温かい人間関係を築くには、これだけはやめた方がいい! ― “信頼”関係が“契約”関係に変わるとき。


公開日:2016年9月27日 [ 記事 ]
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あなたは、こんな人間関係にうんざりさせられたことはありませんか……?

例えば、打算や計算だけで成り立っている関係。

いつも疑心暗鬼で、相手の顔色をうかがわなければならない関係。

自分の本音を隠しつつ、つくり笑顔で話を合わせなければならない関係……。

こういう人間関係は、本当に疲れるし憂鬱なものです。


その一方で、人間味のある信頼関係で結ばれた、温かい人間関係は、安心感や心地よさを与えてくれます。



信頼関係で結ばれた仲間たちのイメージ(水際で飛び跳ねて遊ぶ若者たち)


人間味のある信頼で結ばれた関係と、打算や計算で結ばれたギスギスした人間関係

この2つの関係のあいだには、いったいどのような違いがあるのでしょうか?

今回の記事では、信頼ある人間関係を築きたければ、絶対にやめておいた方がいい「ある行動」について考えてみたいと思います。

それは、私たちが、日常生活の中で毎日のように目にする「ある行動」です。

まず間違いなく、あなたもしたことがあるでしょうし、されたこともあるはずの「行動」です。

しかし、「その行動」をしてしまうと、人間味のある“信頼”関係は破壊され、その関係は、ある種“契約”的な冷たい関係に変わってしまいます。

その後に待っているのは、“契約”にもとづく打算と計算で動くお互いの姿だけなのです……。


もしあなたが、友人と、恋人と、奥さんや旦那さんと、子供と、と、部下や上司と、職場の同僚と……。

打算や計算が支配する“契約”的な関係を結びたくないのであれば、「その行動」は避けておいた方が無難です。

では、その「ある行動」とは、いったいどんな行動なのでしょうか……?

それを考えるために、今から少しだけ、あなたにはこんな想像をしていただきましょう。

ある保育園の悩み。あなたなら、どうやって解決する?

想像してみてください。

あなたは、ある保育園のオーナーです。

長年の努力の末に開いた、あなたの理想がつまった保育園を経営しているのです。

そんなあなたには、1つ、悩みがあります。

それは、子供を迎えに来るのが遅れてしまう親御さんが多いこと。

子供を迎えにくるのが遅れてしまうと、その分だけ長く、保育士に働いてもらわなければなりません。

そのための費用もバカになりませんし、親の気まぐれで保育園が振り回されるのも困ってしまいます。

そして何よりも、約束の時間を守らない不誠実さにイライラさせられます。


では、ここで考えてみてください。

いったいどうすれば、子供のお迎えが遅れる親を減らすことができるでしょうか?

もし、あなたがこの保育園のオーナーだったとしたら、どんな対策をとりますか?




…………。


いかがでしょうか?答えは出ましたか?

こんな問題を出しておいて、こんなことを書くのもアレなのですが、実は、この問題に対する「正解」は、この記事には書かれていません。

その代わりに、「この方法だけは、失敗するからやめておいた方がいいよ」という方法を紹介したいと思います。

もし、時間通りに子供を迎えに来てほしいのなら、絶対に導入しない方がいい方法

それは……。


子供のお迎えが遅れた親から、罰金をとること。」

これだけはやめておいた方が賢明です。

なぜなら、逆効果になってしまうからです。

詳しく、説明していきましょう。

罰金が、“信頼”関係を“契約”関係に変える

人に迷惑をかける行動をした人から罰金をとる……。

私たちの身の回りでも、普通に目にすることがある対策です。

例えば、レンタルしたDVDを期限までに返さなければその分の罰金を支払わなければなりませんし、駐車違反をしたような場合にも罰金がとられます。

実は、このことについて、ウリ・ニーズィーとアルド・ルスティキニという経済学者が研究をしたことがあり、その結果が『その問題、経済学で解決できます。』という本で紹介されています。

【 参考書籍 】

この本の著者であるウリさんは、ある日、自分の子供を保育園に迎えに行くのが遅れてしまったといいます。

そのとき、ウリと、ウリの奥さんのアイェレットは、「遅れたのがとても申し訳なく、自分たちが遅れたせいで子供の扱いがちょっと悪くなるんじゃないかなんて心配までした」そうです。(同書P.30)

ところが、それから数週間の時が流れたころ、その保育園では10分以上遅れた親からは10シュケル(3ドル程度)の罰金を頂くという発表がありました。

この罰金に効果はあったのでしょうか?

