たちの携帯電話にすら内蔵されているGPSも実現しなかったということです。
そしてもちろん、私たちの身近な問題の多くを解決するためには、「ユークリッド幾何学」が大きな威力を持っています。
「ユークリッド幾何学」がなければ、機械の図面すら書けないでしょうから、携帯にPC、エアコンなどといった、私たちの身の回りにある便利な工業製品は姿を消してしまうかもしれません……。
「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」のどちらか一方でも欠けてしまえば、今の私たちの生活は実現できないのです。
最初に、どんなに論理的に考えたところで、必ずしも、正しい答えにたどり着けるわけではないと書きましたが、それは、前提が間違っていれば、そこからどんなに正しい論理を積み上げても、得られる答えは間違っているということだったのです。
「論理」は、「前提(公理)」の正しさ[※3]を問題にしないからです。
そう。「論理的に」正しい答えを導くためには、正しい「前提」からスタートしなければならないのですね。
もし間違った「前提」から正しい答えを得ようと思えば、その時には「論理」を捻じ曲げなければなりません。
では、正しい「前提」を知るためにはどうすればいいのでしょうか?
例えば、「笑われることは恥ずかしい」と考えることと、「笑われることは、おいしい」と考えることに正解はあるのでしょうか?
これは、かなり難しい問題です。
その点、自然科学の分野が恵まれていたのは、実験によって、どの前提を正しいと信じるべきかの白黒をつけやすかったことです。
例えば、「重いものほど速く落ちるのか?」、「重さによらず物が落ちる速度は一定なのか?」で揉めたとしましょう。
そんな時には、塔の上から、「小さな鉛の玉」と「大きな鉛の玉」を落としてみればいいのです。
あるいは、真空にしたガラス管の中に、鳥の羽根とパチンコ玉を入れてみてもいいかもしれません。
そうすれば、白黒がハッキリして、どの考えが前提としてふさわしい[※4]のかの決着をつけることができます。
しかし、「笑われることは恥ずかしいことなのか?、おいしいことなのか?」の答えを出すのは、そう簡単ではありません。
例えば、「笑われることは恥ずかしい」と思っている人たちと、「おいしい!」と思っている人たちの平均年収を調査してみたとします。
それでわかるのは、「どちらの方が平均年収が高いのか?」だけで、正解・不正解ではありません。
人望、IQ、幸福度、平均寿命、ガンにかかる割合、最終学歴、子供の人数……etc.
何を調べたって、正解はわかりません。
では、いったいどうすれば、正解を知ることができるのでしょうか……?
いいですか?よく聞いて下さいね。
これから書くことが、この先、“和楽の道”で書く、たくさんの記事の根幹になる大切な考え方になります。
それは――。
ということ。
そう。
あなたにとっての正解は、あなたが決めればいいのです。
常識と違ったって、それがあなたにとって心地よい答えなら――。
誰かに迷惑をかけるわけでもない[※5]のなら――。
それを、あなたの正解にしてしまえばいいではないですか?
もちろん、常識に合わせるのが心地よい人は、それを正解に選べばいいでしょう。
その答えに優劣はありません。
学問の世界だって、それが便利だという理由だけで、間違った前提を採用している[※4]ことがあるのです。
「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」という、別々の「公理(前提)」からスタートした学問が、お互いに矛盾することなく共存しているということについても説明しました。
あなたにとっても、周りにとってもマイナスにならない「正解」なのであれば[※5]、いったい誰がそれを止めるのでしょうか?
思い出してください。
「笑われて恥ずかしいと感じる世界」も、「笑われておいしいと感じる世界」も、「ユークリッド幾何学の世界」も、「非ユークリッド幾何学の世界」も、すべては同時に共存することができるのです。
前提(公理)が違えば、その前提から出発してつくられた世界も違うものになります。
この原理を応用すれば、まったく異なる世界、一人ひとりが望む世界を、「まったく論理的な整合性を崩さずに」構築することが出来るのです。
これは、凄いことですよ。
私たちは、ついつい、「自分の理想」を実現するためには、「自分とは違う理想を抱く誰か」と闘い、勝たなければならないと思ってしまいます。
「全員の理想が共存することなんて出来るわけがない」と考えてしまいがちです。
しかし、「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」は共存することができました。
「ただ1つの正しい世界が存在すべき」という“世界観”を超えて、「あなたの世界は正しいし、私の世界も正しい。あなたの世界も、私の世界も同時に共存できる。」という“世界観”を提示してくれました。(少なくとも、論理的な整合性という意味では)
私は、この“世界観”に大きな希望を感じています。
もし、この“世界観”がスタンダードになれば、世界から争いはなくなってしまうかもしれません。少なくとも、大幅に減るでしょう。
なぜならば、「あなたの世界もOK、わたしの世界もOK」と思えれば、相手を変えようとする必要がないからです。
いきなりこんなことを書くと、ただの夢物語にしか見えませんが、このことについては、これからも何本か記事を書きたいと思っています。
最後に、ポイントをまとめておきましょう。
<初めての方へ : 和楽の道について >あなたは、こんな言葉を耳にしたことはありませんか?
