「夢を叶える文章術!」この記事のタイトルは、そんな言葉から始まります。
こんな記事を開いたのですから、あなたはおそらく、夢を叶えることに興味をお持ちなのだと思います。
と同時に、夢を現実にするのが難しいとも感じているのではないかと思います。
なぜ、そんなことがわかるのかって?
それは、もし、夢を叶えることにまったく難しさを感じていないとしたら、こんな記事は開かないのではないかと思うからです。
では、
いったいなぜ、夢を叶えることは難しいのでしょうか? 夢を叶えたいと思ったときに、多くの人が直面する問題がコレ(↓)です。
「好きなことって言ったって、そんなことじゃ食っていけないし……。」 そう、経済的な問題ですね。
お金を取るか、好きなことをとるか? これは、本当に悩ましい選択です。
それは、そうでしょう。
起きている時間のほとんどをやりたくもないことに費やし、自分に責任のないことで怒られて、誰かのミスの尻拭いをして……。そうやって、必死で自分を押し殺して、「安定」にしがみつくのか――?
それとも、好きなことはしているけれど、いつもお金の心配をして、支払日にビクビクしながら生きるのか――?
そう簡単に選べるものではありません。
でも、ちょっとおかしいと思いませんか? 本当に、
安定を手に入れようと思ったら、自分を封印して、組織の歯車になり切るしかないのでしょうか?
夢を追いかけようと思ったら、ごくごく一部の幸運な人を除いては、豊かに生きることをあきらめなければならないのでしょうか?
これは、人生に平和(安定)を求めるか、楽しさ(夢)を求めるかの、
“和”と“楽”の“綱引き”に囚われてしまっている状態と言えます。
でも本来は、
安定や経済的豊かさも、好きなことを楽しんで夢を生きることも、別に対立することではありません。
夢(“楽”)と安定(“和”)の両方を手に入れたっていいはずです。
では、いったいどうすれば、その両方を手に入れることができるのでしょうか?
2人の天才芸術家 ― そのあまりにもかけ離れた生涯。
今から少し、ある有名な2人の芸術家のエピソードについて紹介してみましょう。
ふたりの天才画家、ゴッホとピカソの偉大な名声なら、誰もが知っているだろう。だが、ふたりの生前の境遇には、天と地ほどの差があった。
ゴッホの人生であまりに有名なのは、多くの職を転々としながら苦労して画家となり、ゴーギャンとの共同生活が破綻した後、みずからの耳を切り落としてしまったエピソードであろう。ゴッホは、弟テオの理解と援助のもとで創作活動を続けることができたが、その2000点にものぼる作品のうち、生前に売れた絵はわずか1点のみだった。
山口揚平著 「なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか?」ダイヤモンド社(2013年)P.4~5より
ゴッホは、天才と称される画才を発揮しながらも、生前は経済的に厳しい生活を余儀なくされ、作品もたった1点しか売れなかったそうです。
では、ピカソはどうだったのでしょうか?
ピカソは違った。その卓越した画才もさることながら、私人としても成功した。
美術教師だった父親のもとで7歳から熱心な教育を受けたピカソは、幼少期から天才の片鱗を見せつけた。教えていた父みずからが「もう息子にはかなわない」と感じ、二度と絵筆を握ることがなかったというエピソードは、その才能の非凡さを物語っている。
91歳で生涯を閉じたピカソが、手元に遺した作品は7万点を数えた。それに、数カ所の住居や、複数のシャトー、莫大な現金等々を加えると、ピカソの遺産の評価額は、日本円にして約7500億円にものぼったという。美術史上、ピカソほど生前に経済的な成功に恵まれた画家、つまり「儲かった」画家はいない
山口揚平著 「なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか?」ダイヤモンド社(2013年)P.5より
経済的に苦労したゴッホに対して、ピカソは、なんと日本円にして約7500億円もの富を手にしたということです。7500億円といえば、個人がもつ財産としては尋常なものではありません。
ゴッホは、天才と呼ばれるだけの絵の才能を持ち、実際にその才能を発揮しましたが、経済的に恵まれることはなかったようです。
一方でピカソは、芸術の才能を発揮するだけではなく、経済的にも大成功を収めたといいます。
ところで、「
夢を選ぶのか?」、「
安定を選ぶのか?」という視点からこの二人を見てみるとどうでしょう?
