見えざる手 ― 私たちの社会を動かす“観念”のプログラム


公開日:2017年5月18日 [ 記事 ]
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今回の記事も、少しマニアックで、あまり読まれない記事だと思います。笑

なので、初めての人に読んでもらうための興味をそそるような書きだしは考えたりしないで、淡々と始めていきましょう!


これまで、“和楽の道”では、“観念”のはたらきについてたくさんの記事を書いてきました。

その影響力は、個人のちょっとした言動から、会社組織、さらには「お金」という存在すらつくりだす程の力を秘めていました。

【 参考記事 】

今回の記事では、さらに、私たちの社会の仕組みや制度に“観念”が与えている影響について考えていきましょう。

“見えざる手”の影響力

今から、中学や高校の社会科の授業を思い出してみてください。

その中で、「見えざる手」という言葉を習いませんでしたか?

これは、経済学の父と呼ばれるアダム・スミスの言葉で、『一人ひとりの個人が「私利私欲」を追求しても、「見えざる手」の導きによって、最終的には全体の利益が得られる』という理屈です[※1]

綱引きの均衡」によってもたらされる秩序ですね。


そして、この言葉の影響の1つとして、「私利私欲の追及の肯定」という効果があったと習わなかったでしょうか?

この言葉が生まれた当時、キリスト教の倫理観では、「金儲けは悪いことだ」と考えられていたそうです。

ところが、この言葉の登場によって、「私利私欲を追求して金儲けをしても、それは社会全体のためになるのだ」という認識がうまれました。

そのことによって、「金儲け」が正当化されるようになり、その後、欧州が世界を圧倒する経済成長をとげるための精神的な下地をつくる効果があったという考え方です。

このことの功罪は置いておくとして、いま注目したいのは、人々の認識の変化が社会の仕組みを変える原動力になったということです。


社会全体が「金儲けは悪いことだ」という“観念”を受け入れている。 ▶ お金儲けをしたくても、罪悪感を感じたり、周りの目が気になったりで、行動にブレーキがかかる。

そこに、「金儲けは良いことだ」という“観念”が登場する。 ▶ お金を儲けることを正当化できるようになったので、これまで、私利私欲の追及を我慢していた人たちが、金儲けに精を出し始める。


簡単に言えば、こういう構図ですね。


人々が受け入れている“観念”が書き換わると、まるで「社会を動かす“プログラム”」が書き換わったかのように、社会の変化が起こるのです。

といっても、これだけでは説得力が薄いので、もう少し説得力のある説明をしてみましょう。

※1 詳しくは、Wikipedia「見えざる手」などを読んでみてください。

ただし、「見えざる手」は完璧な存在ではなく、全体の最適化に失敗することもあります。(Wikipedia「市場の失敗」

「資本主義」成立のための最重要条件

私たちが暮らしている現代社会の経済の仕組みは、資本主義と呼ばれています。

では、この資本主義経済が成立するための最も重要な条件は、いったいなんなのでしょうか?

ここでは、ソ連崩壊を10年以上前に予言し天才思想家と呼ばれた小室直樹博士に、これまた歴史に残る天才と評されるマックス・ウェーバーの思想を解説してもらいましょう。


資本主義の精神が、資本家(経営者)と労働者のエートスとして形成されること。
この条件が、技術進歩、「資本」蓄積、商業の発達などの諸条件につけ加わるとき、資本主義は発生し成立する。

[中略]

資本主義成立のための条件として、技術進歩、「資本」蓄積、商業の発達は重要な条件ではある。しかし、決定的な条件ではない。決定的な条件は、資本主義の精神である。

資本主義の精神こそ、ヴェーバーが資本主義を分析するにさいしての中心概念である。いわば、ヴェーバー社会学の立役者である。そして、資本主義の精神こそ、資本主義成立のための決定的条件である。

小室直樹 著 「小室直樹の資本主義原論」東洋経済新報社(1997年)P.185より

なるほど。

「資本主義の精神が、資本家(経営者)と労働者のエートスとして形成される」ことが、資本主義経済を成り立たせるために最重要な条件[※2]になるのですね。

ところで、この「エートス」とは、どのような意味なのでしょうか?