理屈派の人が多い環境だったら、よく耳にする言葉だと思います。
もしかしたら、家でも、お父さんからこんな風に怒られたことがあるかもしれません。
そんな環境にいない人でも、1度や2度くらいは、こんな言葉を耳にしたことがあると思います。
こういう言葉をかけられて、悔しい気持ちになったり、落ち込んだりしたこともあるかもしれません。
でも実は……。
まるで常識かのように語られるこのような言葉ですが、よくよく考えてみると、実は、必ずしも正しくないことがわかってくるのです。
そう。どんなに論理的に考えたって、必ずしも、正しい答えにたどり着けるわけではないのです。
それどころか、論理的に正しく考えてしまったがために、間違った答えにたどり着いてしまうことすらあり得るのです。
(詳しくは、これから説明していきます。)
さらには、このことを突き詰めて考えると、私たちが望む人生をつくっていくためのヒントまで見えてきます。
もしあなたが、冒頭のような言葉に悩まされ、落ち込んでいるとしたら、この記事を読んでみてください。
次にそんな言葉を浴びせられたときには、達観して冷静でいられるかもしれません。
あるいは、もしあなたが、そんな言葉を口にしてしまっている場合にも、この記事を読んでみてください。
冒頭の言葉のどこが間違っているのかがわかり、変なことを言って、恥をかいてしまわずに済むでしょう。
そして、あなたが、もっと望ましい人生をつくっていきたいと思っている場合にも、この記事を読んでみてください。
きっと、あなたが望み通りの人生をつくるためのヒントが得られるでしょう。
では、さっそく本文に入っていきましょう。
論理的に正しいのはどっち?2人の男の論争の結末は……?
まず最初に、次の場面を見てください。二人の男の人(AさんとBさんとしましょう)が、喧嘩をしている場面です。
Aさんは、とても真面目なタイプで、「人に笑われることは恥ずかしいことだ」と思っています。
一方で、Bさんは、いつもおバカなことをして周りの人を笑わせているようなタイプで、「人を笑わせることは、“おいしい”ことだ」と思っています。
この二人にとって、この考え方は、生まれたときから長い年月をかけて自分の中で育ててきた「絶対的に譲れない」考え方です。
この二人が、どうやら、喧嘩をしているようです。
A : お前はまたそうやってバカなことをして……。みんなに笑われて恥ずかしくないのかよ?
B : 恥ずかしい?面白いことをして笑いの1つもとれないからって、オレにあたるなよ。それとも、羨ましいの?
A : お前みたいな恥ずかしい奴を、誰が羨ましいなんて思うんだよ?
B : 負け惜しみ言っちゃって。Aって、いつも難しいことばかり言って、つまらない奴だもんな。
A : 誰が負けたって?論理的に考えてみろよ。お前みたいに恥ずかしいことをして笑われてる奴を、羨ましいなんて思うわけないだろ?
B : だから、そういうのがつまらないって言ってるの。論理的に考えたって、つまらないよりも、笑える方がいいに決まってるし。
A : お前の面白いは次元が低いんだよ!本当に面白いっていうのは、お前みたいなバカ笑いじゃなくて、もっと知的な面白さのことを言うんだよ。それがわからないなんて、かわいそうな奴だな。
B : そうやって知的ぶっちゃって、笑いの1つも取れないお前の方が、よっぽどかわいそうな奴だよ。
[ 以下、略 ]
B : 恥ずかしい?面白いことをして笑いの1つもとれないからって、オレにあたるなよ。それとも、羨ましいの?
A : お前みたいな恥ずかしい奴を、誰が羨ましいなんて思うんだよ?
B : 負け惜しみ言っちゃって。Aって、いつも難しいことばかり言って、つまらない奴だもんな。
A : 誰が負けたって?論理的に考えてみろよ。お前みたいに恥ずかしいことをして笑われてる奴を、羨ましいなんて思うわけないだろ?
