秩序4.0 ― 共鳴
今回の記事は、4つの秩序シリーズの記事の1つとして書かれています。
4つの秩序シリーズの全体像については、下の参考記事へのリンクを読んでみてください。
今回は、いよいよ、最後の秩序レベルである【 秩序4.0 】について説明することになります。
最初に、少しだけ注意点です。
冒頭からこんなことを書くのもアレなのですが、今回の記事では、おそらく【 秩序4.0 】の断片をなんとなく説明することしかできていません。
今後、【 秩序4.0 】について、言うことが変わることも多々あると思います。
もちろん、これまでに説明してきた【 秩序1.0 】~【 秩序3.0 】の記事や、その他のすべての記事でもその傾向はあったのですが、今回の【 秩序4.0 】の記事はでは、さらにその傾向が強まると思います。
なぜなら、【 秩序4.0 】は、私もあまり経験したことがありませんし、このレベルの秩序をメインに生活している人は世の中にもほとんど存在していないからです。(少なくとも、私は、そんな人は知らない)
だから、必然的にこの記事は、たまーに見かける【 秩序4.0 】の面影をなんとかつかみ取り、そこから類推して書くという方法にならざるを得ません。
【 秩序4.0 】の全体像は、この記事で説明できる表面的な内容など遥かに超えた深さを持つ秩序だと思っています。
まずは、簡単におさらいです。
【 秩序1.0 】のレベルは、強者が弱者をコントロールする“弱肉強食”の秩序でした。
一方で、【 秩序2.0 】には、圧倒的な強者も、圧倒的な弱者も存在しません。
実力が拮抗した複数のプレーヤー同士の力が衝突して、バランスのとれた“綱引きの均衡”状態です。
このように、【 秩序1.0 】と【 秩序2.0 】をつくり出している基礎となっている力は、「他者をコントロールしようとする力」でした。
一方で、秩序レベルが【 秩序3.0 】になってくると、その秩序をつくりだすのは「自分の内側からの力」に変わってきます。
もう少しわかりやすい言葉で説明すれば、一人ひとりの「善意」や「思いやり」が集まることで出来上がる秩序です。
それぞれの「思いやり」が、無秩序に空回りするのではなく、その集団全体として、綺麗な結晶構造のように上手く機能している状態(“思いやりの結晶”)です。
この説明を読んで貰えればわかるように、【 秩序3.0 】の時点で、私たちのほとんどにとっては、かなり高度で繊細な秩序です。
今回の記事で説明する【 秩序4.0 】は、この【 秩序3.0 】をさらに上回る微妙なバランスの上に成り立つ、非常に繊細な秩序となります。
最初から、結論を書いてしまいましょう。
【 秩序4.0 】は、「秩序を成り立たせようとする直接的な意図や仕組みがなくても、自然発生的に成立する良好な関係性」です。
これだけだとわかりにくいので、ちょっと例をあげてみましょう。
例えば、友人と話している場面を思い浮かべてみてください。
その会話の中で、あなたは、何気ない一言を発します。
あなたにとっては、本当に何気なく発した、些細な一言です。
しかし、その一言が、あなたの友人が密かに悩んでいた悩みの答えになっていたとします。
友人は悩みを隠していたわけですから、あなたは、友人を励ましてあげようというような「思いやり」から、その一言を発したわけではありません。
それでも、その一言は、あなたの友人を助け、あなたと友人の関係をさらに良好なものにしてくれました。
このように、「助けてあげよう」、「励ましてあげよう」というような、意図的な「思いやり」すらなくても良好な関係を結べている状態が【 秩序4.0 】です。
ここが、【 秩序3.0 】との大きな違いです。
もし、この場面が【 秩序3.0 】的な場だったとしたら、あなたには、友人の悩みを察知し、「思いやり」の心を発動させ、さらにその「思いやり」を有効に機能させなければなりません。
【 秩序4.0 】の関係性を成り立たせることが出来れば、そんな複雑なプロセスは不要になります。
あなたは、難しいことなど考えずに、ごくごく自然に振舞っていれば、その自然な振る舞いが、いつの間にか誰かを助けてしまいます。
しかも、そのプロセスは、あなた自身すらも気づかなかったとしても、いつの間にか起こっています。
上の例で言えば、友人があなたに、悩みが解決したことを告げなければ、あなたは友人が悩みを抱えていたことすら知ることなく、友人を助けていたことになります。
このように、意図的な「思いやり」、「やさしさ」、「助けになりたいという気持ち」、「秩序を守ろうという努力」などがなかったとしても、ごくごく自然に振舞っていただけで、いつの間にか良好な関係性が成り立ってしまっているような状態が【 秩序4.0 】なのです。
一人ひとりが自然に振る舞っていても、なぜか、全体がパズルのように上手く機能してしまう状態です。
それは、まるで無意識のうちに集団全体が”共鳴”しているような状態で、”【 秩序4.0 】 ― 共鳴”形容するにふさわしいでしょう。
そもそも、私は【 秩序4.0 】が継続的に安定して成り立っている集団というのを見たことがありませんし、世の中にも安定した【 秩序4.0 】を経験したことがあるという人は、ほとんど居ないでしょう。
ですから、【 秩序4.0 】の成立条件も、かなり雑な推論で予想するしかありませんが、まず考えられるのは、非常に高度な「一人ひとりの能力」が求められるということでしょう。