ここでは、さしあたって一言であらわしておくと、「エートス(Ethos(エートス),ethos(イーソス)=ethic(エシック))とは、倫理とその背後にある空気ニユーマ(pneuma)である」と言っておきたい。換言すれば、「“エートス”は、行動様式と訳してもよいが、このさいの行動とは、外面的行動(オーヴアート・ビヘイビア―)だけではなく、それを内面からささえつき動かす動機、意志……、倫理的雰囲気などの内面的行動(コーヴアート・ビヘイビア―)も含む」。
小室直樹 著 「小室直樹の資本主義原論」東洋経済新報社(1997年)P.189より

エートス」とは、人の内面と外面の行動を規定する倫理と空気感、言ってみれば、人の行動を背後から規定する“プログラム”のようなものなのですね。

この人々を動かす“プログラム”が、「資本主義バージョン」に書き変ることが、資本主義が成立するための絶対条件だということでしょう。

ところで、この「エートス」という言葉は、私が最近よく使っている“観念”という言葉と近い意味で使われています。

【 参考記事 】

なので、


資本主義が成立するための最重要条件は、人々が「資本主義の“観念”」を受け入れることである。

と言い換えても、ほとんど同じ意味になるでしょう。

私たちの生活を大きく左右する経済の仕組みすらも、私たちの“観念”の力によって動かされているのですね……。


とは言っても、“観念”が一方的に“現実”をかたちづくるプログラムとして機能するのかといえば、必ずしも、そうではないことには注意が必要です。

なぜならば、“現実”世界の出来事が、私たちの“観念”をつくりだす方向の力も存在しているからです。

【 参考記事 】

※2 資本主義の精神についは、Wikipediaの「資本」の項目(2016年10月19日版)を参照

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民族が滅んでしまうとき……

“観念”という名のプログラムが、経済の仕組みという、私たちの社会の基盤となっている部分をも大きく動かしていることがわかりました。

もう1つ、“観念”が、私たちの社会を大きく動かしている例をあげてみましょう。

(当初は、このテーマで1つの独立した記事を書こうと思い下書きまで終わらせていたのですが、デリケートな内容なので公開を躊躇っていました。しかし、「臭い物にフタ」をして、見たくないものから目をそむけているのも違うと思いましたので、この記事の中で触れることにしました。)

突然ですが、ある民族が滅んでしまうときというのは、いったいどんな場合でしょうか?

戦争で攻め滅ぼされた時?

突然の環境変化で世界中に散り散りになっての移住を余儀なくされた時?

それとも……。

色々な原因があると思いますが、私は、その本質にあるのは「民族の記憶」が失われることにあると思っています。

「民族の記憶」というのは、言ってみれば、「その民族が共有する“観念”の集合体」です。


例えばの話です。

日本語で書かれたこの記事を読んでいるということは、おそらく、あなたは日本人[※3]だと思います。

そんなあなたに、「あなたは何人ですか?」と問いかければ、おそらく「日本人です」という返事が返ってくると思います。

ところがです。

あくまでも、「もし」の話ですが、こんなことがあったらと考えてみてください。

今まで誰も教えてくれなかったかもしれませんが、実は、あなたの出自には秘密がありました。

あなたの本当の両親は、見た目は日本人に似ているけれども日本人ではない民族で、当然、あなたにもその民族の血が流れています。

しかし、色々な事情があり、あなたは、あなたの育ての親のもとに里子に出されました。

そこであなたは、日本人として育てられたのです。

あなたには、そのことを秘密にしたままで……。


もし仮に、そういうことがあったとすると、次のようなことが言えるでしょう。


  • あなたには日本人とは違う民族の血が流れている
  • しかし、あなたは日本人として育てられ、あなた自身も自分のことを日本人だと思っている

もし、そんなあなたが、この事実を知ることのないまま、その生涯を終えたらどうなるでしょう?