ウリとアイェレットにとっては、この罰金はまったくの逆効果だったそうです。

1ドル100円として、罰金はたった300円ですから、「延長保育の料金としては悪くない」と二人は感じたそうです。そして、次に遅れそうになった時には、「2人はもう、すごい勢いで車を飛ばして保育園に向かったりはしなくなっていた」といいます。(同書P.30)

罰金が導入される前には、遅れたことを申し訳なく感じていた2人が、罰金が導入されると、お金を払えば延長してくれるんでしょ?という気持ちに変わってしまったのです。


この経験をしたウリさん達は、10か所のイスラエルの保育園で20週間にわたる実験をおこなったそうです。

実験では、まず罰金がない時の状態を観察し、その後に10分以上遅れたら一律3ドルの罰金を科し、その様子を観察したということです。

その結果、「遅れてくる親御さんは大幅に増えた」そうです。(同書P.31より。原文では「増えた」に傍点。)

さらに、「いったん罰金を導入した保育園では、罰金を科すのをやめても、遅れてくる親御さんの数はふえたまま」になってしまったといいます。(同書P.31)


罰金が導入されたことによって、罰金を払えば遅れていいんでしょ?という気持ちになったのはウリさん夫妻だけではなく、誰にでも起こりうることなのですね。


(上記の実験は、Uri Gneezy and Aldo Rustichini, “A Fine Is a Price” journal of Leagal Studies 29 (Jaanuary 2000) : 1-17. によるそうです。)


このような心理について、ウリさんは、どのように分析しているのでしょうか?


どうなっているんだろう?罰金を科すことでレベッカ(注:保育園のオーナー) は、迎えに来るに遅れることの意味を変えてしまったのだ[※1] 。罰金が導入される前、親御さんたちは単純な暗黙の合意の下で動いていた。時間までに迎えに行くのは、子どもやレベッカ、保育園の人たちのためにする「正しいこと」だった。

[ 中略 ]

でも、レベッカが罰金を導入すると、親御さんたちと先生たちの合意の中身が変わった。親御さんたちは、乱暴な運転をしてまで時間に遅れないようにしなくてもよかったのだと気づいてしまった。さらに、レベッカは遅刻の価格をはっきり示した。安い価格だったが、それでも価格は価格だ。その結果、遅れるのはもう、暗黙の合意に反するものではなくなった。先生たちの残業は、駐車場とかスニッカーズと変わらないありふれた商品になった。市場に基づくインセンティヴが不完全な契約を補って完全なものにした。遅れるのがどれだけ悪いことか、今や誰もが正確に理解した。罰金を科すのは罪の意識に訴えるよりもずっと効果が薄いのを、レベッカは思い知っただろう。

[※1] 原文では「意味を変えてしまったのだ 」に傍点。

ウリ・ニーズィー,ジョン・A・リスト 著 望月 衛 訳 「その問題、経済学で解決できます。」東洋経済新報社(2014年)P.31~32より


ただ、1つ気になることもあります。

それは、約300円という罰金が安すぎるということです。

もっと高い罰金を導入すれば、遅れてくる人は減るのではないでしょうか?

このことについて、ウリさんはこう言っています。


大きな額のインセンティヴを与えれば(たとえばアメリカの一部で実際に行われているように、レベッカが遅れてきた親御さんに1分あたり5ドルの罰金を科していたら)、たぶんみんな、あなたの望みどおりに振る舞うだろう。だから、この話のキモは、お金はたっぷり支払うか、あるいはまったく支払わないかのどちらかでないといけない、ということだ。