前回の記事では、【 秩序3.0 】は、少数のリーダーが「外からの力」を使って、その他大勢をコントロールするようなやり方では実現することは出来ず、一人ひとりの意志が試されるレベルの秩序なのだと説明しました。
しかし、「信号機」や「交通ルール」のような、一人ひとりの「思いやりの意図」を空回りさせないための仕組みを利用することは出来ました。
一方で、【 秩序4.0 】は、「赤信号だから止まろう」などということを考えなくても、ただ気の赴くままに進めば、安全でスムーズに交差点を通過できてしまうレベルですから、このような仕組みを利用することもできません。
100%完全に、一人ひとりの個人の能力が試される秩序なのです。
このように【 秩序4.0 】は非常に高度な秩序ですので、少なくとも今の私たちにとっては、大規模な集団で継続して安定的に【 秩序4.0 】を維持することは、ほとんど不可能と言っていいくらいの難しさになるでしょう。
このように書くと、【 秩序4.0 】などというレベルのことは考える価値もない絵空事のように聞こえるかもしれませんが、必ずしも、そうとは言えないと思っています。
小さな規模で瞬間的に発生する【 秩序4.0 】であれば、私たちの多くが経験したことがあると思います。
例えば、この記事の最初に書いたような、「ふと、何気なく発した一言が、誰かの悩みの答えになっていた」というような経験をしたことがある人は少なくないでしょう。
あるいは、長年連れ添った夫婦や、厳しい練習や苦楽を共にしてきた部活の仲間、ぴったりと息の合った親友のような関係性の中では、いわゆる「あうんの呼吸」「以心伝心」で、物事が上手く運んでしまうということは、決して珍しいことではありません。
「あうんの呼吸」というのは、難しくあれこれ考えたり、事前に打ち合わせをしたりしなくても、自然な振る舞いをしているだけで、ぴったりと息が合っているような状態ですから、まさに【 秩序4.0 】的ですね。
また、何気なく気の赴くままに雑談をしていたけれども、それが終わった後に話したことを振り返ってみると、まるでその裏側に見えないシナリオライターが居て、会話の流れをコントロールしていたのではないかと思ってしまうほどの奇麗なストーリーが出来上がっていたなんて経験もあるかもしれません。
ですから、【 秩序4.0 】の維持方法などと言うものは、ほとんど予想もつかないというのが正直なところなのですが、ここではいくつかの仮説と、その仮説が正しかった場合の秩序維持の方向性について考えてみましょう。
先ほども書いたように、【 秩序4.0 】を成立させるためには、「個の能力」が決定的に重要になると思われます。
それを前提に置くとすると、当然、【 秩序4.0 】状態を維持するためには、「個の能力」を【 秩序4.0 】が成立するレベルにキープする必要があるということになります。
この項目では、その「個の能力」というものが何なのか?という仮説を2つほど考えてみたいと思います。
【 秩序4.0 】を成立させるためには、いったいどんな「個の能力」が必要になるでしょうか?
まずは、交差点の例について考えてみましょう。
【 秩序3.0 】のレベルでは、お互いに対する「思いやり」の存在は前提として、さらに人間の能力不足を補うために、「信号機」のような「思いやり」が空回りしないようにする”補助の仕組み”が必要でした。
このような”補助の仕組み”がなくても成立するのが【 秩序4.0 】ですから、【 秩序4.0 】を成立させるためには、「信号機」にあたる能力を自分の中に取り込まなければなりません。
例えば、無意識のうちに、音や気配などから交差点に進入しようとしている車を察知して、安全であれば「渡ろう」という気持ちを意識に昇らせ、危険であれば「あの花奇麗だな~」と道端に咲いている花に気を取らせて一呼吸置かせるような能力が人間に備わっていたとしたら【 秩序4.0 】は成り立ちそうな気がします。
まあ、ちょっとあり得ないような話ではありますが、仮にそういう能力を身に着けることが出来ればという話[※1]です。
これを、もう少し抽象的に表現にすれば、「信号機」あるいは「羅針盤」のような機能を、自分の内側に内在化させると表現することが出来るでしょう。
無意識のうちに、ストーリー(交差点に進入しようとしている車や歩行者の存在)を察知し、本人も気づかないうちに自然と、そのストーリーに沿った演技が出来るような能力を身に着けるということです。
冒頭の友人との会話の例で言えば、無意識のうちに友人の人生のストーリーを感じ取り、そのストーリの中で最適なセリフを、最適なタイミングで、発した本人すらもその意味が理解できていない状態で発言させたということでしょう。
もし仮に、人間が、このような能力を身に着けることができれば、【 秩序4.0 】が成立したとしても不思議はないでしょう。
そんな場合には、【 秩序4.0 】を維持する方法は、
次に、別の例を思い出してみてください。
上の方で、【 秩序4.0 】が成立しやすい例として、長年連れ添った夫婦や、厳しい練習や苦楽を共にしてきた部活の仲間、ぴったりと息の合った親友のような関係で見られるような「あうんの呼吸」をあげました。
なぜ、このような「あうんの呼吸」は、夫婦や部活仲間、親友のような深い関係の中で生まれやすいのでしょうか?