B : だから、そういうのがつまらないって言ってるの。論理的に考えたって、つまらないよりも、笑える方がいいに決まってるし。
A : お前の面白いは次元が低いんだよ!本当に面白いっていうのは、お前みたいなバカ笑いじゃなくて、もっと知的な面白さのことを言うんだよ。それがわからないなんて、かわいそうな奴だな。
B : そうやって知的ぶっちゃって、笑いの1つも取れないお前の方が、よっぽどかわいそうな奴だよ。
[ 以下、略 ]
どうやら、Aさんが、何かおバカなことをして笑われたのをきっかけにして喧嘩が始まったようです。
そして、喧嘩の流れの中で、どちらが論理的に正しいかの意見がぶつかりあう場面がありました。
ところで、この2人のうち、いったいどちらが論理的に正しかったのでしょうか?
あなたには、どちらの論理が正しかったのかわかりますか?
これがわかれば、もう、この記事のポイントは理解したも同然です。
さあ、考えてみてください。
論理的に正しいのは、Aさんですか?
それとも、Bさんが正しいのでしょうか……?
論理的とは、どういうこと? ― 「公理」「定理」「論理」とは?
それを考えるために、まずは、「論理的」ということがどういうことなのかについて考えてみましょう。これから、ややこしい言葉というか、響きが難しそうな言葉がいくつか登場します。
ですが、言っていることは難しいことではありませんので、難しそうな響きに惑わされずに、気楽に読んでみてください。
例えば、もっとも論理的だと思われる世界の1つに、数学の世界があるでしょう。
では、中学や高校の数学の時間にやった「図形の証明」の問題を思い出してみてください。
「中点連結定理より、辺ABと辺XYは平行である。したがって、線分ABと線分XYを延長した直線は交点を持たない。」
とか、やりましたよね?
なんとも、「厳密」で「論理的」な雰囲気で、絶対的に正しい議論のように聞こえてしまいます。
ところが、これが絶対的に正しいのかと言うと、必ずしも、そうとは言えない[※1]のです。
順を追って、考えていきましょう。
まずは、言葉の意味からです。
今、上の文章の中で、「定理」という言葉をつかいました。この「定理」という言葉について考えてみましょう。
辞書の意味を見てみましょう。
ていり【定理】
公理に基づき、論証によって証明された命題。また特に、重要なもののみを定理ということがある。
なるほど。「公理」というものから出発して、論理的に証明されたものが「定理」なのですね。
では、その出発地点になる「公理」というのは、いったい何者なのでしょうか?
こう‐り【公理】
1 一般に通用する道理。
2 数学で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題。
3 自明であると否とを問わず、ある理論の前提となる仮定。
いまは数学について考えているので、2の意味だと考えるのがよいでしょう。
しかし、「論証がなくても自明の真理として承認され」などと書かれると、なんとも仰々しくて、わけがわかりません。
これを簡単に言えば、公理というのは、「これは正しいに決まってる(自明の真理)から、そういうことにして話を進めるよ」という前提条件のことだと言えます。
で、その「前提(公理)」から出発してつくられたのが「定理」でした。
例えば、「公理A」と「公理B」から考えると、「こういうことが言えるよね?」と導き出されたのが定理(以下、仮に「定理C」と呼びます)となります。
(こういう考え方を「演繹(えんえき)」と言います。)
ところで、このときに「論理」という言葉がかかわってくるのは、「公理A」と「公理B」から「定理C」を導き出すプロセスの部分になります。
つまり、「論理」が問題にするのは、『本当に「公理A」と「公理B」から、「定理C」という結論に至っていいの?どこかで考え違いをしていない?』ということです。
逆に言えば、「論理」は「前提(公理)」が正しいかどうかということを問題にしないのです。
このことが、ポイントです。
今回の記事の最重要ポイントだと言ってもいいでしょう。
数学で説明するとややこしくなってしまうので、イメージで説明しましょう。
[※1]
後で説明しますが、平行線が存在しない世界が存在したりします。
また厳密には、「正しい」とか「正しくない」の議論ではないのですが、これについても後で説明します。
この記事では、初めて読む方が読みやすいように、「正しい」とか「間違い」という言葉をたくさん使いますが、内容が理解できたら、意味を読み変えていただければと思います。
後で説明しますが、平行線が存在しない世界が存在したりします。
また厳密には、「正しい」とか「正しくない」の議論ではないのですが、これについても後で説明します。
この記事では、初めて読む方が読みやすいように、「正しい」とか「間違い」という言葉をたくさん使いますが、内容が理解できたら、意味を読み変えていただければと思います。
笑われるのは、恥ずかしいこと?おいしいこと? ― 論理的に正しいのはどちらだったのか?