ウリ・ニーズィー,ジョン・A・リスト 著 望月 衛 訳 「その問題、経済学で解決できます。」東洋経済新報社(2014年)P.36 より


たしかに、その通りな気がします。

1分当たり5ドルということは、もし10分遅れれば5000円です。

これなら、なかなか遅刻はできません。

ただし、このことについては、私から1つ付け加えておきたい事があります。

それは、高い罰金を導入すれば、たしかに見た目には遅れてくる人は減るでしょうが、それは信頼関係のために遅刻をしなかったのではないだろうということです。

遅れる人が減ったのは、保育園との信頼関係があったからではなく、高い罰金を払いたくないという動機のためだと考えられるのです。

つまり、安いにせよ高いにせよ罰金を導入した時点で、保育園と親たちの信頼関係は、たんなる“契約”に変わってしまうのだと考えられるのですね。


とことで、罰金という制度は、「こういう場合には罰をあたえます」という、アメとムチでいえば、「ムチ」にあたる制度です。

では、アメとムチの「アメ」の部分にも、同じような力が秘められているのでしょうか?

ここでもう1つ、興味深い実験結果を紹介したいと思います。

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報酬も、信頼関係を破壊してしまうのか?

ウリさん達は、イスラエルの「募金の日」に、ある実験を行いました。

その日には、慈善団体を活動を助けるための募金を、高校生たちが家々をめぐって集めたそうです。

その高校生たちに、報酬(つまり、アメとムチの「アメ」の部分)を与えることで、募金活動の結果がどう変わるのかを調べたのが、その実験です。


ぼくたちは実験を使って、お金のインセンティヴを提供すれば生徒たちはもっと募金を集めるか、もし集めるなら、生徒たちに最大限の仕事をさせるにはどれだけ払えばいいかを調べることにした。まずぼくたちは180人の生徒(彼らの誰も、自分が実験に参加しているとは知らない)を3つのグループに分けた。1つ目のグループは、寄付で集めるお金が慈善団体にとってとても大事だ、だから慈善団体は彼らにやる気を出して欲しい、全力で募金を集めてほしいのだと、リーダーから説明を聞かされる。2つ目のグループは、そんな話に加えて、それぞれ集めいたお金の1%を貰えると聞かされる(生徒たちにはこのボーナスは集まった募金から払われるのではないとはっきり伝えた)。胸に抱いたいいことをしたいという動機に、集めたお金の1%というインセンティヴが外部から加わったわけだ。3つ目のグループには、集めた金額の10%を貰えると伝えた。

ウリ・ニーズィー,ジョン・A・リスト 著 望月 衛 訳 「その問題、経済学で解決できます。」東洋経済新報社(2014年)P.35 ~ 36 より

なるほど。

実験では、3つのグループに、それぞれ少し違った動機づけがなされるように仕向けたのですね。

つまり、

  • 「グループ1」の高校生たちには、ただただ慈善事業を助けたいというだけの動機づけ
  • 「グループ2」の高校生たちには、慈善事業を助けたいという動機づけに加えて、1%の成果報酬による動機づけ
  • 「グループ3」の高校生たちには、慈善事業を助けたいという動機づけに加えて、10%の成果報酬による動機づけ
を与えたということです。

結果はどうたったのでしょうか?


募金を一番集めたのはボーナスを貰わないグループだった。基本的にこのグループは他の人たちのためにいいことをしたくて募金を集めた。でも明らかに他の2つのグループは、お金の報酬が持ち込まれたことで、自分たちがやろうとしている「いいこと」を考えるのを止め、代わりに、貰えるお金を頭において、単純な費用と便益の計算をするようになったのだ。2番目に募金を集めたのは10%を受け取れるグループだった。集めたお金の1%を貰えるグループが集めた募金が一番少なかった。どうしてだろう?この場合、お金はもともとあった、いいことをするインセンティヴを後押しするようには働かなかったのだ。レベッカの保育園の罰金と同じように、お金が高い志を押しのけてしまった。つまり、いいことをしたいという志よりお金のほうが大事になったのだ。

ウリ・ニーズィー,ジョン・A・リスト 著 望月 衛 訳 「その問題、経済学で解決できます。」東洋経済新報社(2014年)P.36 より


なんと、「ただただ慈善事業を助けたいというだけの動機づけ 」だけで募金活動に参加した「グループ1」の結果が、1番がよかったということです。

同書には、「平均では、生徒たちが訪れる家が多ければ多いほど集まる募金も多い」と、あります。(同書 P.35)

ですから、単純に、グループ1の高校生たちが、一番多くの家を訪問する努力をしたということなのでしょう。

そして、お金による動機付けが加えられたグループでは、より高い10%の成果報酬が約束されたグループが2番目の結果となり、1%のグループは最下位でした。

このことから、ウリさんは「お金が高い志を押しのけてしまった 」と分析しています。

(上記の実験は、Uri Gneezy and Aldo Rustichini, “Pay Enough or Don’t Pay At All” Quarterly Journal of Economics (August 2000) : 791-810,http://rady.ucsd.edu/faculty/directory/gneezy/pub/docs/pay-enough.pdf. によるそうです。)


ところで、この結果を見ると、ある実験が思い出されてきませんか……?