1つには、気心の知れた親しい関係だからこそ、相手の心を無意識に感じ取って”流れ”を読み取ることが、比較的簡単になるという要因もあるかもしれません。
しかしこれは、上で考えた内容と重複するので、ここでは考えません。
もう1つ考えられるのは、”プログラム”の共有です。
長くなりすぎるので詳しくは書きませんが、私は、私たちの中に潜む”プログラム”が、無意識のうちに私たちの行動に大きな影響を与えていると思っています。
ある出来事が起こった時に、自分が何をすればいいのかが体に刻み込まれており、無意識のうちに体が動いてしまうということがあるのです。
例えば、テニスのダブルスで長年ペアを組んでいたら、「こういうボールが来たら、こう動く」というパターンが体に染みついていて、難しいことを考えなくても、自然に体を動かしていたら、奇麗な連携プレーが出来ていたというような場合です[※3]。
そのような「あうんの呼吸」による連携プレーが、次のような関係で、起こりやすくなるというのは頷けます。
交差点の例では、秩序を守るためには、お互いに対する「思いやり」や「善意」と、その思いやりを有効に機能させる「ルール」や「仕組み」(信号機や交通ルール)が必要だという結論になりました。
ウソとまでいうと言い過ぎかもしれませんが、ある重要な前提をしっかりと説明していませんでした。
その前提というのは、「その集団が【 秩序4.0 】をつくりだす能力を持っていない」という前提です。
「そんなことが実際に起こりえる?」という疑問は置いておいて、ちょっと、想像してみてください。
もし、易々と【 秩序4.0 】をつくりだすことが出来る集団がいたとしたらどうでしょう?
彼ら、彼女らが集う「交差点」は、いったいどんな様子になるでしょうか?
そこでは、皆が、自分の渡りたいタイミングで交差点に向かうと、自然と、スムーズで安全に交差点を渡れてしまいます。
もし、このまま進むと危険なような場合には、例えば、交差点にたどり着く前に、偶然にも知り合いとすれ違うような出来事が起こり、ほんの少しの間、楽しく立ち話をしたことで危険なタイミングを避けてしまいます。
もちろん、私たちにとっては、このような状態は、あまりにも楽観的過ぎる「おとぎ話」の世界のように聞こえてしまいます。
少なくとも今の私たちには、交差点で【 秩序4.0 】を成り立たせる能力は備わっていないのですから、それは当然です。
しかし今は、空想でもいいので、そんな世界が成り立った場面をイメージしてみてください。
そんな世界に住む人々が従っているルールは、いったい何でしょうか?
もちろん、「赤は止まれ」のような交通ルールは存在しません。
彼ら、彼女らは、ただただ、自分の感覚に従って行動を決めています。
そう。
このレベルまで来ると、ルールすらも「自分の外側」には必要なくなり、「自分の内側の感覚」に従うことがルールとなるのです。
もちろん、その感覚は研ぎ澄まされたものである必要はあります。
もし、鈍った感覚に従えば、事故が起こることは明らかです。
少なくとも、今の私たちにとっては、今すぐに【 秩序4.0 】が100%の世界を目指すのは非現実的でしょう。
しかし、もし、私たち【 秩序4.0 】をつくりだすことが出来たとしたら、その時に私たちが従っているルールは自分自身の中に存在していることでしょう。
【 秩序4.0 】レベルの交差点では、人々は非常に自由に、それこそ自分の思うがままに振舞っていました。
【 秩序3.0 】の自由度も、かなり高い水準には達していました。
例えば、「ルールに従う」という行動ひとつとっても、「自らの意志で従うことを選ぶ」というレベルですから、「いやいや従うレベル」の【 秩序1.0 】や【 秩序2.0 】に比べれば、不自由感はかなり低い水準になるでしょう。
しかし、【 秩序4.0 】の自由度は、その遥か上をいきます。
自分の振る舞いが、自然と集団全体の秩序と調和しているのが【 秩序4.0 】ですから、このレベルの秩序では、もはや自由な振る舞いをためらう必要はまったくありません。
どんなに自由に振る舞っても、周囲に迷惑をかけることもなく、それどころか周囲の助けにすらなってしまうのが、このレベルの秩序だからです。
もし、万が一、【 秩序4.0 】レベルの秩序を実現することが出来たとしたら、そこに不自由が存在する必要はありませんから、もはや「自由」「不自由」という概念すら存在しない世界になってしまうかもしれません。
なぜならば、【 秩序4.0 】の世界では、もし何かしらの変化が必要であれば、人々が自由に思い思いの行動をしていれば、その相互作用として、いつのまにか自然と、必要なタイミングで必要な変化が起きてしまうからです。
そこには、「変化を起こしてやろう!」という努力も、「〇〇までに変化を起こさなきゃ!」というスケジュール管理も必要なくなります。
一人ひとりが、ただただ人生を楽しんでいれば、自然と、全体にとっても必要なことが起こっている世界です。
逆に、もし人々の自然な振る舞いの結果として必要な変化が起こらなければ、それは【 秩序4.0 】は成立していなかったということです。
もちろん、これは、「もし仮に【 秩序4.0 】を実現することが出来たとしたら?」という話だということは、もう一度、念押ししておきます。
そのレベル(【 秩序4.0 】)に達していない集団が、必要な変化のための努力を怠れば、そんな場合には、「停滞」が訪れるでしょう……。
ですから、その雰囲気は、「理性」や「知性」、「合理性」よりも、「直感」や「閃き」、「感覚」などを重視した雰囲気になるでしょう。