ここで、先ほどの、喧嘩をしていた二人を思い出してください。二人は、どちらも、「自分の方が論理的に正しい」と主張していましたが、正しいのは、いったいどちらだったのでしょうか?
もったいぶっていても仕方がないので、答えを言ってしまいましょう。
Aさんも論理的に正しいし、Bさんも論理的に正しい。
それが、この記事の答えです。
とは言っても、まったく別のことを言っている2人の論理が、どちらも正しいなどということがあるのでしょうか?
真逆のことを言っている2人が、どちらも正しいだなんて、ちょっと違和感があります。
もし、そんなことがあり得るのだとしたら、それはいったいなぜなのでしょうか?
もうお気づきだとは思いますが、このようなことが起こるのは、2人の議論の前提が違うからなのです。
Aさんは「笑われることは恥ずかしいことだ」ということを前提に考えています。
だから、笑われている人を見て、羨ましいなどとは思いません。
一方で、Bさんは「笑われることは、おいしいことだ」ということを前提にしています。
だから、当然、「笑いをとれない人」が「笑いを取っている人」を見れば、「羨ましいと感じるだろう」と推測するわけです。
これを、あえて「公理」という言葉を使って表現するなら、
- Aさんは「笑われることは恥ずかしいことだ」という公理を採用している
- Bさんは「笑われることは、おいしいことだ」という公理を採用している
思い出してください。
「論理」が問題にするのは議論の道筋であって、「前提(公理)」が正しいかどうかは、「論理」の正しさとは無関係の問題でした。
だから、この2人のように、違う「前提(公理)」からスタートすれば、「論理的に正しく」別々の結論にたどり着くことができるのです。
だから、「前提」の違う2人の主張は、どんなに論理的に語り合ったとしても、どこまで行っても平行線を辿ることになるでしょう。
と言っても、「平行線が交わる世界(平行線が引けない世界)」も存在するのですが……。
と、突然言われても何が言いたいのかサッパリわからないと思いますが、実は、この「平行線」という言葉が、「論理的に正しい答えが2つ以上存在できる」ということに大きく関係しています。
次は、この「平行線」について説明したいと思います。
(ただし、AさんもBさんも、議論の前提を明確にせずに、いきなり結論を言っているのでどちらも論理が飛躍している感はあります。しかし、どちらの論理もきちんと説明すれば、筋が通ったものに思えます。)
別々の「前提」でつくられた世界 ― 「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」
上の、「笑われるのは恥ずかしい」とか、「笑われるのはおいしい」などの曖昧なイメージ的な説明では納得できない方のために、もう少し硬めの例でも説明しましょう。(この部分は、これまで以上に小難しい言葉が次々登場しますので、気分が乗らなければ、次の章まで読み飛ばしてください。ただし、この記事のクライマックスは、まだもう少し先なので、ここでページを閉じないでくださいね。)
この話をするときに必ずと言っていいほど例にされるのが、「ユークリッド幾何学(きかがく)」と「非ユークリッド幾何学」です。
別に難しいことを言いたいわけではないので、この難しげな響きに圧倒される必要ははありません。
(というか、私は数学が苦手だったので、そんなに難しいことまで解説できないと言った方が正しいかもしれません……。)
「ユークリッド幾何学」というのは、言ってみれば「平面上の幾何学」で、私たちが小・中・高校と習う普通の幾何学のことです。
コンパスで丸を書いたり、三角形の面積を求めたり、色々やりましたね?
この「ユークリッド幾何学」には、いくつかの前提となる公理があります。
(下でも登場しますが、この「公理」のことを、「公準(こうじゅん)」と呼ぶこともあります。とりあえず、「 公理 = 公準 」と考えてOKです。詳しい背景を知りたい場合には、検索してみればたくさんページが出てきます。)
この公理では、例えば、「2つの点を結ぶ直線を引くことができる」という、誰がどう考えたって当たり前のこと(自明な真実)を言っています。
このいくつかの「公理(前提)」を、人類は長い間受け入れて、ユークリッド幾何学という学問(世界)を構築してきました。
しかし、それらの「公理」の中にある「平行線の公理」と呼ばれる公理に疑問を持つ人が現れ始めます。
そして構築されたのが、「平行線の公理」を採用していない「非ユークリッド幾何学(ユークリッド幾何学ではない色々な幾何学)」です。
いったい何が起こったのかというと、疑う必要もないほど明らかな前提だったはずの「平行線の公理」が、必ずしも成り立つわけではないということがわかってしまったのです。
具体的には、平面的な空間では成り立つと思われていた「平行線の公理」が、歪んだ空間では必ずしも成り立たないと考えられるようになったのです。
でも、こういうテーマは、言葉でいくら説明されたところでよくわかりませんよね……?