「外発的動機付け」が与えられると、人がもともと持っていた「内発的動機付け」を低下させてしまうことを示した実験です。

【 参考記事 】

もし、この参考記事の実験と同じことが起こっているのだとすれば、高校生たちの「慈善事業を助けたい」という内発的動機付け[※1]は、「1%や10%の成果報酬」という外発的動機付けによって、低下させられてしまったのだと考えられます。

「保育園との信頼関係を保ちたい」という内的な結びつきが、「罰金」という外発的動機付けによって破壊されてしまったのと同じように、高校生たちの純粋な想いも、目の前にニンジンをぶら下げられることによってどこかにいってしまったのですね。

そう。

「アメ」の方法を使おうが、「ムチ」の方法を使おうが、外発的動機付けによって人を動かそうとすれば、信頼などの内的な結びつきによる関係を破壊してしまうのです。(少なくとも、そういう方向の力がはたらくことがあるのです。)


[※1] 「内発的動機付け」の純度についての補足

厳密には、「慈善事業を助けるために募金に協力しよう」という想いは、純粋な内発的動機付けとは異なる可能性があります。

どういうことかと言うと、私は、「内発的動機付け」とは、その活動そのものから喜びが得られる活動だと捉えています。

だから、グループ1の高校生が募金の日が終わったときに「あ~、楽しかった~。募金集めに熱中しているうちに、あっという間に1日が終わっちゃたよ~。」と感じている場合には、グループ1の高校生たちは、かなり純度の高い内発的動機付けによって募金活動を楽しんだのだと予想されます。

一方で、「あ~、疲れた~。とても辛くて長い1日だったけど、今日の活動は、きっと意義のあることだったはずだよな~。」と感じているような場合には、募金活動そのものを楽しんだわけではなく、「募金の意義」という1クッションを通して「報酬(充実感や喜び)」を得ているわけですから、純粋な内発的動機付けではありません。

(だからと言って、高校生たちの努力が否定されるわけではありませんし、彼ら彼女らの活動は、間違いなく意義のあったものだと思います。ですが、内発的動機付けの純度としては、前者にくらべて低くなっていると言わざるを得ないでしょう。)

その意味では、「グループ1」の高校生たちの内発的動機付けの純度は、必ずしも高くなかった可能性もあるわけです。

なぜ、わざわざこのような補足を書いているのかというと、「自分を犠牲にして誰かに尽くす」という心理は、高尚なようでいて、実はとても危険な心理だからです。

「つらいけど、○○のために頑張っているの」という状態が続くと、やがて、自分も人も傷つけることになるでしょう。

【 参考記事 】
つまり、「つらいけど、慈善事業のために募金を集める」という心理状態は、“見せかけの楽”、“取り繕った和”のレベルだということです。

また、もう1つ補足すると、ある活動に対して、「純度100%の内発的動機付けで行動する」ということも「純度0%の内発的動機付けで行動する」ということも、まずあり得ないことです。普通は、1つの行動に対しても、様々な動機付けが入り混じりますから、純度100%でなかったとしても、落ち込む必要はありません。

毎回こんな補足を書いていられませんので、純度が低いものも含めて、ひとくくりに「内発的動機付け」と呼んでしまうことがあることをお知らせしておきます。

「純粋に、その活動そのものから喜びを得ているのか?」を判断基準にして、適宜、見分けていただければと思います。

「期待の新人」のやる気をへし折った部長の一言

たしかに、わたし自身にも似た経験があります。

私が学校を卒業して、ある社会で開発・設計系の仕事をはじめて1年と半年くらいが過ぎた頃のお話です。

当時の私は、「この会社に一生養ってもらおう」などという気持ちはまったくありませんでしたが、「今はこの会社にお世話になっているのだから自分にできる最大限の貢献はしよう」という、純粋な気持ちをもって、少なくとも人並み以上には熱心に仕事に取り組んでいました。