あなたは、自分自身の人生を振り返った時、「私は、日本人として生き、日本人として生涯を終えた」と思っているでしょう。

と、いうよりも、自分が日本人であることに疑問を感じた事さえありません。

もちろん、周りの人たちも、あなたを日本人として扱っています。

そしてもし、あなたに子供がいたとしたら、その子も、またその次の世代の子供も、日本人として暮らしていくことになるでしょう。


ここで、疑問があります。

あなたには日本人の血は流れていませんが、日本人として生きています。

では、日本人の血が流れていないあなたを、日本人として存在させているものは、いったい何なのでしょうか?

それこそが、私のいう「民族の記憶」なのです。

あなたは、日本人として、日本の地で育てられました。

日本語で自分の名前を名乗り、日本の文化や風習の中で生きてきました。

このような生活をつづけていく中で、あなたは日本人としての“観念”を、知らず知らずのうちに身につけていたのです。


日本人の“観念”などと言うと難しく聞こえてしまうかもしれないので、いくつか例をあげてみましょう。



例1 : 日本人の安全“観”

例えば、日本人からすると普通のことだけど、海外の人からすると奇妙に見える日本人の行動ってありますよね?

テレビ番組やネットの記事などでも、よく見かけると思います。

例えば、電車の中で無防備に寝ている人や、喫茶店で荷物を置いたまま席を離れる人を見て、海外の人は「大丈夫??」と驚くそうです。

でも、私たち日本人にとっては、別に珍しい光景ではありませんから、ちょっとくらい心配になることはあっても、驚いたりしないですよね?

では、いったいなぜ、私たちはそのような光景を平気な顔で見ていられるのでしょうか?

それは、私たちは、過去の経験から、「電車の中で眠ってしまったり、喫茶店の席に荷物を置きっぱなしにしてしまったりしても、まず問題は起こらない」と信じているからです。

つまり、「電車の中で寝ても大丈夫」、「ちょっとくらいなら喫茶店の席に荷物を置いておいても大丈夫」という“観念”を持っているのですね。

これが、日本人の(多くが持っている)“観念”の一例です。



例2 : 日本人のチップ“観”

もっと、例をあげてみましょう。

例えば、海外では、なにかサービスをしてもらった時にチップを渡す習慣がある国があります。

しかし、日本人同士であれば、なにかサービスをしてもらっても、チップを渡すということはまずありません。

もしチップなんて渡そうとすれば、下手をすれば、相手に「別にそんなつもりでサービスしたわけじゃない」と不快な思いをさせてしまうかもしれませんし、「嫌味な奴だ」と思われてしまうかもしれません。

この感覚、おそらく日本人同士であれば、「そうだよねー」と、わかってもらえるのではないかと思います。

そしてもし、あなたが「そうだよねー」と共感してくれたとしたら、それは私たちが似た“観念”を共有しているということでしょう。

例えばそれは、「せっかくの善意に金額をつけるのは失礼なことだ」というような“観念”かもしれません。

なんにしても、「サービスをしてもらっても、チップなんて払うもんじゃない」という“観念”も、日本人の多くが共有している“観念”だと思います。



例3 : 日本人の文字“観”

さらに、例をあげてみましょう。

英語圏の人が、英単語がプリントされたTシャツを着ている日本人を見ると、「なんで、そんな言葉が書かれた服を着てるの!?」と、奇妙に思うことがよくあるそうです。

日本人が、漢字がプリントされたTシャツを着ている外国人を見て、違和感を感じるのと同じですね。

英語圏の人がそう感じるのも、日本人がそう感じるのも、その文化の人々が共有する“観念”が引き起こしているのです。

もっと言ってしまえば、「漢字」や「アルファベット」という文字が読めること自体が、“観念”の作用によるものです。

【 参考記事 】

他にも、すぐに「すいません」と謝るとか、挨拶する時に目を見ないでお辞儀するとか、外国の人が日本人に違和感を感じるといわれている場面は、色々ありますよね。

どれも、日本人同士であれば、別に変ったことではない普通のことですが、海外の人からは奇妙に映るようです。

つまり、こういったことを「普通」だと思わせている“観念”は、日本人独自の“観念”なのですね。



例4 : 日本人の大人“観”

もう1つだけ、見てみましょう。

私たちは、どんな人のことを「大人」と見なしているのでしょうか?