そして、【 秩序4.0 】が成立している瞬間というのは、自分自身の「直感」や「閃き」、「感覚」を信頼し、それに自分自身をゆだねている状態となるでしょう。
ですから、自分自身に対する強い信頼も、このレベルの雰囲気をあらわすキーワードになるでしょう。
例えば、どう見ても失敗に見える実験結果が出たとしても、その結果の中に「光るもの」を感じ取り、それを信頼し切れるだけの強い自信です[※4]。
あるいは、交差点の例で言うなら、道の段差につまづいてしまったおかげで、車に轢かれずに済んだといような場合かもしれません。
もし、こんな事が日常的に起こる世界に住んでいたら、人生に起こる「嫌なこと」も必要があって起こっているように確信できるようになるでしょう。
すると、「良いこと」「悪いこと」というような対立概念は和らぎ、起こった出来事はすべて自分にとって必要なかたちで利用できるようになるかもしれません。
また、このレベルの秩序では、複雑なルールや仕組みは不要ですから、傍から見ると非常にシンプルに成立している秩序に見えるでしょう。
ただし、それは「簡単」「程度が低い」という意味ではなく、実現のためには非常に高度なものが要求されます。
ちょうど、「達人」の踊りを見て、「なんだ、簡単そうじゃん!」と、いざ素人がやってみると、とても真似など出来ないハイレベルな動きだったというようなことに似ているかもしれません。
徹底的に無駄の削ぎ落とされた、流れるような達人の動きは、一見、簡単そうに見えて、そう簡単に真似できるものではないのです。
その意味では、【 秩序4.0 】は、もっとも無駄や非効率が取り除かれた、効率的な秩序なのかもしれません。
【 秩序4.0 】の成立条件
秩序維持の方向性(【 秩序4.0 】)
個人の能力を【 秩序4.0 】をつくり出すのにふさわしい状態に維持する。
維持すべき能力としては、例えば、次のような可能性がある。
【 秩序4.0 】のルールのあり方
【 秩序4.0 】の自由度
【 秩序4.0 】の柔軟性・変化のスピード
【 秩序4.0 】の雰囲気
<初めての方へ : 和楽の道について >4つの秩序シリーズの全体像については、下の参考記事へのリンクを読んでみてください。
今回は、いよいよ、最後の秩序レベルである【 秩序4.0 】について説明することになります。
【 参考記事 】
- 秩序1.0 ― 弱肉強食
- 秩序2.0 ― 綱引きの均衡
- 秩序3.0 ― 思いやりの結晶
- 秩序4.0 ― 共鳴(今回の記事)
- 秩序の進化 ― 誰も犠牲にならない世界(4つの秩序レベルのまとめ記事)
最初に、少しだけ注意点です。
冒頭からこんなことを書くのもアレなのですが、今回の記事では、おそらく【 秩序4.0 】の断片をなんとなく説明することしかできていません。
今後、【 秩序4.0 】について、言うことが変わることも多々あると思います。
もちろん、これまでに説明してきた【 秩序1.0 】~【 秩序3.0 】の記事や、その他のすべての記事でもその傾向はあったのですが、今回の【 秩序4.0 】の記事はでは、さらにその傾向が強まると思います。
なぜなら、【 秩序4.0 】は、私もあまり経験したことがありませんし、このレベルの秩序をメインに生活している人は世の中にもほとんど存在していないからです。(少なくとも、私は、そんな人は知らない)
だから、必然的にこの記事は、たまーに見かける【 秩序4.0 】の面影をなんとかつかみ取り、そこから類推して書くという方法にならざるを得ません。
【 秩序4.0 】の全体像は、この記事で説明できる表面的な内容など遥かに超えた深さを持つ秩序だと思っています。
秩序4.0 ― 共鳴
4つの秩序レベルについて、これまで、【 秩序1.0 】、【 秩序2.0 】、【 秩序3.0 】と説明してきましたが、今回は、いよいよ最後のレベル【 秩序4.0 】についてです。まずは、簡単におさらいです。
【 秩序1.0 】のレベルは、強者が弱者をコントロールする“弱肉強食”の秩序でした。
一方で、【 秩序2.0 】には、圧倒的な強者も、圧倒的な弱者も存在しません。
実力が拮抗した複数のプレーヤー同士の力が衝突して、バランスのとれた“綱引きの均衡”状態です。
このように、【 秩序1.0 】と【 秩序2.0 】をつくり出している基礎となっている力は、「他者をコントロールしようとする力」でした。
一方で、秩序レベルが【 秩序3.0 】になってくると、その秩序をつくりだすのは「自分の内側からの力」に変わってきます。
もう少しわかりやすい言葉で説明すれば、一人ひとりの「善意」や「思いやり」が集まることで出来上がる秩序です。
それぞれの「思いやり」が、無秩序に空回りするのではなく、その集団全体として、綺麗な結晶構造のように上手く機能している状態(“思いやりの結晶”)です。
この説明を読んで貰えればわかるように、【 秩序3.0 】の時点で、私たちのほとんどにとっては、かなり高度で繊細な秩序です。
今回の記事で説明する【 秩序4.0 】は、この【 秩序3.0 】をさらに上回る微妙なバランスの上に成り立つ、非常に繊細な秩序となります。
最初から、結論を書いてしまいましょう。
【 秩序4.0 】は、「秩序を成り立たせようとする直接的な意図や仕組みがなくても、自然発生的に成立する良好な関係性」です。
これだけだとわかりにくいので、ちょっと例をあげてみましょう。
例えば、友人と話している場面を思い浮かべてみてください。
その会話の中で、あなたは、何気ない一言を発します。
あなたにとっては、本当に何気なく発した、些細な一言です。
しかし、その一言が、あなたの友人が密かに悩んでいた悩みの答えになっていたとします。