また、学生時代にビジネス書の類を読みあさっていた時期があったので、同年代にくらべて、ビジネスやマネジメントに関する知識は豊富だったと思います。



積まれた、ビジネス書の山の画像
(画像はイメージです)


(しかし、少し勉強したあたりで、現代的なビジネスの世界に不信感や違和感を感じるようになり、その手の勉強は一切やめてしまいました。ですから、今となっては、むしろ不勉強な部類だと思います。)

もっと言ってしまえば、経験という意味では足元にも及ばないものの、ビジネス的な考え方や知識の量だけでいえば、そういうことを苦手としている技術系の課長の一部の人になら負けないくらいの自信もありました。

といっても、そういう雰囲気を出せば完全にウザい奴ですし、また、長年の経験に対しては敬意を払わなければならないと思っていました。

そしてなによりも、違和感を感じている現代的なビジネスの世界で上を目指したいなどという気持ちは微塵もありませんでしたから、ビジネス書なんて読んだこともないフリをして、大人しく過ごしているつもりでした。

それでも、どこかから、そういう雰囲気が出てしまっていたのでしょう。

技術系の職場ではそういう人間が珍しいですから、そんな部分を買われた私は、入社から1年半が過ぎたころに、ある新製品開発のPL(プロジェクト・リーダー)を任されることになりました。

自慢に聞こえてしまったら申し訳ありませんが、別に自慢がしたかったわけではありません。

何をお伝えしたかったのかというと、その後に起こった「ある事件」のことをお伝えしたかったのです。

それは、私がPLを務めるようになって何ヶ月かの時間が過ぎたころのことです。

私が食堂で昼食を食べていると、私をPLに任命した部長がひょこっとあらわれて、私の隣で食事をはじめました。

そして、最近の状況などを報告しながら食事が終わり、席を立とうという雰囲気になった、その時です。

この製品が立ち上がったら、キミも係長だね。

部長の口から、その一言が発せられたのです。

もちろん、その一言を発した部長に悪意はなかったと思います。

当時の私は、どうやら、「やることは器用にこなすし頑張ってもいるけど、“利益”とか“右肩上がりの成長”に対する“貪欲さ”や“覇気”のようなものが感じられない」というように見られていたようです。

それもそのはずで、すでに書いたように、この時の私はすでに、現代的なビジネスの世界で出世競争をするようなことにはまったく興味がありませんでした。

そんなことよりも私が興味があったのは、現代的なビジネス世界の常識を超えたところにある、もっと一人ひとりが幸せに生きられる世界を、いかにして構築するか?ということでした。

だから、PLに任命されたことも不本意で、ウソをつくのが苦手な私の顔には、隠しているつもりでも「PLなんてやる気がありません」と書いてあったのだと思います。

終電帰りは当たり前で、下手をすれば終電にも間に合わないような忙しいPLの仕事をするくらいなら、早く家に帰って、いま“和楽の道”に書いているような、新しい世界をつくるための探求に情熱を傾けたかったのです。

しかしそうは言っても、生活のために、今はこの会社にお世話になっているのも事実です。

だから、自分に与えられた仕事はしっかりこなして、最低限、自分の給料分以上の貢献はしておきたい

それが、私にとっての、会社に対する義理の通し方でした。


そんな私の会社に対する誠意に大きなダメージを与えたのが、上の部長の一言です。

この製品が立ち上がったら、キミも係長だね。

すでに書いたように、部長が悪気があってこの一言を発したのではないことは、私もよくわかっていました。

目の前にニンジンをぶら下げれば、もっとやる気を出すだろうと思ったのでしょう。

また、私に対して「努力には報いる準備があるからね」と伝えてくれたという面もあるのだと思います。

しかし、頭でわかっていても、心が「興醒め」していくのは止めようもありません。

「いやいやいやいや。別にそんなことのために頑張ってるわけじゃないし……。っていうか、そんな安い肩書きのために動く人間だと思われてるのかな?」
そんな思考が頭の中を駆け巡っていることを隠しながら、不器用なつくり笑いで、