もちろん、これについては日本人同士でも意見が分かれると思います。

例えば、「自分が生活していける収入があってこそ、一人前の大人だ。」という大人観(“観念”)を持っている人もいるでしょうし、「いやいや、結婚して家庭をもつことが一人前の証だ。」と考えている人もいるでしょう。

しかし、「バンジージャンプをしたことがある」とか、「牛の背中を歩ける」とか、「毒アリに噛まれて激痛に耐える」とか、そういうことを一人前の条件だと思っている日本人は、まず居ないと思います。

(ちなみに、ご存じの通り、このような通過儀礼を通過しなければ大人として認められない社会が実際に存在[※4]しています。バンジージャンプなどは有名ですね。)

なんだかんだ言っても、日本人には、日本人に共通する「大人観」があるのですね。

他にも、「生死観」や「人生観」、「人間観」、「仕事観」、「宗教観」、「宇宙観」、……。

探せば、日本人ならでは“観念”[※5]を、いくらでも見つけられるはずです。

このような、ちょっとしたものから、人生や社会の根幹にかかわるような“観念”の数々は、日本人一人ひとりの人生にも、日本人がつくる社会にも大きな影響を与えているはずです。

この記事では、このような「その民族が共有する“観念”の集合体」のことを、「民族の記憶」と表現しました。

この「民族の記憶」を受け継ぐことができれば、たとえ遺伝的な血のつながりがなかったとしても、どこからどう見ても日本人のように振る舞うことが出来るのです。

(実際、ある有名な民族が、そのことを歴史の中で証明しています。そのことについては、後ほど説明しましょう。)


※3 そうでない場合には、自分の国に置き換えて考えてみてください。また、ここでは細かい民族の区分を議論するのが目的ではありませんので、ざっくりと、大和民族、アイヌ民族、琉球民族などを含んだ大きな意味で日本人と呼んでいます。


※4 参考までに、それぞれの通過儀礼について簡単に説明しておきましょう。

バンジージャンプ」 … バヌアツ共和国のペンテコスト島で行われている「ナゴール」という儀式。自家製の木製のやぐら(高さ数十メートル)の上から、足にツタを結び付けて飛び降りる。怪我人や死者がでることもある。






牛の背中を歩ける」 … エチオピアに住むハマル族の、並べられた牛の背中の上を何往復かする「ブルジャンプ」と呼ばれる成人の儀式。






毒アリに噛まれて激痛に耐える」 … アマゾン川周辺に住むフーベイ族の儀式。草で編んだ手袋の中に、大量の毒アリを入れてその中に手を入れます。このアリの毒をうける、まるで銃弾に撃たれたかのような激痛が続くそうです。これだけでも想像もしたくありませんが、成人するためにはこれを20回も繰り返すそうです。






※5 もっと言ってしまえば、同じ日本人であっても、時代によって共有する“観念”は違ってきます。例えば、昔(戦国時代など)であれば、「仕事で大きな失敗をしたら、腹を切って責任をとるものだ」という“観念”は珍しいものではなかったでしょう。しかし、現代の日本人で、同じような“観念”を持っている人は滅多にいないはずです。

「血」がつながっていても、「民族の記憶」がつながっていなければ……。

逆に考えてみましょう。

あなたの中には別の民族の血が流れているのですから、遺伝的には、あなたは日本人ではありません。

(ここでは、そういう設定です。)

しかし、あなたは日本人としての人生しか経験したことがありませんから、あなたが持っているのは日本人としての「民族の記憶」だけで、あなたの遺伝上の民族が持つ「民族の記憶」は持っていません

だから、もしあなたが、その民族が暮らす地を見つけ出して訪れたとしても、その民族のネイティブとして暮らすことは簡単ではないでしょう。

もちろん、お互いの血がつながっていることがわかれば、友好的な関係で過ごすことは出来るかもしれません。

それでも、生粋のその民族の人たちと、あなたとの間には、やはり違和感のようなものは存在するはずです。

これは、私たちにあてはめてみれば、よくわかります。

例えば、見た目は完全に日本人で、日本語も流暢な人に会ったとします。

しかし、その人がなにかサービスをしてもらった時に、ごくごく自然な感じでチップを払おうとしたらどうでしょう?