というわけで、動画か何かがあるとイメージしやすいので、youtubeを探してみたところ、「平行線の公理」についてわかりやすく説明してくれている動画(背理法と素数の性質1−ユークリッド原論と第5公準)がありました。
難しそうな響きの言葉が並んでいますが、とてもイメージしやすい動画なので安心して見てください。
7分あたりからが、「平行線の公理」についての説明です。
(動画の中では「第5公準」と呼ばれていますが、この「第5公準」が「平行線の公理」のことです)
下の埋め込み動画を再生すれば、自動的に7分から始まるようになっています。
ここで注目していただきたいのは、「平行線が1本だけ引ける世界」、「平行線が1本も引けない世界[※2]」、「平行線が2本以上引ける世界」が同時に存在することができるということです。
「平行線が1本だけ引ける世界」を前提にスタートすれば、私たちがよく知っている普通の幾何学(ユークリッド幾何学)ができあがり、「平行線が引けなかったり、2本以上引けたりする世界」を前提にスタートすれば「非ユークリッド幾何学」ができあがるのですね。
そう。
違う前提からスタートすることで、「ユークリッド幾何学」という世界と、「非ユークリッド幾何学」というまったく別の世界が出来てしまうのです。
そして、それは、どちらが「正しい」とか「間違っている」などの問題ではありません。
絶対的に正しいただ1つの世界が存在するのではなく、どちらも正しい複数の世界が存在できるということなのです。
そして、「役に立つか?」という視点で考えても、どちらの世界も素晴らしく役に立っています。
例えば、かの有名なアインシュタインの「一般相対性理論」も、この非ユークリッド幾何学によって構築されていると言います。
この「一般相対性理論」は、私たちにも身近なGPSシステムに必要不可欠な理論として知られています。
つまり、「非ユークリッド幾何学」がなければ、カーナビはもちろんのこと、今や、私たちの携帯電話にすら内蔵されているGPSも実現しなかったということです。
そしてもちろん、私たちの身近な問題の多くを解決するためには、「ユークリッド幾何学」が大きな威力を持っています。
「ユークリッド幾何学」がなければ、機械の図面すら書けないでしょうから、携帯にPC、エアコンなどといった、私たちの身の回りにある便利な工業製品は姿を消してしまうかもしれません……。
「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」のどちらか一方でも欠けてしまえば、今の私たちの生活は実現できないのです。
「あなたの世界もOK、わたしの世界もOK」 ― この“世界観”がスタンダードになれば、争いがなくなる
もう、ここまで読めばわかりましたね?最初に、どんなに論理的に考えたところで、必ずしも、正しい答えにたどり着けるわけではないと書きましたが、それは、前提が間違っていれば、そこからどんなに正しい論理を積み上げても、得られる答えは間違っているということだったのです。
「論理」は、「前提(公理)」の正しさ[※3]を問題にしないからです。
そう。「論理的に」正しい答えを導くためには、正しい「前提」からスタートしなければならないのですね。
もし間違った「前提」から正しい答えを得ようと思えば、その時には「論理」を捻じ曲げなければなりません。
では、正しい「前提」を知るためにはどうすればいいのでしょうか?
例えば、「笑われることは恥ずかしい」と考えることと、「笑われることは、おいしい」と考えることに正解はあるのでしょうか?
これは、かなり難しい問題です。
その点、自然科学の分野が恵まれていたのは、実験によって、どの前提を正しいと信じるべきかの白黒をつけやすかったことです。
例えば、「重いものほど速く落ちるのか?」、「重さによらず物が落ちる速度は一定なのか?」で揉めたとしましょう。
そんな時には、塔の上から、「小さな鉛の玉」と「大きな鉛の玉」を落としてみればいいのです。
あるいは、真空にしたガラス管の中に、鳥の羽根とパチンコ玉を入れてみてもいいかもしれません。
そうすれば、白黒がハッキリして、どの考えが前提としてふさわしい[※4]のかの決着をつけることができます。
しかし、「笑われることは恥ずかしいことなのか?、おいしいことなのか?」の答えを出すのは、そう簡単ではありません。
例えば、「笑われることは恥ずかしい」と思っている人たちと、「おいしい!」と思っている人たちの平均年収を調査してみたとします。
それでわかるのは、「どちらの方が平均年収が高いのか?」だけで、正解・不正解ではありません。
人望、IQ、幸福度、平均寿命、ガンにかかる割合、最終学歴、子供の人数……etc.
