Categories: 記事

地球と人類とあなた自身のために、今あなたに出来ること

「地球と人類とあなた自身のために、今あなたに出来ること」
この記事のタイトルを見て、あなたはどんな印象を受けましたか?

今、この文章をお読みいただいているということは、多少なりとも興味を持っていただいたことは間違いないと思います。

しかしその一方で、もしかしたら、「地球と人類のためはいいけれど、きっと難しいことや、大変なことをしなさいって書かれてるんだろうなぁ・・・」というような想いも頭をかすめることもあったかもしれません。

残念ながら、私がこの記事でお伝えしたいことは、まったくその逆です。

地球と人類のためにと言っても、何か自分を犠牲にして努力をしましょうというようなことは一切言うつもりはありません。それどころか、私が言いたいことは、自分を犠牲にして生きるのは止めましょうということです。


では、いったい何が、地球と人類と、そして何よりもあなた自身のためになるのでしょうか?






単刀直入に私の考えを言えば、それは“”と“”のある毎日を送ることです。

(このサイトのタイトルの“和楽の道”は、“”と“”のある人生(“”)という意味ですね。)
一人ひとりが、平“”で、“”やかで、調“”的に、“”にリラックスしながら、時間を忘れるような“”しさに没頭して、ムリなく自然に“楽々”と生きること。

たったこれだけのことで、私たちが住む地球は、これまでとはまったく違う星に生まれ変わってしまうのだと言ってもいいほどのインパクトがあると私は思っています。


“地球のため”、“人類のため”などと言うと、なにか個人を犠牲にしなければならないような響きがありますが、本当は、まったくその逆で、一人ひとりの個人が幸せでなければ、全体の幸せなど実現できるわけがないと私は思っています。

“個人の幸せ”と“全体の幸せ”は、対立する“綱引き”ではないのです。

【 参考記事 】

いろいろな記事は書いていても、私がこのサイト“和楽の道”を通して伝えたいことは、結局は、この「和楽”の実現」に尽きるのだと言っても過言ではありません。


では、「“和”と“楽”とともに生きること」のいったいどこに、あなたただけでなく、地球すらもまるで別の星のように生まれ変わらせてしまう程の力が秘められているのでしょうか……?

“和楽なき世”の“負の連鎖”

その理由を考えるために、まずは“和楽”から離れて生きている状態を想像してみるのがわかりやすいでしょう。

心には平和も和やかさもなく、楽にリラックスすることも出来なければ、楽しみもなく、人生に困難を感じているような状態です。

もっとイメージしやすい言葉を使うなら、イライラしているときと言ってしまってもいいでしょう。


例えば、そんな風にイライラを感じているときには、普段ならなんとも思わないような誰かのちょっとした言動に、たとえ悪気はないとわかっていたとしても過剰に反応してしまったという経験はないでしょうか?

自分が被害者だと感じているときや、不幸だと感じているとき――。おおっぴらに認める人は少ないと思いますが、人の失敗や不幸をどこかで喜んでしまっている自分に気づくことはないでしょうか?

もっと言えば、人の不幸を期待してしまったり、意地悪をしたい衝動に駆られることすらあるかもしれません。


そんなイライラが充満した家庭があったとして、その家で育つ赤ちゃんはどんな子供に育つでしょうか?
そして、その子は学校でどんな人間関係を築くでしょうか?社会に出てからはどうでしょうか?


大人であれば、満たされずイライラした心を満たそうと、本当は欲しくもなければ必要もない高級品や贅沢品に散財してみたり、異性を自分の思い通りに支配しようとしてみたり、自分の有能さを見せつける為に人の欠点ばかりを指摘してみたり……etc.

そんな虚しい衝動を抱えながらも、時には理性でその衝動を抑圧し、時には抑えきれずに表に顔を出してきた衝動に流されながら生きる人もいるかもしれません。


そしてさらに悪いことに、そんな満たされない心を持った人が、運悪く社会的な地位を持っていたらどうでしょうか?
例えば、その人がある会社のトップだったとしましょう。

彼は、その満たされないイライラを部下に向け、抑圧的で独裁的な経営を始めるかもしれません。そして、そんな抑圧的な環境でイライラをため込んだ部下は、さらにその下の部下にイライラをぶつけるかもしれません。

そうやって、イライラを蓄積した彼らは、家で奥さんにストレスをぶつけ、奥さんは子供に、子供は学校で……、と負の連鎖が続くかもしれません。


それが国の指導者であった場合にはどうでしょう?