ある意味では、「
ゴッホは夢を生きたけれども、経済的には苦労した」と言えます。
もちろん、経済的な苦労は、決して、人生の失敗を意味するわけではありません。ゴッホが偉人であることには違いないでしょう。
しかし、しなくて済むのであれば、誰もがしたくないと思うのが経済的な苦労だというのも、また事実だと思います。
では、ピカソはどうでしょうか?
言うまでもなくピカソは、歴史に名を遺すほどに芸術の道で功績をあげると同時に、経済的にも大成功を収めました。
そうです。ピカソは、「
夢か、お金か?」ではなく、「
夢も、お金も!」手に入れたのです。
この記事は、他ならぬ“あなた”へのメッセージ
これは天才の話だから、私には関係ない? そう言いたくなる気持ちはわかります。
それどころか、もっと暗い考えすら浮かんでくるかもしれません……。
「ゴッホのような歴史に名を遺す大天才であっても、絵だけでは生計をたてることができなかった――。天才ですら難しいのであれば、私たちのような一般人※が、夢を追いかけようなんて、そんなこと、文字通り“夢のまた夢”なんじゃないだろうか……?」
※ 私たちは誰でも、人それぞれの“天与の才能”をもっていると、私は思っています。しかし、ここではわかりやすさのために、便宜上、「一般人」という表現を使いました。 でも、ちょっと待ってください。
私たちが、
いわゆる「安定した仕事」に就いているとき、私たちは自分の才能を発揮しきっているのでしょうか?歴史に名を遺すような大仕事を達成しているのでしょうか?
よく考えてみると、
いわゆる「安定した仕事」に就いている人の多くは、組織の歯車として、他の人でも出来るレベルの仕事をすることを求められていることが多いはずです。
もちろん、全員がそうだと言うつもりはありません。
しかし、「安定した仕事」に就いていて、輝くような才能を発揮している人など、本当にごくごく限られた、一握りの幸運な人ではないでしょうか?
そうです。一部の例外を除いて、
いわゆる「安定した仕事」では、他の誰かでも出来るレベルの仕事をすることが求めらていることがほとんどなのです。
交代の効かない天才的な仕事は、求められていないどころか、低評価にすらつながってしまうことも少なくないでしょう。
経営幹部たちは、「新しいこと、世界でまだ誰もやっていないような革新的な仕事をして欲しい」と口では言っているかもしれません。しかし、実際に、時代を先取りした、本当に革新的な提案などしようものなら、社内では大きな抵抗に逢うはずです。
これは、いったいなにを意味しているのでしょうか?
ゴッホは、
歴史に名を遺すほどの仕事を成し遂げましたが、経済的には苦労しました。
一方で、
経済的な安定を手にしている人の中には、他の人でも出来るレベルの仕事をしている人が少なくありません。
ということは、
「お金」や「安定」は、必ずしも才能と直接的につながるわけではないということになります。
ですから、この話を「天才の話だから」と、まるで自分とは関係のない話であるかのようには捉えないでください。
今回の記事で扱うテーマは、天才であろうが、天才でなかろうが、ありとあらゆる人にかかわる話なのですから。
もっと言ってしまえば、私は、誰もが“天与の才能”を与えられていると思っています。しかし、話がややこしくなってしまうので、ここでは触れないでおきましょう。詳しくは、下の参考記事を読んでみてください。
【 参考記事 】
なんにしても、この記事は、
歴史上の天才の批評をすることが目的なのではなく、他ならぬ“あなた”に向けられた記事なのだということを理解していただいたうえで、話を元に戻していきましょう。
ピカソが芸術家として成功した理由
もし、
持って生まれた才能が直接的には関係しないのだとしたら、いったい何が、「お金」や「安定」をもたらしてくれるのでしょうか?