何を調べたって、正解はわかりません。
では、いったいどうすれば、正解を知ることができるのでしょうか……?
いいですか?よく聞いて下さいね。
これから書くことが、この先、“和楽の道”で書く、たくさんの記事の根幹になる大切な考え方になります。
それは――。
正解は、自分で決めてしまう
ということ。
そう。
あなたにとっての正解は、あなたが決めればいいのです。
常識と違ったって、それがあなたにとって心地よい答えなら――。
誰かに迷惑をかけるわけでもない[※5]のなら――。
それを、あなたの正解にしてしまえばいいではないですか?
もちろん、常識に合わせるのが心地よい人は、それを正解に選べばいいでしょう。
その答えに優劣はありません。
学問の世界だって、それが便利だという理由だけで、間違った前提を採用している[※4]ことがあるのです。
「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」という、別々の「公理(前提)」からスタートした学問が、お互いに矛盾することなく共存しているということについても説明しました。
あなたにとっても、周りにとってもマイナスにならない「正解」なのであれば[※5]、いったい誰がそれを止めるのでしょうか?
思い出してください。
「笑われて恥ずかしいと感じる世界」も、「笑われておいしいと感じる世界」も、「ユークリッド幾何学の世界」も、「非ユークリッド幾何学の世界」も、すべては同時に共存することができるのです。
前提(公理)が違えば、その前提から出発してつくられた世界も違うものになります。
この原理を応用すれば、まったく異なる世界、一人ひとりが望む世界を、「まったく論理的な整合性を崩さずに」構築することが出来るのです。
これは、凄いことですよ。
私たちは、ついつい、「自分の理想」を実現するためには、「自分とは違う理想を抱く誰か」と闘い、勝たなければならないと思ってしまいます。
「全員の理想が共存することなんて出来るわけがない」と考えてしまいがちです。
しかし、「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」は共存することができました。
「ただ1つの正しい世界が存在すべき」という“世界観”を超えて、「あなたの世界は正しいし、私の世界も正しい。あなたの世界も、私の世界も同時に共存できる。」という“世界観”を提示してくれました。(少なくとも、論理的な整合性という意味では)
私は、この“世界観”に大きな希望を感じています。
もし、この“世界観”がスタンダードになれば、世界から争いはなくなってしまうかもしれません。少なくとも、大幅に減るでしょう。
なぜならば、「あなたの世界もOK、わたしの世界もOK」と思えれば、相手を変えようとする必要がないからです。
いきなりこんなことを書くと、ただの夢物語にしか見えませんが、このことについては、これからも何本か記事を書きたいと思っています。
最後に、ポイントをまとめておきましょう。
- 論理とは、考えの筋道である。
- だから、その筋道のスタート地点である前提条件がどんなものであるかを問題にしない。
- つまり、違った前提からスタートすれば、まったく違った論理体系(世界)を構築することができる。
- しかも、その別々の世界は、お互いを否定するものではなく、同時に存在し、共存することができる。
(実際、学問の世界でも「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」のように違った前提からつくられた学問が共存し、お互いを補いあっています。)
【 おまけコラム 】
「もっと記事を短くしてほしい」という要望や、「今の長さがちょうどいい」という要望が届いているので、試しに、記事の本筋から外れる部分は、注釈をつけて「おまけコラム」として書いてみることにしました。
「おまけ」と言いながら、結構大事なことを、ガンガン書いていますが(笑)
[※2]
ところで、動画を見ていて、「球体の上なら、工夫すれば、平行線は引けるだろ!?」と思いませんでしたか?