きっと、「あれ?この人、日本人だと思ったけど、日本人じゃないのかな?」とか、「日本で暮らしたことないのかな?」などと思うのではないでしょうか?

たとえその人に日本人の血が流れていても、日本の国籍を持っていたとしても、ネイティブな日本人とはちょっと違う違和感のようなものを感じるのではないかと思います。

私たちが共有している日本人としての「民族の記憶(“観念”)」には、チップを支払うという文化が記録されていないので、違和感を感じるのですね。

だから、もし、あなたがその民族のコミュニティの中で、ネイティブとして過ごせる日が来るとすれば、そのためには何年もの時間が必要でしょう。

なぜならば、あなたがネイティブとして振る舞えるようになった時というのは、その何年もの時間をかけて、その民族が持つ「民族の記憶」を獲得できた時に他ならないからです。

そう。

ある民族のネイティブとして振る舞うためには、その民族が持つ「民族の記憶(その民族が共有する“観念”の集合体)」が必要なのです。


民族が滅びるとき ― 民族存続の最重要条件

ある民族が、その民族であるためには、「民族の記憶(“観念”)」が必要である。

もしそれが本当だとすれば、ある民族から「民族の記憶」を奪ってしまえば、その民族は滅びることになります。

これは本当なのでしょうか?

残酷な話なのであまり書きたくはありませんが、残念ながら本当でしょう。

歴史上、強い力を持ったある民族が、別の民族を滅ぼそうと思った時、自分たちに同化させるという方法がよく使われます。

その民族独自の、言葉、名前、文化や伝統、宗教……etc.

ありとあらゆる、「民族の記憶」を子供たちに伝えるための媒体を奪うことで、実質的にその民族を消滅させてしまおうとするわけです。

例えば、「インディアン寄宿学校」などが有名ですね。

【 参考記事 】

このwikipediaの記事にもあるように、言語や宗教といった「民族の記憶」を伝える術を奪われたインディアンたちのアイデンティティは、深刻な危機に見舞われたといいます。


この施設はアメリカ合衆国における人種的多数派である白人キリスト教徒によって経営され、「Reservation(保留地)」のインディアンの少年少女達を親元から強制的に取り上げ、先祖伝来の宗教、言語を禁止して、「インディアンを殺し、人間を救う」を合言葉に、キリスト教や欧米文化の学習、英語教育などを行っていた。ペンシルベニア州に創設された「カーライル・インディアン工業学校」がその第一号学校として有名である。

こうした方針はインディアン民族のアイデンティティに深刻な影響を与えるもので、2000年にBIA局長ケビン・ガバーはBIAの公式な文書でこれを「アメリカ合衆国によるインディアン部族に対する民族浄化である」と記載している。


恐ろしいことに、たとえ遺伝的にその民族が生き残ったとしても、「民族の記憶」さえ奪ってしまえば、実質的にはその民族の滅ぼして(民族浄化して)しまうことができるのです。

このような、「民族の記憶」の伝達手段を奪うことで、ある民族を自分たちの民族に吸収して消滅させてしまおうという政策(同化政策)は、決して珍しいことではなく歴史的にも、世界的にも何度も行われている政策です。