友人は悩みを隠していたわけですから、あなたは、友人を励ましてあげようというような「思いやり」から、その一言を発したわけではありません。
それでも、その一言は、あなたの友人を助け、あなたと友人の関係をさらに良好なものにしてくれました。
このように、「助けてあげよう」、「励ましてあげよう」というような、意図的な「思いやり」すらなくても良好な関係を結べている状態が【 秩序4.0 】です。
ここが、【 秩序3.0 】との大きな違いです。
もし、この場面が【 秩序3.0 】的な場だったとしたら、あなたには、友人の悩みを察知し、「思いやり」の心を発動させ、さらにその「思いやり」を有効に機能させなければなりません。
【 秩序4.0 】の関係性を成り立たせることが出来れば、そんな複雑なプロセスは不要になります。
あなたは、難しいことなど考えずに、ごくごく自然に振舞っていれば、その自然な振る舞いが、いつの間にか誰かを助けてしまいます。
しかも、そのプロセスは、あなた自身すらも気づかなかったとしても、いつの間にか起こっています。
上の例で言えば、友人があなたに、悩みが解決したことを告げなければ、あなたは友人が悩みを抱えていたことすら知ることなく、友人を助けていたことになります。
このように、意図的な「思いやり」、「やさしさ」、「助けになりたいという気持ち」、「秩序を守ろうという努力」などがなかったとしても、ごくごく自然に振舞っていただけで、いつの間にか良好な関係性が成り立ってしまっているような状態が【 秩序4.0 】なのです。
一人ひとりが自然に振る舞っていても、なぜか、全体がパズルのように上手く機能してしまう状態です。
それは、まるで無意識のうちに集団全体が”共鳴”しているような状態で、”【 秩序4.0 】 ― 共鳴”形容するにふさわしいでしょう。
【 秩序4.0 】の成立条件
では次に、【 秩序4.0 】は、どんな場合に成立するのか考えてみましょう。そもそも、私は【 秩序4.0 】が継続的に安定して成り立っている集団というのを見たことがありませんし、世の中にも安定した【 秩序4.0 】を経験したことがあるという人は、ほとんど居ないでしょう。
ですから、【 秩序4.0 】の成立条件も、かなり雑な推論で予想するしかありませんが、まず考えられるのは、非常に高度な「一人ひとりの能力」が求められるということでしょう。
前回の記事では、【 秩序3.0 】は、少数のリーダーが「外からの力」を使って、その他大勢をコントロールするようなやり方では実現することは出来ず、一人ひとりの意志が試されるレベルの秩序なのだと説明しました。
しかし、「信号機」や「交通ルール」のような、一人ひとりの「思いやりの意図」を空回りさせないための仕組みを利用することは出来ました。
一方で、【 秩序4.0 】は、「赤信号だから止まろう」などということを考えなくても、ただ気の赴くままに進めば、安全でスムーズに交差点を通過できてしまうレベルですから、このような仕組みを利用することもできません。
100%完全に、一人ひとりの個人の能力が試される秩序なのです。
このように【 秩序4.0 】は非常に高度な秩序ですので、少なくとも今の私たちにとっては、大規模な集団で継続して安定的に【 秩序4.0 】を維持することは、ほとんど不可能と言っていいくらいの難しさになるでしょう。
このように書くと、【 秩序4.0 】などというレベルのことは考える価値もない絵空事のように聞こえるかもしれませんが、必ずしも、そうとは言えないと思っています。
小さな規模で瞬間的に発生する【 秩序4.0 】であれば、私たちの多くが経験したことがあると思います。
例えば、この記事の最初に書いたような、「ふと、何気なく発した一言が、誰かの悩みの答えになっていた」というような経験をしたことがある人は少なくないでしょう。
あるいは、長年連れ添った夫婦や、厳しい練習や苦楽を共にしてきた部活の仲間、ぴったりと息の合った親友のような関係性の中では、いわゆる「あうんの呼吸」「以心伝心」で、物事が上手く運んでしまうということは、決して珍しいことではありません。
「あうんの呼吸」というのは、難しくあれこれ考えたり、事前に打ち合わせをしたりしなくても、自然な振る舞いをしているだけで、ぴったりと息が合っているような状態ですから、まさに【 秩序4.0 】的ですね。
また、何気なく気の赴くままに雑談をしていたけれども、それが終わった後に話したことを振り返ってみると、まるでその裏側に見えないシナリオライターが居て、会話の流れをコントロールしていたのではないかと思ってしまうほどの奇麗なストーリーが出来上がっていたなんて経験もあるかもしれません。
秩序維持の方向性(【 秩序4.0 】)
成立条件の項目でも書いたように、私たちには、安定した【 秩序4.0 】の経験はほとんどありません。ですから、【 秩序4.0 】の維持方法などと言うものは、ほとんど予想もつかないというのが正直なところなのですが、ここではいくつかの仮説と、その仮説が正しかった場合の秩序維持の方向性について考えてみましょう。
先ほども書いたように、【 秩序4.0 】を成立させるためには、「個の能力」が決定的に重要になると思われます。
それを前提に置くとすると、当然、【 秩序4.0 】状態を維持するためには、「個の能力」を【 秩序4.0 】が成立するレベルにキープする必要があるということになります。
この項目では、その「個の能力」というものが何なのか?という仮説を2つほど考えてみたいと思います。
【 秩序4.0 】を成立させるためには、いったいどんな「個の能力」が必要になるでしょうか?