その国は、上から下までが抑圧の負の連鎖によって暗いムードに包まれて、国民たちはイライラを募らせることになるかもしれません。

国内のストレスが一定レベルまでに高まれば、今度はそのイライラは隣国に向けられ、最後には戦争が起こるかもしれません

私たちに秩序や安定をもたらしてきたもの

もちろん、私たちが生きる社会では、簡単にこのような無秩序が起こらぬように、さまざまな歯止めが用意されています。


例えば、いちばん簡単に思いつくのはルールによる歯止めです。

例えば、国家間には条約があり、国内には法律というルールがあります。企業でも、ISOに則したルールや独自のルールを導入しているところが多いでしょう。暗黙のルールを含めれば、ほとんどの家庭でも多かれ少なかれルールがあるのではないかと思います。

こういったルールがあれば、権力は簡単には暴走することが出来ず、パワハラをした上司は処分され、家庭内暴力を行った人は逮捕されることになります。

このように、ルールを定めることによって、ある程度の秩序ある生活を手にすることが出来るでしょう。


あるいは、“綱引きの均衡”が秩序を生むという考え方もあります。

これは、互いに同じくらいの力で縄を引き合えば縄は動かずに安定するのと同じように、相反する利害を持った人同士が“綱引き”をすることで安定がもたらされるという考え方です。

例えば、国家間であれば大国同士が睨みあうことで、大きな争いが起こるのを防げることがあります。お互いに、手を出せば自分もただでは済まないことがわかっているので、迂闊な手出しができないからです。

三権分立で特定の誰かが独裁制を敷くのを防ごうとするのも、独占禁止法で特定の企業が市場を独占するのを防いで競争状態を保とうとするのも、この“綱引き”のバランスによってもたらされる秩序を狙ってのことでしょう。

労使が“綱引き”をすれば、会社側が従業員を不当に搾取することも、従業員側がサボってばかりいることも難しくなるでしょう。

家庭にまで“綱引き”の駆け引きを持ち込めば、アメとムチの原理で子供に欲しいものを買ってあげる代わりに勉強をさせることが出来るかもしれません。

また、そういった“綱引き”による競争が、安定や秩序だけでなく、経済成長をもたらすという側面もあるでしょう。

【 “和楽の言葉”をお届けします 】

演出された和の裏で……

しかし、ルールによって生まれる秩序も、綱引きのバランスで生まれる安定も、“取り繕った和”に過ぎないという側面があるのもまた事実です。


強烈なルールによって人々を縛りつければ、表面的な和を演出することはできるかもしれません。しかし、柔軟性を欠くほどの過剰なルールで人々を縛れば、その裏には自らを抑圧してイライラをため込むことを強いられる人が現れるでしょう。

そして、その和の演出の裏では、ルールを盾にして抑圧する側と、抑圧に対抗する側の不和の火種がくすぶることになるかもしれません。




大国間の“綱引き”の均衡は、表面的な平和をもたらすかもしれませんが、その周辺国には代理戦争をもたらすかもしれません。

それが労使であろうが親子であろうが、“綱引き”を優勢に進めるためにお互いに牽制しあっていれば、その関係はどこかギスギスしたもにになってしまうでしょう。


また、綱引きによる競争が経済成長をもたらすという側面があるのも事実だと思いますが、それも行き過ぎれば、逆効果となります。

例えば、競争に勝ちたいという欲求は“外発的動機付け”に他なりませんが、この“外発的動機付け”は、「誰もが芸術家として生きる時代」の動機づけとして必ずしもふさわしいものではありません