実は、そのために、私が非常に大切だと思っている「ある能力」を、ピカソは大いに発揮していたようなのです。
同じく天才と称される画家でありながら、2000点の作品をつくっても生前にたった1点の作品しか売れなかったゴッホと、自らの才能を7500億円もの価値に変えることができたピカソ。 この違いは、いったいどうして生まれたのでしょうか? もう少し、「
なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか?」から、引用してみましょう。
[引用者注:ピカソは、]特に、自分の絵を販売することに関しては天才的で、ピカソは新しい絵を描き上げると、なじみの画商を数十人呼んで展覧会を開き、作品を描いた背景や意図を細かく説いたという。
絵が素晴らしいのは前提だ。だが人は、作品という「モノ」にお金を払うのではない。その「物語」を買うのだ、と彼は知っていた。そして、たくさんの画商が集まれば、自然に競争原理が働き、作品の値段も吊り上がる。ピカソは、自分の作品の“価値を価格に変える方法”、今でいえば“マネタイズ”の方法をよく知っていたのだと思う。
山口揚平著 「なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか?」ダイヤモンド社(2013年)P.6より
※ 「なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか?」の中では、他にもピカソが経済的に成功した理由が書かれています。(ただし、タイトルからはゴッホとピカソの本に思えますが、全体的にはお金について書かれた本で、ゴッホやピカソに触れているのは一部ですので、その点はご注意ください。) ピカソの作品がよく売れた背景には、どうやら、「画商たちに作品についての“物語”を語った」ということがあるようです。
これは、どういうことなのでしょうか?
ゴッホとピカソの運命を分けたもの
ここで少し、「仕事」とか「働く」といったことについて考えてみましょう。
ここでは、「仕事」というものの2つの側面として、「
価値を生み出す」、「
価値を提供する相手につながる」という要素に分けて考えてみようと思います。
この2つの視点から、ゴッホとピカソを考えてみるとどうでしょう?
まずは、「
価値を生み出す」という視点です。
芸術家が生み出す価値といえば、まずは作品です※。この
作品の質については、ゴッホもピカソも、天才として歴史に名を遺す芸術家ですから、超一流の作品(価値)を生み出していたと言えるでしょう。
※ 芸術家が生み出す価値の本質は何なのか?、と考えると、それを単純に作品の質とイコールとしてしまうのはちょっと早計です。しかし、今回の記事では、あえてそのあたりについては深く触れないことにします。 では次に、「
価値を提供する相手につながる」という視点ではどうでしょう?
上で書いたように、ピカソは、作品の販売能力についても天才的だったということです。ピカソは、「作品を描いた背景や意図を細かく説い」て、「物語」を語ったといいます。
これは、
「自分が生み出した価値を必要としている人」との「つながり」をつくっているということでしょう。
まさに、「
価値を提供する相手につながる力」(の一側面)だと言えるでしょう。
作品の販売についても天才的な能力を発揮したピカソに対して、ゴッホはどうだったのでしょうか?
ゴッホも、歴史に天才として名を遺すほどの作品をつくっているのですから、生み出した価値が低かったということはないでしょう。
ということは、
その価値を必要としていてお金を払ってでも欲しいと思う可能性を持った人は、ほぼ間違いなく、どこかに存在しているということになると考えられます。
実際、彼の死後には、彼が遺した作品に非常に高価な値段がつけられることになります。
にもかかわらず、作品がほとんど売れなかったという事実を考えると、ゴッホは、
自分の作品を必要としている人に「つながる能力」については、得意ではなかったのではないかと予想できます。
(もちろん、ゴッホに限ったことではなく、天才的な作品は人に理解されにくい傾向があるということはあるでしょう。しかし、「つながる力」は、たとえそんな中であっても理解者を見つけ出してつながっていくことを助けてくれる力となるはずです。)
もしそうであれば、自分の作品を必要としてくれる人に
「つながる力」こそが、ゴッホとピカソの人生を分けた大きな要因の1つだと言うことができるでしょう。
「つながる力」が人生に安定をもたらす!