まずは、交差点の例について考えてみましょう。
【 秩序3.0 】のレベルでは、お互いに対する「思いやり」の存在は前提として、さらに人間の能力不足を補うために、「信号機」のような「思いやり」が空回りしないようにする”補助の仕組み”が必要でした。
このような”補助の仕組み”がなくても成立するのが【 秩序4.0 】ですから、【 秩序4.0 】を成立させるためには、「信号機」にあたる能力を自分の中に取り込まなければなりません。
例えば、無意識のうちに、音や気配などから交差点に進入しようとしている車を察知して、安全であれば「渡ろう」という気持ちを意識に昇らせ、危険であれば「あの花奇麗だな~」と道端に咲いている花に気を取らせて一呼吸置かせるような能力が人間に備わっていたとしたら【 秩序4.0 】は成り立ちそうな気がします。
まあ、ちょっとあり得ないような話ではありますが、仮にそういう能力を身に着けることが出来ればという話[※1]です。
これを、もう少し抽象的に表現にすれば、「信号機」あるいは「羅針盤」のような機能を、自分の内側に内在化させると表現することが出来るでしょう。
無意識のうちに、ストーリー(交差点に進入しようとしている車や歩行者の存在)を察知し、本人も気づかないうちに自然と、そのストーリーに沿った演技が出来るような能力を身に着けるということです。
冒頭の友人との会話の例で言えば、無意識のうちに友人の人生のストーリーを感じ取り、そのストーリの中で最適なセリフを、最適なタイミングで、発した本人すらもその意味が理解できていない状態で発言させたということでしょう。
もし仮に、人間が、このような能力を身に着けることができれば、【 秩序4.0 】が成立したとしても不思議はないでしょう。
そんな場合には、【 秩序4.0 】を維持する方法は、
無意識のうちに、その場をつかさどる全体の大きな”流れ”[※2]を察知し、その”流れ”に調和した振る舞いを私たちに促してくれる”羅針盤”となる能力を身につけ維持する
ということになるでしょう。次に、別の例を思い出してみてください。
上の方で、【 秩序4.0 】が成立しやすい例として、長年連れ添った夫婦や、厳しい練習や苦楽を共にしてきた部活の仲間、ぴったりと息の合った親友のような関係で見られるような「あうんの呼吸」をあげました。
なぜ、このような「あうんの呼吸」は、夫婦や部活仲間、親友のような深い関係の中で生まれやすいのでしょうか?
1つには、気心の知れた親しい関係だからこそ、相手の心を無意識に感じ取って”流れ”を読み取ることが、比較的簡単になるという要因もあるかもしれません。
しかしこれは、上で考えた内容と重複するので、ここでは考えません。
もう1つ考えられるのは、”プログラム”の共有です。
長くなりすぎるので詳しくは書きませんが、私は、私たちの中に潜む”プログラム”が、無意識のうちに私たちの行動に大きな影響を与えていると思っています。
【 参考記事 】
そうだとすると、同じような”プログラム”を持った人は、自然と、似たような価値観や、考え方、振る舞いなどをするようになるはずです。ある出来事が起こった時に、自分が何をすればいいのかが体に刻み込まれており、無意識のうちに体が動いてしまうということがあるのです。
例えば、テニスのダブルスで長年ペアを組んでいたら、「こういうボールが来たら、こう動く」というパターンが体に染みついていて、難しいことを考えなくても、自然に体を動かしていたら、奇麗な連携プレーが出来ていたというような場合です[※3]。
そのような「あうんの呼吸」による連携プレーが、次のような関係で、起こりやすくなるというのは頷けます。
- 長い年月を共に過ごすことで似た”プログラム”を育んだ夫婦
- 厳しい練習や苦楽を共にすることで、そのチーム特有の”プログラム”を共有するようになった部活仲間
- もともと似た”プログラム”をもっていた為に、価値観や考え方が近く、すぐに意気投合して親友になってしまった関係
お互いの”プログラム”を共有することが【 秩序4.0 】の維持に役立つ
ということになるでしょう。
※1 私も聞いた話ですので、どこまで本当なのかはわかりませんが、武道をやっている知人から、「達人レベルの武道家になると視野の外にいる小動物や虫の位置を当然のように把握している」というような話を聞いたことがありますから、もし人間には近づいてくる車を正確に把握する潜在能力は備わっているということもあり得ない話ではありませんが。
※2 ”流れ”というキーワードが登場しましたが、この言葉から、”フロー”という言葉を思い出されます。詳しくは説明しませんが、このフロー体験について研究しているチクセントミハイ博士は、フローの特徴を次のように説明しています。
なお、あまり詳しく説明せずに、突然、「瞑想」「精神集中」などと書かれると怪しい響きがあるかもしれませんが、チクセントミハイ博士は、非常に権威ある心理学者であることを付記しておきます。
参考:ミハイ・チクセントミハイ(wikipedia)
※3 これも、”フロー体験”のことが思い出される例ですね。
※2 ”流れ”というキーワードが登場しましたが、この言葉から、”フロー”という言葉を思い出されます。詳しくは説明しませんが、このフロー体験について研究しているチクセントミハイ博士は、フローの特徴を次のように説明しています。