【 参考記事 】
“外発的動機付け”は、子供のような創造性を封印してしまいますし、なによりも、それは人生に幸せをもたらすことはできません。
【 参考記事 】
第一、“綱引き”は縄が動かない状態を保つだけでも大変な努力が必要になります。現状維持のために莫大な資源と労力をつぎ込んでしまえば、前進のために必要な余力がなくなってしまうでしょう。

画像:“Tug of War” by toffehoff
ですから、“外発的動機付け”のパラダイムにもとづく“アメとムチ”の原理で、報酬をちらつかせながらも、一方では細かいルールで縛り、マネジメントの名のもとに冷たい監視の視線を向けて、「さぁ、画期的な仕事をしてください」と言われてもなかなか難しいものががります。
なにか大きな仕事が成し遂げられた背景には、“外発的動機付け”や“アメとムチ”といった“見せかけの楽”を越えた、“内発的動機付け”や、“自分の中心からわき起こる情熱”といった純粋な“楽”があるものです。

“楽”を生きるということは、そのひとつの側面として、「まるで大好きなことに熱中して楽しむ子供のように生きる」という側面が含まれています。

そんな子供のような情熱や集中力、創造性をもって事に当たれば、“アメとムチ”の原理で無理やりプレッシャーを与えたりしなくても人類の発展は止まることはないでしょう。

それどころか、これまで越えられずにいた壁を越えるための原動力になるのではないかと思うほどです。

【 参考記事 】

もちろん、私はルールや綱引きによる秩序を一概に否定したいわけではありません

むしろ、現在の人類がルールや綱引きによる秩序を失えば、どう考えてもその先に明るい未来が待っているとは思えません。それほどに重要なものだとは思います。

しかし、今後もルールや綱引きに頼り続けていたのでは、その先には限界が待っているというのもまた事実だと思うのです。それどころか、既に私たちは、その限界に片足を突っ込んでいるのかもしれません。

自転車に乗れるようになる過程では、最初は必要だった補助輪がどこかで邪魔になるように、過度なルールや綱引きによる秩序も、私たちにとって次のステップに進むための足枷になっているという側面もあるのです。


それは、既に書いたように、ルールや綱引きによる秩序や安定は、“取り繕った和”に過ぎないからです。

そして、ルールや綱引きによって和を取り繕っているかぎりは、その演出された和の裏には、抑圧され、ギスギスした雰囲気にさらされ、イライラをため込む人々が存在することになります。

そのため込まれたイライラが隠しきれずに噴出してきたときに、それでも和の演出を続けようとすれば、さらなるルールや綱引きの強化が必要になるでしょう。

これでは、いつまでたっても本当の“和”にたどり着くことはできません

“争いのない惑星(ほし)

しかし一方で、もし心の底から自分を満たすことができたらどうでしょう?

自分の心が幸せで満たされているとき、誰かの些細なミスを責めようという気持ちになるでしょうか?誰かの不幸を期待したり、意地悪をしたい衝動に駆られることはあるでしょうか?
満たされた雰囲気が溢れる家庭で育つ赤ちゃんは、どんな子供に育つでしょうか?そして、その子は学校でどんな人間関係を築くでしょうか?社会に出てからはどうでしょうか?
幸せに満たされた指導者が治める会社や国はどんなところでしょうか?

もし、誰もが幸せに満たされながら生きている星があったとして、その星はどんな様子でしょうか?
その星では、満たされない心を満足させようと、一部の人間がほかの人々を支配・搾取しようとしたり、資源を独り占めしようとして殺し合ってみたり、満たされない心の穴を埋めようとして生きるために必要な量をはるかに超えた莫大な資源を浪費しながら環境を破壊してみたりするでしょうか?