ここで、少し思いだしてみてください。
上で書いたように、
いわゆる「安定した仕事」に就いている人の多くは、他の人にも出来るレベルの仕事を求められています。
別の言い方をすれば、(あまり気持ちのいい表現ではありませんが、)
特筆するような大きな価値を生み出しているわけでも、輝くような自分の才能を発揮しているわけでもないということになります。
それでも、
そんな人が「経済的な安定」を享受していられるのは、実は「つながり」のおかげなのです。
【 参考記事 】
詳しいことは参考記事に譲って、ここではポイントだけをおさらいしておきましょう。
まず、
いわゆる「安定した仕事」に就いている人は、必ずしも「つながる力」を持っているわけではありません。
……というよりも、そんな力について考えたことすらない人の方が多いかもしれません。
それでも、彼ら、彼女らの人生が安定しているのは、多くの場合、
自分からレール(つながり)を敷かなくても、企業の側からレールを敷いてくれるからです。
企業の側がレールを敷いてくれれば、あとのはそのレールに乗る事さえできれば、自分からつながっていく力は必要とされません。
しかしそれは、
企業が敷いてくれたレールから外れることができなくなってしまうことを意味しており、企業に人生を縛られることにもなってしまいます。( ← 大切なポイントです。 )
そして、いわゆる「安定した企業」では、既に、代理店や販売店のネットワークが強固に築かれていたり、強力なブランド力で消費者の心を掴んでいたりすることがほとんどです。(代理店・販売店のネットワークも、ブランド名や企業名への信頼も、つながりの1つです。)
ですから、
「安定した企業」自体も、そのお客さんとの「つながり」をすでにもっているということになります。
逆に、もしこのような「つながり」がまったくなかった(=お客さんがまったくいない)としたら、そのような企業が「安定している」ということは、まずあり得ないでしょう。
このように、「安定した企業」には、すでにお客さんとの「つながり」がありますし、一人ひとりの仕事の範囲が専門化されていることがほとんどです。
ですから、
そんな企業で働く人の多くは、自分からレールを敷く能力(=つながりをつくる能力)を磨く機会がほとんどありません。
もちろん、「安定した企業」の中でも、新たな「つながり」(=市場なり、お客さんなり)を求めて、新しいレールを敷く仕事に就く人はいることにはいるでしょう。
しかし、自分からレールを敷くような仕事をしている人は、あくまでもごく一部。
そしてさらに、そんな人ですら、「安定した企業の看板」という強力なブランド力(=すでにお客さんに認知され、ある程度以上の信用を得ているという意味での「つながり」)の恩恵に与っているわけですから、ゼロから「つながり」をつくっているわけではありません。
そうです。
彼ら、彼女らの人生が安定しているのは、すでにある「つながり」の恩恵に与(あずか)っているからなのです。
ただし、そんな「つながり」にも大きな問題点があるのですが、本題からずれてしまうので、ここでは触れません。詳しくは下の参考記事をご覧ください。
【 参考記事 】
「つながり」に縛られる人生。
なぜ、
同じように天才として歴史に名を遺すような芸術家であっても、作品がほとんど売れない人がいる一方で、信じられないような高値で作品が取引される人がいるのか?
なぜ、
他の人でもできるレベルの仕事をしている人の人生が安定する一方で、
歴史に残る作品をつくった天才が経済的に苦労することになるのか?