「そのためにはまず、英語を頑張らなきゃダメですね~」

と答えるのが、その時の私にはやっとでした。

(係長になるためには、英語で一定以上の得点が必要なので)


こんなことを書くと、不快に感じる方もいると思いますが、それが、当時の私の正直な気持ちでした。


その製品はそれから一年もかからずに立ちあがる予定でしたから、その時に係長になれれば、社内では圧倒的な最年少管理職です。

(おそらく、当時の管理職の平均年齢は40~50代くらいだと思います。)

プロフィールに箔が付きますし、客観的には悪い話ではありません。

しかし、私の「やる気」にとっては、大きなマイナスになってしまったのです。

なぜならば、私の「やる気」は、会社に対する誠意によるところが大きかったからです。

もちろん、私が仕事に取り組む時の動機づけの中には、「生活のため」という明らかな外発的動機付けもありましたが、それだけであれば、クビにならない程度の仕事をしておけば十分です。

私がそれ以上の努力をして、最年少管理職の候補になれるだけの成果を出していたのは、会社に対する誠意という部分があったからに他なりません。(他にも、「いい加減な仕事はしたくない」というプライドのようなものも大きかったですが。)

部長の一言は、その部分に大きなダメージを与えたのです。


(ただ、幸いなことに、私の場合には、この記事に書いているようなメカニズムを知っていて、自分の心の中で起こっていることを、ある程度、自分自身で理解することができましたから、その後も、それなりには会社に対する誠意は保っていくことができました。

また、このエピソードを通して、「私が正しかった」とか、「部長が間違えていた」と言いたいわけでもありません。私自身、自分は扱いにくい人間だという自覚はありますから、迷惑をかけたなという気持ちもあります。

伝えたかったのは、目の前にニンジンをぶら下げるという行為が、会社への誠意にダメージを与えてしまったということです。)


ウリさんたちが、高校生たちの募金の実験結果を、報酬に気を取られることで内発的動機付けのレベルが低下したと分析したのとは少し事情が違いますが、私の場合にも、外発的動機付けが内的な信頼関係にダメージを与えたという意味では似ています。

どちらかと言えば、保育園が罰金を導入することで、信頼関係がたんなる“契約”に変わってしまったことに似ているかもしれません。

「別に、係長なんかになれなくていいから、頑張らなくてもいいよね?」

という心理状態です。

「成果主義」が上手く機能する場合。失敗する場合。

ここで疑問なのですが、私の場合は興醒めしてしまった部長の一言で、やる気を出すような人はいないのでしょうか?
もちろん、そういう人もいるでしょう。

わたし自身も、そういう人を何人も見たことがあります。

これは、どのような場合に起こるのでしょうか?

先ほどの、ウリさん達の募金活動の実験結果を思い出してみましょう。

その実験では、「金銭的報酬なしのグループ」が一番の成果をあげ、「10%の成果報酬のグループ」が二番目の成果を出し、「1%の成果報酬のグループ」の結果は最下位でした。

もし、この実験と同じことが起こるのだとすれば、「1%の成果報酬のグループと同じような動機付け」で働いていた人にとっては、「これまで以上の報酬と、これまで以上の地位を約束してくれる係長の肩書」には大きな効果があるのではないでしょうか?

「1%の成果報酬」よりも「10%の成果報酬」の方がより高い結果が出たように、「平社員」の目の前に「係長」のニンジンをぶら下げれば、より大きな努力をするようになると考えられるのです。

しかし一方で、「金銭的報酬なしのグループのように内発的動機付けメインで仕事をしている人」の前にニンジンをぶら下げれば、「10%の成果報酬のグループ」と同じくらいの成果しか出せなくなってしまうのではないでしょうか?

仕事である以上、厳密に「金銭的報酬なし」ということはあり得ませんが、以前の私のように、外発的動機付け以上に会社への誠意から努力しているような場合には、これがあてはまるでしょう。

また、年功序列のような「仕事の成果」と「出世や給料」に直接的なリンクがないような場合にも、目の前の仕事が外発的動機付けに支配されてしまうことも少ないでしょう。

なぜならば、目先の利益を上げても、一定の年齢になるまでは昇進することができないからです。


あれ……?