例えば、こんな感じです。
たしかに、球面上に平行線が引けているような気がします。
ですが、これ、やってはダメなのです。
なぜかというと、上の図で書いている線は、直線ではないのですね。
例えば、この図の、AとBの点を通っている線は、直線ではありません。
直線というのは、2点を最短距離で結ぶ経路を通らなければならないので、このAとBを通る直線を描こうと思えば、下の図の赤い線のように描かなければなりません。
球面上の点A,Bを通る直線は、A,Bと球の中心Cがつくる面と、球の表面が接する部分に書かれるのです。
だから、球面上に書かれた直線は、必ず、地球で言えば南極と北極の部分で交わってしまうのです。
というわけで、球体状の空間の中では平行線は1本も描くことができないので、「平行線の公理」は成り立たず、「非ユークリッド幾何学」として扱わなければならない空間になるのですね。
色々と検索していたら、もっと詳しい説明を、京都産業大学の福井教授という方がされていました。
よろしければ、こちらもご覧ください。
[※3]
厳密には、「この公理(前提)は、正しいのか?」という質問は、ちょっと変な質問になってしまいます。
なぜならば、「公理(前提)」は、「正しいと証明するもの」ではなく、「正しいと信じるもの」だからです。
もし前提を疑ってしまえば、その「前提」をもとに構築された世界は崩壊してしまいます。
言い方を変えれば、「前提」を信じることで、その「前提」にもとづく世界が生み出され、「前提」を疑うことでその世界は崩壊するということです。
神話的な表現を使うなら、“破壊”と“創造”です。
だからこれは、「別の世界が存在する」というだけの問題であって、「正しい」とか「正しくない」の問題ではないのです。
ただ、一般論としては、「前提を間違えれば、結論も間違える」と言っても十分意味は通ると思いますし、初めての方にはそのほうが読みやすいと思いますので、あえてこういう表現をしている部分があります。
また、“破壊”と“創造”の原理については、お楽しみはもっと後に取っておきたかったのですが、少しだけ種明かしをしてしまいました……。
このことについては、また、別の記事を書きたいと思っています。
[※4][※6]
正解は、「重いものも、軽いものも同じスピードで落ちる」です。
ウソだと思う方は、この動画を見てみてください。
そんな人はいないと思いますが、自分で実験をしてみたい場合には、実験装置も売られているようです。
軽いものは空気抵抗の影響が大きいので、ゆっくり落ちるように見えますが、単純に重力の作用だけに着目すれば、モノが落ちる速度は同じなのですね。
ただし、私たちは、基本的に大気中に生きているのですから、「重いものほど速く落ちる」という前提(公理)からスタートして物理学を構築しても、案外、便利な物理学が構築出来るかもしれません。(ちょっと無理があるかもですが……。)
実際、私たちは、あえて「間違った前提」からスタートして学問を構築することがよくあります。
例えば、私たちの身の回りにある少なくない数の電気回路は、「銅線の抵抗は完全な0である」という明らかに正しくない前提で構築された理論で設計されています。
しかし、扱う信号の周波数が高くなったり、電線の長さが長くなったりすると、「実は電線にも、色々な特性があった!」という前提でつくられた「分布定数回路」と呼ばれる理論が使われたりします。
なんでもかんでも、この「分布定数回路」で考えようとすると、とても手間がかかるので、使わなくてもいい場面では、あえて「間違った前提」を使っているのです。
(もっと言ってしまえば、「分布定数回路」の考え方ですら、現実を理想的なモデルに置き換えた理論ですから、完全には現実世界と一致しないでしょう。)
また、本文で説明した「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」も、まったく違った前提からスタートした論理が共存している例です。
だから、自然科学の分野ですら、白黒がハッキリ付けられて、1つの理論だけが生き残っているわけではなく、色々な前提からつくられた論理が共存しているのです。
[※5]
でも、究極的には、本人が本気で「人に迷惑をかけてもOK。問題ない。」と正解を決めてしまえば、他人がその答えを変えることはできません。
だから、より正確には、「人に迷惑かけてもOKという答えは正解に選ばないでください」という、私からのお願いです。
“和楽”の考え方(下に参考リンクがあります)自体、「自分の“楽”しさと、全体の“和”を両立する」という答えを、一緒に正解として選びませんか?というお誘いなのです。
おっと。またまた、今後の記事に書こうと思っていた核心を、ポロっと言ってしまいました。
「もっと記事を短くしてほしい」という要望や、「今の長さがちょうどいい」という要望が届いているので、試しに、記事の本筋から外れる部分は、注釈をつけて「おまけコラム」として書いてみることにしました。
「おまけ」と言いながら、結構大事なことを、ガンガン書いていますが(笑)
[※2]
ところで、動画を見ていて、「球体の上なら、工夫すれば、平行線は引けるだろ!?」と思いませんでしたか?