ここまでお読み頂ければ、もうお分かりでしょう。
「つながり」の恩恵に与(あずか)ることができたかどうか――? このちょっとした違いこそが、その運命を大きく変えてしまうのです。
本人が意図してレールを敷いたにしても、相手がレールを敷いてくれたにしても、「つながり」をつくることができれば、「安定」に大きく近づくことができます。
ただし、
自分からレールを敷ける人は、自分が好きなようにレールを敷くことができます。
一方で、
誰かが敷いてくれたレールに乗ることしかできない人は、その「誰か」が敷いたレールから外れることができません。
つまり、
「誰か」の期待い通りに生きることしか出来なくなってしまうのです。
もう少し具体的に言えば、自分でレールを敷くことが出来ない人が上司に命令されれば、
- 土日に出社して、やりたくもないことをやらなければ、と思うかもしれません。
- たとえサービス残業であっても、断れないかもしれません。
- 転勤の命令を受ければ、行きたくもない土地に行くことになるでしょう。
- 自分が本当にやりたいことも、封印せざるを得ないことが多いでしょう。
- そして、「家族のために!」という想いで働いているにもかかわらず、家族にろくに会うこともできず、かえって家族と疎遠になってしまうかもしれません。
- さらには、自分の良心に反するグレーな仕事をしなければならない目に遭うことだってあるかもしれません。
他人が敷いたレールに縛られ続けている限りは、本当の自分に正直な生き方をすることが出来ないのです。
そして、この「自分に正直に生きなかった」という後悔は、もっとも多くの人が、人生の最期に直面する後悔なのだと言います。
【 参考記事 】
(ただしこれは、決して、他人の敷いたレールに「つながる」ことが一概に悪いということではありません。そのレールに「つながる」ことを本当に望むのであればなんの問題もありません。問題なのは、そのレールにしか「つながる」ことが出来ないばかりに、その「つながり」に人生を縛られてしまうことです。) でもそれは、ある意味では、仕方ないのかもしれません。
私たちの多くは、学校の先生にも、会社の上司や先輩にも、「つながる力」の磨き方について教わることなど、ほとんどありません。
自分からレールを敷くことができなければ、
誰かが敷いてくれたレールに乗るという選択以外の選択肢を選べないのも仕方がないのかもしれません。
「
夢なんかじゃ、食っていけない。」
一般的にそう言われがちなのは、
多くの場合には夢を生きようと思うと、自分から「つながり」をつくるためのレールを敷く必要があるからなのです。
そして、
他人が敷いてくれたレールに乗る場合には、夢を諦めざるを得なくなってしまうことがほとんどです。
だから、「
仕事なんて、つまらないものだ」、多くの人がそう思っています。
(もちろん、そうじゃないこともあります。例:「飛行機の設計がしたい人が、航空機メーカーにエンジニアとして就職する」など)
でも、考えてみてください。
もし、自分からレールを敷くことができたとしたらどうでしょう?
自分からレールを敷くことさえできれば、たとえ夢を生きたって、貧乏する必要はなくなるのです。
不安定な職業の代名詞と言ってもいい芸術家稼業ですら、「つながる力」次第で、安定した仕事に変えることができます。
それどころか、
いわゆる「安定した企業」に勤めている人以上に「安定した生活」を手に入れられる可能性すら秘めています。(詳しくは、参考記事を参照)
【 参考記事 】
では、
その「つながる力」を磨くためには、いったいどうすればいいのでしょうか? 私がお勧めしたいのは、
“言葉の力”を磨くことです。
例をあげて説明しましょう。
“言葉の力”がもたらすもの
例えば、私は、ある農家の方から直接お米を買っています。
その農家では、徹底的に安全にこだわったお米をつくられています。
もし、その農家の方が通常の流通ルートで、そのようなこだわりのお米を売ろうと思ったら、おそらく採算があわず、お米づくりを成り立たせるのは難しいのではないかと思います。(これは、私の勝手な予想です)
しかし、私は、そちらのお米を、もう5年くらいは食べさせてもらっていますから、経営的にも成り立っているのだと思います。
それどころか、あるときには、売りだされたその年の新米がすぐに売り切れてしまうことすらありました。
「品種不問、規格外のお米でいいから譲って欲しい」とお願いして、なんとか購入できたこともありました。
まさに、お米が「飛ぶように売れている」状態を、この目で目撃したのです。
では、通常ルートでの販売をしていないのだとしたら、いったいどのようにしてお米を販売しているのでしょうか?