きっと、そんなことはないと思います。


満たされた余裕ある心の状態でいることが出来れば、自分が本当に必要としていいる以上のモノを手に入れようとして人々を支配・搾取しようとしたり、ましてや資源の奪い合いの為に殺し合ったりすることはないでしょう。
仮に、人口に対して資源が足りなく見えたとしても、その資源を無理やり奪い取る努力をする前に、資源を上手く分け合ったり、効率的に再利用したり、その資源を必要としない新技術の開発するための努力に力を注ぐでしょう。



争いは武器があるから起こるのではありません。“争う心”があるから起こるのです。
“争う心”がなければ、たとえ街中が武器で溢れていようとも、争いの引き金を引く人はいないでしょう。逆に、“争う心”さえあれば、その辺に落ちている「石」ですら人を傷つける武器になってしまいます。

そして、心が満たされない状態こそがが、この“争う心”が生まれる大きな原因になると思うのです。

今の自分が幸せであれば、わざわざ、ほかの民族や人種と対立し争う必要もないでしょう。自分の心が満たされていないからこそ、他の誰かを攻撃したくなるのです。


もし、争いのない星を実現することができたらどうでしょう?

そんな星では、争いの為の道具やルールをつくったり、運用したり、維持したりするために、膨大な資源や労働力を費やす必要はなくなるでしょう。

そんな、“綱引き”のために費やしていた莫大な資源や労働力を、今度は人々がさらに幸せに暮らすために使うことが出来るのです

そうやって生まれた資源や労働力を分け合うことができれば、「明日の生活のためには争いを起こさざるを得ない」という心境に追い込まれてしまう人だって減ることでしょう。そうなれば、人類の“争う心”は、ますます癒されていくでしょう。

人々が“綱引き”のストレスから解放されることによって、新たな争いの火種は姿を消し、その結果としてますます“綱引き”から解放されるという好循環につながるのです

問題が問題を呼ぶ負の連鎖からの、歴史的大転換

私は、戦争も、環境問題も、貧富の格差も、労働問題も、家庭の問題も、教育の問題も……、私たちが抱える大きな問題のほとんどは、直接的・間接的に“満たされない心”が引き起こしている問題だと捉えています

もちろん、それだけがすべての原因だと言うつもりはありません。


しかし、人々の心を満たすことさえできれば、残りの原因の多くは自然と解消の方向に向かうと考えています。

なぜならば、心が満たされた人は、人に優しさを向けられるだけの心の余裕や、人類全体の問題に意識を向けられるだけの心の余裕を持つことができるからです。

また、満たされない心が生み出す「“綱引き”に勝ちたい」という“外発的動機”に心奪われることなく、自分の純粋な動機から行動できる人は、そうでない人に比べて、フロー状態に入りやすいと言えるでしょう。

フロー状態にあるとき、人は、たとえ本人は無自覚であったとしても、何かに熱中する子供のような集中力や創造性を発揮しているものです。

“見せかけの楽”ではなく、純粋な“楽”に突き動かされるとき、人はその潜在能力を十分に発揮することができるのです。

そんな人が発揮する力は、“アメとムチ”による“綱引き”の原理で、半ば強制的に物事に取り組む人が発揮する能力の比ではありません。

そんな他者や人類全体を想いやれるだけの余裕があり、そのために大好きなことに熱中する子供のような能力を発揮する人が、たとえ10人に1人でも、100人に1人でも、1000人に1人だったとしても現れれてくれば、そのほかの原因の多くは彼ら彼女らが解決に導いてくれるでしょう。

そして、もしあなたにその意志さえあれば、その彼や彼女たちの中には、今この文章を読んでいるあなたも含まれることになるでしょう。


それは、今私たちが経験している問題を解決しようとルールや“綱引き”に突き進むほどに、その“綱引き”が新たな問題を生み出してしまう負の連鎖から抜け出し、私たちの手足を縛っていた問題を解決し身軽になることが、さらに根深い問題の解決を呼ぶ好循環への歴史的な大転換と言っていいのではないかと思っています。

そして、この歴史的な大転換の最初の一歩こそが、満たされながら生きるということだと思うのです。

“和楽の道”―歴史的大転換を引き起こす道

では、私たちが満たされながら生きるためには、いったいどうすればいいのでしょうか?