もちろん、日本も例外ではなりません。

【 参考記事 】

このような事実から考えると、「民族の記憶」の継承が、その民族が存続するために、絶対に必要な条件であることがわかるでしょう。

なにせ、「民族の記憶」さえ奪ってしまえば、その民族の血筋が残っていたとしても、その民族を滅ぼすことすら出来てしまうのですから……。

過酷な運命を生き抜いた「ある民族」

ところで、この「民族の記憶」について書くにあたって、もう1つ、絶対に外すことの出来ない民族が存在します。

それは「ユダヤ民族」です。

非常にデリケートなテーマですので、正直言って、あまり書きたくないのですが、「民族の記憶」について書くのなら、この民族を外すことはできません。


ユダヤ民族と言えば、住む土地を追われ、散り散りになって世界中に散らばった民族として知られています。

普通に考えれば、遥か昔に滅亡していたとしても不思議はありません。

ちょっと考えてみて欲しいのですが、もし、あなたが住む土地を追われ、遠く離れた異国の地で住まなければならなくなったとしましょう。

そんな時に、果たして、あなたの何世代も後の子孫たちは、日本人としてのアイデンティティーを保ち続けているでしょうか?

普通に考えれば、その地域の社会に溶け込み、遠い先祖に日本人が居たことくらいは知っていても、「私は日本人だ」などとは思っていないでしょう。

しかし、ユダヤ民族は違いました。

彼らは、長い離散の歴史を経てもなお民族としての独立を保ち続け、良い悪いは別として、イスラエルというユダヤ国家をつくるまでに至りました。


「ユダヤ」というと、その影響力の大きさからか、「ユダヤに学ぼう!」という意見から、「諸悪の根源だ」という意見まで様々な意見が溢れていることは知っていますが、今ここで考えたいのは、そういうことではありません。

どんな民族にも、善人もいれば悪人もいるでしょうから、私は、「ユダヤ民族」についても、それ以外の民族についても、その民族としての善悪を議論することはあまり意味のないことだと思っています。(もっと言えば、善も悪も、私たちの“観念”のプログラムがつくりだしているものです)

だから、私は、どの民族が良いとか悪いとかの議論をするつもりがないことは、ここで強調しておきます。


そんなことよりも、今考えたいのは、「なぜ、ユダヤ民族は滅びることなく、生き残ることができたのか?」です。

ここまで読めば、もう、おわかりだとおもいます。

ユダヤ民族は、「民族の記憶(その民族が共有する“観念”の集合体)」を失うことなく保ち続けてきた――。
それが、世界中に散り散りになっても、ユダヤ民族が滅びなかった、一番の理由だと思います。

では、いったいどのようにして、ユダヤ民族は「民族の記憶」を保ち続けていたのでしょうか?

「タルムード」 ― ユダヤ民族の記憶を伝え続ける聖典

その答えを探っていくために、外すことができないものが「タルムード」です。

「タルムード」というのはユダヤ教の聖典[※6]なのですが、私は「タルムード」そのものには特に興味がなく、解説できるだけの知識も持っていません。

ですから、ここは「ラビ(ユダヤ教の指導者)」に解説してもらいましょう。


タルムードがいかに重要な地位を占めているかを理解せずに、ユダヤ文化を理解することはできない。原則としてあらゆるユダヤ人はタルムードのすべてに通じ、タルムードに盛られた教えと、タルムードの理屈づけのような仕組みをマスターしなければならない。毎日ユダヤ人は一定の時間をタルムードの勉強にさかなけらばならないことになっている。これは単に学問としてではなく、宗教的な義務でもある。

ラビ・マービン・トケイヤー著、加瀬英明訳 「ユダヤ5000年の知恵<新装版>」実業之日本社(2005年)P.17~18より

なるほど。「タルムード」は、すべてのユダヤ人が学ばなければならないもので、ユダヤ人の文化にも決定的な影響を与えているものなのですね。


これは最近の話である。ある有名な大学のプロフェッサーから、私のところに電話がかかってきた。内容は、タルムードを研究したいので、一晩でいいから貸してくれないかということだった。私はさっそくOKした。そして丁重にご返事申し上げた。