われわれは、この体験の特別な状態を「フロー」と呼ぶことにした。なぜなら、多くの人々がこの状態を、よどみなく自然に流れる水に例えて描写するからである。体験者は「それはフロー〔流れ〕の中にいるようなのです」と述べている。では、この「流れ」に例えられるフロー状態にあるとき、私たちは、どんな体験をするのでしょうか?その1例として、あるロッククライマーの言葉が紹介されています。
M.チクセントミハイ 著、大森弘 監訳 「フロー体験入門――楽しみと創造の心理学」世界思想社(2010年5月)日本語版への序文より
それは禅の感覚で、瞑想や精神集中のようなものです。見つめるのは心が狙いをつけた一点です……物事が自動的になると……どういうわけか、それについて常時考えなくても、あるいはまったく何もしないでも、正しいことが行われる……それが実際に起こるんです。それでもっと精神集中するんです……。このように見てみると、”フロー体験”と【 秩序4.0 】には似た要素があるようです。もしかしたら、【 秩序4.0 】を実現するヒントも、”フロー”の研究から見つかるかもしれません。
M.チクセントミハイ 著、大森弘 監訳 「フロー体験とグッドビジネス――仕事と生きがい」世界思想社(2008年8月版)P.58~59より
なお、あまり詳しく説明せずに、突然、「瞑想」「精神集中」などと書かれると怪しい響きがあるかもしれませんが、チクセントミハイ博士は、非常に権威ある心理学者であることを付記しておきます。
参考:ミハイ・チクセントミハイ(wikipedia)
※3 これも、”フロー体験”のことが思い出される例ですね。
【 秩序4.0 】のルールのあり方
たびたびの登場となりますが、ここで、もう一度、交差点の例を思い出してください。交差点の例では、秩序を守るためには、お互いに対する「思いやり」や「善意」と、その思いやりを有効に機能させる「ルール」や「仕組み」(信号機や交通ルール)が必要だという結論になりました。
【 参考記事 】
今だから正直の白状すると、実は、これにはウソがありました……。ウソとまでいうと言い過ぎかもしれませんが、ある重要な前提をしっかりと説明していませんでした。
その前提というのは、「その集団が【 秩序4.0 】をつくりだす能力を持っていない」という前提です。
「そんなことが実際に起こりえる?」という疑問は置いておいて、ちょっと、想像してみてください。
もし、易々と【 秩序4.0 】をつくりだすことが出来る集団がいたとしたらどうでしょう?
彼ら、彼女らが集う「交差点」は、いったいどんな様子になるでしょうか?
そこでは、皆が、自分の渡りたいタイミングで交差点に向かうと、自然と、スムーズで安全に交差点を渡れてしまいます。
もし、このまま進むと危険なような場合には、例えば、交差点にたどり着く前に、偶然にも知り合いとすれ違うような出来事が起こり、ほんの少しの間、楽しく立ち話をしたことで危険なタイミングを避けてしまいます。
もちろん、私たちにとっては、このような状態は、あまりにも楽観的過ぎる「おとぎ話」の世界のように聞こえてしまいます。
少なくとも今の私たちには、交差点で【 秩序4.0 】を成り立たせる能力は備わっていないのですから、それは当然です。
しかし今は、空想でもいいので、そんな世界が成り立った場面をイメージしてみてください。
そんな世界に住む人々が従っているルールは、いったい何でしょうか?
もちろん、「赤は止まれ」のような交通ルールは存在しません。
彼ら、彼女らは、ただただ、自分の感覚に従って行動を決めています。
そう。
このレベルまで来ると、ルールすらも「自分の外側」には必要なくなり、「自分の内側の感覚」に従うことがルールとなるのです。
もちろん、その感覚は研ぎ澄まされたものである必要はあります。
もし、鈍った感覚に従えば、事故が起こることは明らかです。
少なくとも、今の私たちにとっては、今すぐに【 秩序4.0 】が100%の世界を目指すのは非現実的でしょう。
しかし、もし、私たち【 秩序4.0 】をつくりだすことが出来たとしたら、その時に私たちが従っているルールは自分自身の中に存在していることでしょう。
【 秩序4.0 】の自由度
上で説明した交差点の例を思い出してください。【 秩序4.0 】レベルの交差点では、人々は非常に自由に、それこそ自分の思うがままに振舞っていました。
【 秩序3.0 】の自由度も、かなり高い水準には達していました。
例えば、「ルールに従う」という行動ひとつとっても、「自らの意志で従うことを選ぶ」というレベルですから、「いやいや従うレベル」の【 秩序1.0 】や【 秩序2.0 】に比べれば、不自由感はかなり低い水準になるでしょう。
しかし、【 秩序4.0 】の自由度は、その遥か上をいきます。
自分の振る舞いが、自然と集団全体の秩序と調和しているのが【 秩序4.0 】ですから、このレベルの秩序では、もはや自由な振る舞いをためらう必要はまったくありません。
どんなに自由に振る舞っても、周囲に迷惑をかけることもなく、それどころか周囲の助けにすらなってしまうのが、このレベルの秩序だからです。
もし、万が一、【 秩序4.0 】レベルの秩序を実現することが出来たとしたら、そこに不自由が存在する必要はありませんから、もはや「自由」「不自由」という概念すら存在しない世界になってしまうかもしれません。