ちょっと、待ってくださいよ。

もしそうであれば、これは大変なことです。

「1%の成果報酬のグループ」と同じようなレベルで仕事をしている職場に、強力な「成果主義」を導入すれば、「10%の成果報酬のグループ」に近づいて、成果もあがるでしょう。

つまり、成果主義は効果を発揮するのです。

しかし、完全な年功序列の環境の中で、さらに内発的動機付けによって活性化されている「金銭的報酬なしのグループ」に近い状態の人が多い職場に「成果主義」を導入すると、「10%の成果報酬のグループ」や「1%の成果報酬のグループ」のレベルにまで成果が落ちてしまうと考えられます。

(もちろん、最悪なのは、仕事の成果が報酬にリンク(外発的動機付け)もしてないければ、内発的動機付けのレベルも低い状態の職場なのは言うまでもありません。)

そうだとすれば、内発的動機付けのレベルが低い職場であれば、どんどん成果主義を導入すればある程度の結果に結びつくということです。

しかし、その成果は、内発的動機付けによって活性化された職場には及びません

そして、「グループ1」の高校生たちのように「内発的動機付け」で活性化された職場に、成果主義を導入したら何が起こるでしょうか?

そう。「グループ2」の高校生たちのように、かえって成果が出なくなってしまう可能性があるのです。

そして何よりも、成果主義によってもたらされる成果は、人間的な結びつきによるものではなく、たんなる“契約”の結果としてもたらされるものだということは忘れてはなりません。

なぜ、「神話」とまで呼ばれた会社が、「ソニーショック」を引き起こしたのか?

ところで、成果主義と言えば、もう1つ書いておかなければならないことがあります。

以前、「ソニー神話」と言われていた頃のソニーについての記事を書いたことがありました。

その記事では、ソニーでCD(コンパクトディスク)やAIBO(犬型ロボット)の開発チームを率いていた天外伺郎さんの著作を参考に、当時のソニーの雰囲気について書きました。

簡単におさらいすると、当時のソニーには、強力な信頼関係や安心感があふれており、そんな環境の中でエンジニアたちが「自由闊達」に仕事を楽しむことが、ソニーの「神話」と形容されるほどの成長につながったということでした。


しかし、時が流れると、今度は同じソニーという会社が「ソニーショック」と呼ばれる現象を引き起こすほどに傾いてしまいました。

いったいなぜ、「神話」とまで呼ばれたソニーが、そんな状態になってしまったのでしょうか?

天外さんは、次のように言っています。


凋落に向かっていくときのソニーでは、成果主義を導入した結果、事業部門間の協力関係が徹底的に破壊された。たとえば、ノートPCを担当する事業部とデスクトップPCを担当する事業部が、搭載するソフトウェアで協力できないような状況になってしまった。

後から就任したCEOはそれを見て、「ソニーの事業部は、まるでサイロ(牧草などを発酵させて貯蔵する縦長の倉庫)のように閉じている」と嘆いた。それが凋落のひとつの要因になっていたことは、誰の目にも明らかだったのだ。

天外 伺郎著『非常識経営の夜明け 燃える「フロー」型組織が奇跡を生む』講談社(2008年)P.158より

なんと、ソニー凋落の原因として成果主義をあげています。

成果主義が、社内の協力関係を徹底的に破壊してしまったと言うのです。

思い出していただきたいのは、ソニーが神話と呼ばれるほどの成長を遂げた背景には、社内の信頼関係や安心感があったということです。

そんな社内の雰囲気を、成果主義が破壊してしまったのですね。

ところで、これ。これまでに説明してきた実験結果に似ていませんか……?

例えば、保育園の実験とくらべてみましょう。

信頼や善意でなりたっていた保育園と親たちの関係は、罰金という外発的動機付けの導入で破壊され、たんなる“契約”になってしまいました。

罰金を高くすれば効果があったとしても、それは信頼関係が回復したわけではなく、ただ高い罰金を払いたくないから遅れないようにしただけのことです。

同じように、ソニーの内部にあった信頼関係も、成果主義という外発的動機付けによって破壊されてしまったのです。

他部門を助けることなんて、自分の成果には結びつきません。

それどころか、他部門の成果が上がってしまえば、自部門の評価が相対的に下がってしまうかもしれません。

たんなる“契約”として仕事をしているだけなら、他部門を助けることなんて、時間を無駄にする愚かな行為でしかないのです。

一方でもし、昔のソニーの雰囲気が残っていたらどうでしょう?