「結構です。いつでもお貸ししますが、その代わりおいでになるときは、トラックに乗ってきてください」。

タルムードは全部で二〇巻、一万二〇〇〇ページにおよび、語数にして二五〇万語以上、重量七五キロという膨大なものだからである。

タルムードが何であるか、どのようにしてつくられ、どんな本であるかを説明しようと思うと、これはきわめて困難である。あまりにも単純化すると、タルムードが何であるかということをゆがめることになり、あまりこまかく説明すると終わりがなくなってしまう。

タルムードは、本ではない。これは文学である。この一万二〇〇〇ページは紀元前五〇〇年から紀元後五〇〇年までの口伝を、一〇年間もかかって、二〇〇〇人の学者が編纂したものである。同時にこれは、現代のわれわれをも支配しているので、いわばこれはユダヤ人五〇〇〇年の知恵であり、あらゆる情報の貯水池であるといえる。しかしこれは政治家、役人、科学者、哲学者、富豪、著名人がつくったものではない。学者によって、文化、道徳、宗教。伝統が伝えられたものなのである。

これは法典ではないが、法が語られている。歴史書ではないが、歴史が語られている。人物事典ではないが、多くの人物が語られている。百科事典ではないが、百科事典と同じ役目も果たしている。人生の意義とは何か。人間の尊厳とは何か。幸福とは何か。愛とは何か。五〇〇〇年にわたるユダヤ人の知的財産、精神的滋養が、ここにはある。

ラビ・マービン・トケイヤー著、加瀬英明訳 「ユダヤ5000年の知恵<新装版>」実業之日本社(2005年)P.221~225より

聖典というと、ついつい、キリスト教の聖書のような国語辞典サイズのものを想像してしまいますが、なんとタルムードは、全部で20巻、重量は75kgで、運ぶのにはトラックが必要だということです。

ユダヤ人は、このタルムードを熱心に勉強するということですが、その熱心さは、いったいどのくらいになるのでしょうか?


朝仕事に出かける前に、五時に起きてタルムードを勉強するユダヤ人を、私はたくさん知っている。昼食のとき、夕食のあと、またはバス、地下鉄に乗っているときも、ユダヤ人は勉強する。また安息日には、数時間タルムードを研究する。全部で二〇巻あるが、一巻を仕上げたということは、ユダヤ人にとってはたいへんなお祝いごとであり、親戚や親しい友人を全部呼んで盛大なお祝いをする。

ラビ・マービン・トケイヤー著、加瀬英明訳 「ユダヤ5000年の知恵<新装版>」実業之日本社(2005年)P.14より

これを読むと、ユダヤ人のタルムードに対する熱心さが伝わって来ます。

さらに、こんなしきたりもあるようです。


それから朝御飯になる。再び手を洗い、また食前の短い祈りをする。そして食べる。もし友人や家族とともに食事をするときは、必ずタルムードについての話題を選ばなければならない。

ラビ・マービン・トケイヤー著、加瀬英明訳 「ユダヤ5000年の知恵<新装版>」実業之日本社(2005年)P.23より

食事中に、難しい議論をするなんて、私たちにはあまり馴染みがありませんが、ユダヤ人にとっては一般的なことのようです。

例えば、日本人からユダヤ人になった石角完爾(いしずみかんじ)さんという方のWEBサイトを見てみると、こんなことが書かれていました。


例えば、ユダヤ人同士で食事の時に、よくこういう議論をします。

「テロリストがお前の頭にピストルを突きつけて、『そこにある銃でお前の母親を撃て』と要求された場合に、ユダヤ人としてどうするべきか?」という仮定的命題につき食事の間中喧々諤々の議論をします。

読者の質問がありましたのでお答えします。」石角完爾氏のWEBサイト (2017年1月2日に引用)

ちょっと、日本人の感覚からすると信じられませんが、ユダヤ人にとっては、これが普通なのでしょう。


ここまで書けば、もう、私が何を言いたいのか、おわかりですよね?