【 秩序4.0 】の柔軟性・変化のスピード
もし仮に、【 秩序4.0 】が実現してしまったとしたら「自由」や「不自由」の概念が不要になるのと同じように、「柔軟な変化」、「スピーディーな変化」といった概念も必要なくなるでしょう。なぜならば、【 秩序4.0 】の世界では、もし何かしらの変化が必要であれば、人々が自由に思い思いの行動をしていれば、その相互作用として、いつのまにか自然と、必要なタイミングで必要な変化が起きてしまうからです。
そこには、「変化を起こしてやろう!」という努力も、「〇〇までに変化を起こさなきゃ!」というスケジュール管理も必要なくなります。
一人ひとりが、ただただ人生を楽しんでいれば、自然と、全体にとっても必要なことが起こっている世界です。
逆に、もし人々の自然な振る舞いの結果として必要な変化が起こらなければ、それは【 秩序4.0 】は成立していなかったということです。
もちろん、これは、「もし仮に【 秩序4.0 】を実現することが出来たとしたら?」という話だということは、もう一度、念押ししておきます。
そのレベル(【 秩序4.0 】)に達していない集団が、必要な変化のための努力を怠れば、そんな場合には、「停滞」が訪れるでしょう……。
【 秩序4.0 】の雰囲気
これまで説明してきたように、【 秩序4.0 】は、頭で考えたり、意図的に努力したり、合理的なルールや仕組みなどによって成り立つものではありません。ですから、その雰囲気は、「理性」や「知性」、「合理性」よりも、「直感」や「閃き」、「感覚」などを重視した雰囲気になるでしょう。
そして、【 秩序4.0 】が成立している瞬間というのは、自分自身の「直感」や「閃き」、「感覚」を信頼し、それに自分自身をゆだねている状態となるでしょう。
ですから、自分自身に対する強い信頼も、このレベルの雰囲気をあらわすキーワードになるでしょう。
例えば、どう見ても失敗に見える実験結果が出たとしても、その結果の中に「光るもの」を感じ取り、それを信頼し切れるだけの強い自信です[※4]。
あるいは、交差点の例で言うなら、道の段差につまづいてしまったおかげで、車に轢かれずに済んだといような場合かもしれません。
もし、こんな事が日常的に起こる世界に住んでいたら、人生に起こる「嫌なこと」も必要があって起こっているように確信できるようになるでしょう。
すると、「良いこと」「悪いこと」というような対立概念は和らぎ、起こった出来事はすべて自分にとって必要なかたちで利用できるようになるかもしれません。
また、このレベルの秩序では、複雑なルールや仕組みは不要ですから、傍から見ると非常にシンプルに成立している秩序に見えるでしょう。
ただし、それは「簡単」「程度が低い」という意味ではなく、実現のためには非常に高度なものが要求されます。
ちょうど、「達人」の踊りを見て、「なんだ、簡単そうじゃん!」と、いざ素人がやってみると、とても真似など出来ないハイレベルな動きだったというようなことに似ているかもしれません。
徹底的に無駄の削ぎ落とされた、流れるような達人の動きは、一見、簡単そうに見えて、そう簡単に真似できるものではないのです。
その意味では、【 秩序4.0 】は、もっとも無駄や非効率が取り除かれた、効率的な秩序なのかもしれません。
【 秩序4.0 】のまとめ
【 秩序4.0 】とは?- 秩序を成り立たせようとする直接的な意図や仕組みがなくても、自然発生的に成立する良好な関係性
- 一人ひとりが自然に振る舞っていても、なぜか、全体がパズルのように上手く機能してしまう状態
- まるで無意識のうちに集団全体が”共鳴”しているような状態
【 秩序4.0 】の成立条件
- 極めて高い、一人ひとりの個人の能力によって支えられている秩序だと思われる
- 非常に繊細な秩序のため、安定的に成立させるのは極めて難しい(実現した例を知らない)
秩序維持の方向性(【 秩序4.0 】)
個人の能力を【 秩序4.0 】をつくり出すのにふさわしい状態に維持する。
維持すべき能力としては、例えば、次のような可能性がある。
- 無意識のうちに、その場をつかさどる全体の大きな”流れ”を察知し、その”流れ”に調和した振る舞いを私たちに促してくれる”羅針盤”となる能力を身につけ維持する
- お互いの”プログラム”を共有すること
【 秩序4.0 】のルールのあり方
- 基本的に、ルールのようなものは存在しない
- もし存在するとすれば、それは各個人が自分自身の感覚に従うこと
【 秩序4.0 】の自由度
- 【 秩序1.0 】~【 秩序4.0 】の中で、考えられる最高の自由度
- もはや、「自由」「不自由」という概念が不要になるレベル
【 秩序4.0 】の柔軟性・変化のスピード
- ただただ人生を楽しんでいれば、自然と、全体にとっても必要なことが起こる世界
- 【 秩序4.0 】に到達していない集団が同じことをすると、停滞を招く可能性がある
【 秩序4.0 】の雰囲気
- 理性や合理性よりも、直感や閃き、感覚などが重視される
- 自分自身に対する強い信頼
- 対立概念が和らぎ、起こった出来事は自分にとって必要なかたちで利用できる(白黒がハッキリしない曖昧な世界)
- 非常にシンプルで効率的
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