それは、ネットでの通販(直販)です。
もちろん、今のご時世、ネットでの通販くらい、別に珍しくもなんともありません。
ハッキリ言って、単純にWEBサイトをつくっただけでお米が売れるほど、甘い世界ではないでしょう。下手に素人が手を出したりすれば、売上ゼロという事態も起こりかねないと思います。
しかし、
その農家のお米は売れています。
そのお米は、(総合的に考えれば、決して高い金額ではないと私は思っていますが、)単純にスーパーやお米屋さんで普通に買えるお米に比べれば、安いとは言えない金額です。
しかも、楽天市場のようなモールに出店するのでもなく、誰か(販売のプロ)に売ってもらうのでもなく、ご家族でWEBサイトをつくって、注文の受け付けなどもご家族の方がされています。
決して、格好よくできた綺麗なページではありません。どちらかといえば、いかにも家族経営という雰囲気が漂っているWEBサイトです。
しかし、
そのページからは、お米づくりに対する想いが伝わってきます。
そのお米を必要としている人へのメッセージが滲みだしているのです。
「多少値が張ろうと、ここのお米が食べたい!」
そう思わせる何かが伝わってくるのです。 私が
“言葉の力”と言っているのは、こういった力のことです。
(もちろん、“言葉の力”には他の側面もあります。)
見た目が格好いい言葉でもなく、体裁を取り繕った言葉でもなく、頭がよさそうに見える言葉でもなく、他人(ひと)を都合よくコントロールする言葉でもありません。 その人の本質へ、中心へ、魂へと“つながる”言葉。
その人にとって必要な人と、必要な世界と“つながる”言葉。
それが、私が言っている“言葉の力”なのです。 もし“言葉の力”がなかったら……
“言葉の力”は、必要な人、必要な世界と“つながる力”を持っています。
そのお米農家のご家族は、私などには知る由もない様々な努力をされていることだと思います。
しかし、その様々な努力の中でも、
WEBを通じた情報発信が、そのお米農家が今のかたちでの「お米づくり」、「お米の販売」を行う上で非常に重要な要因になっているであろうことは予想がつきます。
もし、
独自ルートでの販売(自分からレールを敷いての販売)ではなく、一般的なルートに卸して販売(他人が敷いてくれたレールに乗っての販売)をしていたらどうでしょう? そうなれば、
卸し先の規格要求や、価格要求を呑まざるを得ず、安全なお米づくりに対する独自のこだわりを諦めなければならなくなってしまったかもしれません。
あるいは、それでも必死に努力して、通常よりもコストのかかる安全にこだわった方法でお米をつくりながらも、なんとか低価格で通常ルート販売をしたとしたらどうでしょう?
そんな場合には、
せっかく大変な努力でつくりあげたお米が、普通の農法で作られたお米と同じ扱いを受けて、その価値を理解していない人に届くことになるかもしれません。
せっかくの
こだわりのお米だったにもかかわらず、「お米なんて、なんでもいい」という人の手に届いてしまうかもしれないのです。
あるいは、そのこだわりが伝わったとしても、
「そんなこだわりどうでもいいから、もっと安く!」というようなクレームすらあるかもしれません。
自分から「つながり(レール)」をつくることができずに、企業が敷いてくれたレール(つながり)の恩恵に与(あずか)ることしかできない人は、その企業との「つながり」に人生を縛られてしまうのと同じことです。
会社を辞めたら(会社との「つながり」がなければ)生きていけないという現実にある人は、どんなに嫌な仕事であっても、会社の命令であれば従わざるを得ません。
その販売ルートとの「つながり」が切れてしまったら、お米を売ることが出来ないという現実にあるお米農家は、その販売ルートの方針がどんなに嫌であっても、それに従わざるを得ないのです。 残念なことではありますが、これが、
現時点での私たち人類がつくりあげた社会の現実です。
まずは、この現実を認めてください。 この現実に目を背けては、その現実を超えていくことはできないからです。
でも、
安心してください。
そんな現実が嫌であれば、乗り越えていけばいいだけのことだからです。
必要な“人”や“世界”とつながる、“言葉の力”
では逆に、そのお米の価値を理解して、そのお米が必要だと思っている人とつながることができたらどうでしょう?