それは、このタルムードこそが、ユダヤ人の「民族の記憶」を伝え続ける役割を果たしのではないか?ということです。

タルムードを、生活の中で重要な位置に置き続けることで、世界中に散り散りになっても、ユダヤ民族たちは「民族の記憶」を失わずに済んだと考えられるのです。

それは、そうでしょう。

自然に考えて、タルムードという「民族の記憶」を伝える膨大な文章に毎日のように触れ、議論し、それを拠り所にして生きていく生活スタイルをしていれば、嫌でも「民族の記憶」が染み付いてしまうでしょう。

実際、ラビ・マービン・トケイヤーさんも、次のように言っています。


したがって、タルムードはユダヤ人のソウル(魂)といえる。長い離散の歴史をおくってきたユダヤ民族にとっては、タルムードだけが民族を結びつけていた。今日ではあらゆるユダヤ人が一人一人タルムードの研究者であるとはいえない。しかし精神的な滋養はタルムードからとっており、そこに生活の規範を求めていることは事実である。それはユダヤ人の一部になっており、ユダヤ人がタルムードを守ってきたよりも、はるかにタルムードがユダヤ民族をまもってきたといえる。

ラビ・マービン・トケイヤー著、加瀬英明訳 「ユダヤ5000年の知恵<新装版>」実業之日本社(2005年)P.224~225より

私たちの社会を動かす“見えざる手”

ところで、上の文章の中で、日本人からユダヤ人になった、石角完爾さんという方を紹介しました。

有名な話ではありますが、「ユダヤ人」というのは、遺伝的な血筋で決められた民族ではありません。

遺伝的には日本人であっても、ユダヤ人になることができるのです。

とは言っても、簡単にユダヤ人になれるわけではありません。

ユダヤ人になるためには、ユダヤ教、モーゼ五書、ユダヤの歴史、宗教儀式などを学ばなければならないそうです。

このことが、「民族の記憶(ユダヤ民族が共有する“観念”の集合体)」を伝達する役割を果たしているのでしょう。

そして、その試験は、非常に難しいものだということです。

その難しさは、日本国内で最高ランクの難しさを誇る司法試験よりも難しいそうです。

これは、「民族の記憶」を共有できたことを厳しくチェックして、確認できなければ、同胞として認めないということでしょう。

詳しいことは、石角さんのサイトを読んでみてください。

【 参考記事 】

しかし、難しいと言っても、日本人がユダヤ人になることは不可能ではないのです。

これが、重要なポイントです。

思い出してください。

この記事の中で、たとえ、ある民族の血を引き、遺伝的にはその民族の体に生まれたとしても、「民族の記憶」を受け継いでいなければ、その民族として生きることは難しいと書きました。

そして、それとは逆に、たとえ遺伝的には日本人に生まれても、「民族の記憶」を受け継ぐことができれば、別の民族になることも不可能ではないことがわかりました。

そして、「民族の記憶」とは、「その民族が共有する“観念”の集合体」でした。

ということは、です。


“観念”のプログラムは、民族すらつくりだす力を持っている。

と言っても、言い過ぎではないのではないでしょうか?



そして、さらに思い出してください。

この記事の前半で、“観念のプログラム”は、私たちが日々の生活で大きな影響を受ける「経済体制」を動かす力を持っていることを説明しました。

“観念のプログラム”は、経済体制や民族などの、私たちの社会の基盤をも動かす力を持っているのですね。

“観念”という名の“見えざる手”は、私たちの社会の仕組みや体制を動かす程の力を持っているのです。



見えざる手に操られる操り人形


では、“観念のプログラム”がそんなに強力な力を持っているのだとしたら、私たちは、まるで操り人形のように、“観念”の力に翻弄されるしかないのでしょうか……?

もちろん、そんなことはありません。

どんなに強力な力を持っているといっても、「プログラム」は便利な道具でしかありません。

ということは、その便利な道具を使う「プログラマー」が存在するはずです。

詳しく書き始めると長くなってしまうので、詳しくは、次の記事を読んでみてください。

【 参考記事 】

今回の記事では、“観念”という名の“見えざる手”の絶大な力を味わっていただければと思います。
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