例えば、こんな感じです。
たしかに、球面上に平行線が引けているような気がします。
ですが、これ、やってはダメなのです。
なぜかというと、上の図で書いている線は、直線ではないのですね。
例えば、この図の、AとBの点を通っている線は、直線ではありません。
直線というのは、2点を最短距離で結ぶ経路を通らなければならないので、このAとBを通る直線を描こうと思えば、下の図の赤い線のように描かなければなりません。
球面上の点A,Bを通る直線は、A,Bと球の中心Cがつくる面と、球の表面が接する部分に書かれるのです。
だから、球面上に書かれた直線は、必ず、地球で言えば南極と北極の部分で交わってしまうのです。
というわけで、球体状の空間の中では平行線は1本も描くことができないので、「平行線の公理」は成り立たず、「非ユークリッド幾何学」として扱わなければならない空間になるのですね。
色々と検索していたら、もっと詳しい説明を、京都産業大学の福井教授という方がされていました。
よろしければ、こちらもご覧ください。
【 参考記事 】
[※3]
厳密には、「この公理(前提)は、正しいのか?」という質問は、ちょっと変な質問になってしまいます。
なぜならば、「公理(前提)」は、「正しいと証明するもの」ではなく、「正しいと信じるもの」だからです。
もし前提を疑ってしまえば、その「前提」をもとに構築された世界は崩壊してしまいます。
言い方を変えれば、「前提」を信じることで、その「前提」にもとづく世界が生み出され、「前提」を疑うことでその世界は崩壊するということです。
神話的な表現を使うなら、“破壊”と“創造”です。
だからこれは、「別の世界が存在する」というだけの問題であって、「正しい」とか「正しくない」の問題ではないのです。
ただ、一般論としては、「前提を間違えれば、結論も間違える」と言っても十分意味は通ると思いますし、初めての方にはそのほうが読みやすいと思いますので、あえてこういう表現をしている部分があります。
また、“破壊”と“創造”の原理については、お楽しみはもっと後に取っておきたかったのですが、少しだけ種明かしをしてしまいました……。
このことについては、また、別の記事を書きたいと思っています。
[※4][※6]
正解は、「重いものも、軽いものも同じスピードで落ちる」です。
ウソだと思う方は、この動画を見てみてください。
そんな人はいないと思いますが、自分で実験をしてみたい場合には、実験装置も売られているようです。
軽いものは空気抵抗の影響が大きいので、ゆっくり落ちるように見えますが、単純に重力の作用だけに着目すれば、モノが落ちる速度は同じなのですね。
ただし、私たちは、基本的に大気中に生きているのですから、「重いものほど速く落ちる」という前提(公理)からスタートして物理学を構築しても、案外、便利な物理学が構築出来るかもしれません。(ちょっと無理があるかもですが……。)
実際、私たちは、あえて「間違った前提」からスタートして学問を構築することがよくあります。
例えば、私たちの身の回りにある少なくない数の電気回路は、「銅線の抵抗は完全な0である」という明らかに正しくない前提で構築された理論で設計されています。
しかし、扱う信号の周波数が高くなったり、電線の長さが長くなったりすると、「実は電線にも、色々な特性があった!」という前提でつくられた「分布定数回路」と呼ばれる理論が使われたりします。
なんでもかんでも、この「分布定数回路」で考えようとすると、とても手間がかかるので、使わなくてもいい場面では、あえて「間違った前提」を使っているのです。
(もっと言ってしまえば、「分布定数回路」の考え方ですら、現実を理想的なモデルに置き換えた理論ですから、完全には現実世界と一致しないでしょう。)
また、本文で説明した「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」も、まったく違った前提からスタートした論理が共存している例です。
だから、自然科学の分野ですら、白黒がハッキリ付けられて、1つの理論だけが生き残っているわけではなく、色々な前提からつくられた論理が共存しているのです。
[※5]
でも、究極的には、本人が本気で「人に迷惑をかけてもOK。問題ない。」と正解を決めてしまえば、他人がその答えを変えることはできません。
だから、より正確には、「人に迷惑かけてもOKという答えは正解に選ばないでください」という、私からのお願いです。
“和楽”の考え方(下に参考リンクがあります)自体、「自分の“楽”しさと、全体の“和”を両立する」という答えを、一緒に正解として選びませんか?というお誘いなのです。
おっと。またまた、今後の記事に書こうと思っていた核心を、ポロっと言ってしまいました。
【 参考記事 】
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