満たされない心の穴を埋めようと、勝ち組になるための“綱引き”を必死に戦っても、その先に待っているのは、やはり満たされない現実です。

平和のために、ルールで縛り、“綱引き”の均衡による秩序を求めても、“取り繕った和”による抑圧は、人々が満たされることから遠ざけるでしょう。


そんな葛藤を越えるために、私が重要だと思っているキーワードが“和楽”なのです。


「“和”か?“楽”か?」ではありません。

“和”と“楽”の両立が必要なのです。

集団の和を取り繕うために個人の“楽”を抑圧すれば、その抑圧が満たされない心を生み出すでしょう。

身勝手な楽を追い求めるために“和”を乱せば、そのギスギスした空間が人々の心を満たされた状態から引き離すでしょう。


“取り繕った和”ではない本当の“和”に包まれた場では、人々は自然と“楽”を生きることができるでしょう。

“見せかけの楽”ではない本当の“楽”を生きる人は、その満たされた感覚から、自然と“和”の空気を醸し出すでしょう。


【 参考記事 】

そうして、この記事の最初に書いた「一人ひとりが、平“”で、“”やかで、調“”的に、“”にリラックスしながら、時間を忘れるような“”しさに没頭して、ムリなく自然に“楽々”と生きること。」が実現したらどうでしょう?

そんな、“和楽”に満たされた人々は、私たちの“満たされない心”が生み出した多くの問題を過去のものへと変えていくでしょう。


あなたが“和楽”を生きることは、あなた自身のためになるだけではありません。地球や人類の未来を切り拓くことにもつながるのです。

そしてもし、それが自分自身のためにも、地球や人類のためになるのであれば、ある意味では、“和楽”を生きることこそが私たちの使命であり天命であると考えてもいいのではないかと私は思っています。

勘違いしないで頂きたいのは、それは決して、すべての人を画一的な枠にはめ込もうということではないということです。

私たちが生まれてきた理由は一人ひとりで異なります

だからこそ、“楽”しさを感じる方向が一人ひとりで違うのだと思うのです。

“楽”を生きる人は、その人が持って生まれた、好きなことや得意なことといった、その人独自の特別な“天与の才能”を生きることになります。個性を抑圧するどころか、それぞれの個性を最大限に発揮することになるのです。

“天与の才能”を活かして生きるのですから、まさに“天命”と呼ぶにふさわしいでしょう。

【 参考記事 】

“天与の才能”を活かすとき、人は時間も忘れて没頭するような“楽”しい感覚を味わいます。また、他の人には困難極まりなく見える難題すらも“楽々”とこなしてしまうでしょう。

そして、自立した一人ひとりが“楽々”と“楽”しみながらできることを提供し合うことで生きていける場をつくることができれば、そこには誰一人として嫌な思いをすることがない“和”の空間が拡がることになるでしょう。

【 参考記事 】
そんな“和”の空間では、お互いに対立して抑圧し合ったり、“綱引き”に勝つことに心奪われることもなく、一人ひとりが“天与の才能”を活かすことを助けあえるでしょう。


一人ひとりが、まったく異なるそれぞれの“楽”を追い求めても、全体としては“和”が成り立ち、その“和”の空間が、さらに人々が“楽”を生きるのを助ける――。
そんな“和楽”の循環を成り立たせる道こそが、“和楽の道”です。

“和か?楽か?”と縄を引きあうような“綱引き”を越えて、“和”と“楽”の糸を束ねて一本の縄を綯うように、“和”と“楽”が互いに支えあう“和楽の道”を“あなた”が生きること――。

それこそが、私が提案できる「地球と人類とあなた自身のために、今あなたに出来ること」です。

そんな道こそが、私たちに与えられた「人事を尽くすべき天命」だと思うのです。

【 参考記事 】

もちろん、この文章から受け取ったメッセージを、どう判断するのもあなた次第であり、選択権はあなたにあります。

私は、このメッセージを世に公開することを選びました。

このメッセージを受け取ったあなたは、いったい何を選びますか――?

【 “和楽”を生きるための参考記事 】

最後に、少しだけ補足です。

この記事を読んでいて、もしかしたら自分を否定したくなる感情を感じることもあったかもしれません。しかし、もしそんな感情を感じたとしても、その感情を許してあげてください。

自分を許さないことは、“和”の状態でも“楽”の状態でもありません。

「人生に失敗はない」の精神で、あなた自身と、平“和”で、“和”やかで、“楽”で、“楽”しい関係を築いてください。
warakunomichi