エンジニアたちが内発的動機付けで活性化されていて、その内なる動機づけが命じるままに動いたとしても、誰からも咎められない安心感や信頼関係が築かれてる状態です。

おそらく、エンジニアたちに面白い相談を持ちかければ、それがたとえ他部門からの相談であったとしても、「上司に内緒で物を作れ!」が許されていたその環境の中で、コソコソと他部門に協力してしまうのではないでしょうか?

アメとムチによる外発的動機付けが、人間的な信頼関係を破壊するという現象は、実際の社会の中でも起きていたのですね。


ちなみに、上に書いた「上司に内緒で物を作れ!」というソニーの格言は、天外さんの著作以外にも、私が直接知り合った、何人かのソニー出身者たちの口からも聞かれた格言です。

ですから、この格言は、ソニーの文化として、かなりのレベルで浸透していたのだと思います。

また、長年、ソニーに勤めてきた方の多くは「ソニー愛」が強く、ソニーの話をした途端に、目を輝かせ、声色を変えて話し出す人が多かったように感じます。

“信頼”関係を築くために

ここまで、色々な事例について見てきました。

共通していたのは、人間関係の中に「アメとムチによる外発的動機付け」を持ち込むと、“信頼”関係はダメージを受け、その関係は、たんなる“契約”関係に近づいてしまうということです。

その後に待っているのは、「これをすれば、報酬がもらえるかな?」、「これをすると、罰金をとられるかな?」というような打算や計算が支配する関係性です。

もちろん、人間関係の構築など望めない、都会のレンタルDVD店では、少なくとも当面の間は、返却が遅れたお客さんからは罰金を取るような“契約”を結ぶのが賢い選択かもしれません。

しかし、もしあなたが誰かと人間味のある信頼関係を築きたいと思ったとしたら、その関係の中に、アメとムチ(外発的動機付け)を持ち込んではならないのです。



夕日に照らされて長く伸びた、仲のいい三人組の影


ですが、これ。

簡単なようでいて、結構難しいですよ。

例えば、子供に勉強をさせようとしたときに、親はどのような行動に出るでしょうか?

一部の親は、「テストで○○点以上取れたら、この前欲しがってたオモチャを買ってあげる」とか、「1日1時間勉強したら、お小遣いに100円あげる」というような方法で、子供に勉強をさせようとします。

お気づきのように、この方法は、明らかに“契約”を迫るやり方です。

しかも、このやり方は、親子の間に“契約”関係をつくりだしてしまうだけでなく、子供の勉強に対する純粋なやる気まで奪ってしまいます。

【 参考記事 】

まあ、これはわかりやすいでしょう。

では次に、子供が自主的にお手伝いをしてくれた場面を考えてみましょう。

「お手伝いしてくれるなんて、いい子だね~。」

そう褒めたとしたら、これもNGです。

なぜならば、この発言の背後には「お手伝いしてくれるのはいい子。お手伝いしないのはよくない子。」という暗黙の前提があるからです。

つまりこの発言には、「お手伝いすれば褒めるし、しなければ褒めませんよ」という外発的動機付けによる“契約”の要素が含まれているのです。

ですから、子供が自主的にお手伝いしてくれたような場合には、「ありがとう!助かったな~。嬉しいな~。」と素直な気持ちを伝える方がベターでしょう。


そう考えると、あなたも、日常生活の中で、普通に“契約”関係をつくる発言や行動をとってしまっていることに気づくのではないでしょうか?

こんな記事を書いている私自身が、ついつい、無意識にそういう言動をしてしまうのですから、この事実をこれまで知らなかった人であれば、毎日のように“契約”をしていたとしても、それはある意味で当然のことです。


あなたは、友人に、恋人に、奥さんや旦那さんに、子供に、に、部下や上司に、職場の同僚に……。

“信頼”関係ではなく、“契約”関係を迫っていませんか?


もし、温かい“信頼”関係を望むのであれば、“契約”を迫るのは控えた方が賢明です。
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