そんな人とつながることができれば、わざわざ無理をして通常ルートでお米を売る必要があるでしょうか?
そのお米の価値を理解している人に食べてもらうのと、「お米なんて、なんでもいい」と思っている人に食べてもらうのでは、どちらが幸せでしょうか?
もっと言ってしまえば、そのお米の価値を理解している人が、「もっと安くしろ」というようなことを口にするでしょうか?
もちろん、そのお米農家の方が、どういう意図でWEBサイトの運営をしているのか、本当のところは私にはわかりません。
しかし、そのお米農家が、
“言葉の力”を使って、そのお米を価値を理解して、そのお米を必要としている人につながったということは紛れもない事実だと思います。
そうです。その農家のご家族は、
“言葉の力”によって、必要な人々(そのお米に価値を認める人々)、そして必要な世界(そのお米の価値が認められる世界)につながっているのです。
そして、そんなつながりがあればこそ、
自分たちとは価値観が違う卸し先との「つながり」に縛られ、自分たちのお米づくりを封印せざるを得ないような状況に追い込まれずにすむのです。
夢を叶える技術
もちろん、お米農家をやるためには、お米づくりの技術が必要です。それがなければ、始まりません。
しかし、
お米づくりの技術と同時に、その米づくりを支えてくれる人(お客さん)とのつながりをつくることができなければ、米づくりへの意志を貫くことが難しくなってしまうのです。
そしてこれは、決して、お米農家だけに限った話ではありません。
例えば、
芸術家として作品をつくる場合にも、スポンサーとのつながりに縛られれば、自分が本当に表現したい世界観を表現することができないかもしれません。
スポンサーの意向とあらば、自分の信念を曲げた作品をつくらなければならなくなってしまうのです。
あるいは、大学教授になるような場合はどうでしょう?
「公園の父」と呼ばれる日本初の林学博士 本多静六博士は、東大教授として働きながらも、投資によって富を築いたと言います。
といっても、築いた富のほとんどは、退官と同時に教育や公共のために寄付してしまったといいます。それも、匿名による寄付です。(wikipedia「
本多静六」より)
そんな本多博士が蓄財を始めたきっかけは、ドイツに留学した際の師であるルヨ・ブレンターノ教授から、
これまでのような貧乏生活を続けていては、お金のために自由を奪われることになると忠告されただったといいます。
(蛇足ですが、この記事を書くために検索をしていたら、こんな記事(人物探訪:本多静六 ~ 国土づくりの道楽人生)を見つけました。よくまとまっているので参考になると思います。特に、「職業の道楽化」が幸せにつながるという考え方は、“和楽”の考え方に通じるものがあります。) これは、
お金に縛られてしまっていては、学問の自由を守ることはできないので、まずは自立して意志を貫けるだけの経済的な基盤をつくりなさいということなのだと思います。
【 参考記事 】
どういうことかと言えば、例えば、研究者として企業から研究費を受け取って、何かの研究をしたとします。
そして、その企業からは、その企業の製品が素晴らしいことを証明する結論を出してくれと頼まれたとします。
もちろん、結果の良し悪しにかかわらず、ありのままに結果を報告するのが学者の務めではあるでしょう。
しかし、来年の研究費のことを考えると、ついつい、「ウソにならない範囲なら……」と、実際よりも依頼主に有利な結果に見せかけなければというプレッシャーを感じてしまうこともあるかもしれません。( ← かなり控え目に書いています。 )
そうならないためには、
そんな依頼は断れる状況をつくる必要があるのです。
それは例えば、
もっと誠実な関係を築ける研究のパートナー企業との「つながり」をつくることかもしれません。
あるいは、(本多博士がそのように考えていたのかどうかはわかりませんが、)本多博士のように莫大な蓄財をして、いつでも立場を捨て、野に下って自由に活動できる基盤をつくることかもしれません。
とにかく、ここで忘れないで頂きたいのは、お米づくりをしたいと思えば、誰だって米づくりの技術が必要だとわかりますし、学者になるためにはその分野の専門知識が必要なのだとわかります。
しかし、
自分の意志を守りながら、自由に米づくりなり学問なりをしていくことを支えてくれる「つながり」をつくる技術については、多くの人が見落としてしまうということです。
このことを見落としていると、
せっかく夢を叶えたと思ったのに、望まないつながりに縛られて、夢を生きられないということにもなってしまいかねないのです。
これは、
どんな生き方をする場合にも、ほぼ例外なく当てはまるのではないかと思います。
夢を叶える文章術
ここで、この記事のタイトルを思いだしてください。
『夢を叶える文章術』 それが、この記事のタイトルでした。
この“夢を叶える”というテーマを考えたときに、“言葉の力”によって必要なつながりをつくることは、いったいどのような意味を持っているのでしょうか?
もう、説明するまでもないと思います。
もし、手間はかかるけど安全にこだわったお米をつくりたいと夢見る人がいたとします。
そんな人が、
つながる力を活かすことができれば、多少値が張ったとしても、そのお米が欲しいと思ってくれる人につながり、生計を成り立たせることができるでしょう。
さらには、
いわゆる「安定した企業」に勤める以上の安定を、人生にもたらしてくれることすらあるでしょう。
【 参考記事 】
つまり、
“言葉の力”は、夢を叶えることを強力にサポートしてくれるということです。
一方で、そんな“つながり”をつくることができず、
生計を立てるために他人の敷いたレールに乗らざるを得なくなってしまったとしたらどうでしょう?
もちろん、そのレールが自分の進みたい方向と一致していれば万々歳です。
しかし、そんな幸運に恵まれることは、どちらかといえば例外です。場合によっては「無農薬なんて、つまらないことばかり言っていないで、化学肥料も農薬もジャンジャンつかって、安いお米を大量に作ってください」という
圧力に屈することが避けられなくなってしまうかもしれません。
あるいは、自分でレールを敷くことも出来ず、他人のレールに乗ることもなく、自分のこだわりの米づくりを推し進めたとしたら、
売れない芸術家のように経済的に苦労した挙句、遂には首が回らなくなり、農家を廃業ということだって無い話ではありません。
“つながる力”がないと、夢が叶う可能性が低くなってしまうのです。
これは何も、
農家として独立するような大きな話だけに限ったことではありません。
会社に勤めている人であれば、ちょっとした提案を上司にするときにも“言葉の力”を活かすことができます。主婦(主夫)の人だって同じことです。
また、上ではわかりやすさのために、お金を稼ぐという部分に注目しましたが
、“言葉の力”が生み出すのは、なにもお金だけではありません。
“言葉の力”は、世界観や人生観を共有できる仲間や、あなたにとってより望ましい環境、そして何よりもあなたの人生を“楽”しいものにしてくれるでしょう。
それは、
あなたを“楽”しませてくれるだけでなく、世界に“和”をもたらしてくれることになるでしょう。
【 参考記事 】
“言葉の力”は、そんな“和”と“楽”の両立を助けてくれる、とても強力で現実的な力なのです。
そう、
“言葉の力”は、“和楽の道”を歩むことを助けてくるのです。
ただし、“言葉の力”は強力ですから、注意も必要です。なぜかというと、“言葉の力”を使って、「必要の無いつながり」をつくってしまったとしたら、今度はそのつながりに縛られることになるからです。
このことについては、また別の機会に詳しく触れたいと思います。 また、“言葉の力”については、基礎の「キ」の部分ではありますが、“真実の人生”という物語に書きましたので、こちらも参考にしてみてください。
※ 現在、“真実の人生”単体での公開は終了していますが、“
あなたの人生を取り戻す、8つの質問(登録無料)”の読者の方にはお読みいただけるようにしてあります。
この“
あなたの人生を取り戻す、8つの質問(登録無料)”は、すべての質問に答えるうちに、自然と“言葉の力”を効果的に発揮することを助けられるように設計してありますので、取り組んでみることをお勧めします。