Categories: 記事

「内発的動機付け」と「外発的動機付け」 小さな違いが、人生を変える


最初は、ほんのちょっとしたものでしかなかったはずのわずかな違いが、その後の人生を天国と地獄ほどに変えてしまう……。
人生の中には、小さいよう見えて、本当は人生を根底から変えてしまうような大きな違いが隠されていることがよくあります。

今回の記事では、そんな違いの一つについて書いていきたいと思っています。

また、前回の記事では、「ゲームが大好きな子供でさえ、あっという間にゲーム嫌いに変えてしまう驚くべき方法」を紹介しました。

その中で紹介した方法は、実は、私の勝手な推測で書いているのではなく、学術的な調査結果を参考にして書かれたものだと書きました。

実は、今回の記事で紹介する「小さく見えて、本当は大きな違い」が、この「子供をゲーム嫌いにしてしまう方法」にも繋がっていますので、そちらの種明かしもしていきたいと思います。

「内発的動機付け」と「外発的動機付け」の意味

本題に入る前に、この記事でポイントとなる言葉について説明しておきたいと思います。その言葉というのは、「内発的動機付け」と「外発的動機付け」という2つの言葉です。

あまりなじみのない言葉だという方も多いと思いますので、例をあげながら意味を説明していきましょう。

例えば、芸術家が作品をつくるとき、その芸術家は何のために、その作品をつくるのでしょうか?

大きく分けると、次の2つのような理由が考えられます。

1つめの理由は、作品をつくった結果得られるメリットを求めて作品をつくるというものです。



画像:Mark Herpel(digitalmoneyworld)

例えば、作品が売れればお金になるし、上手くいけば有名になれるかもしれないから作品をつくるというような場合です。

このような、作品をつくること自体とは別の、外的な報酬を目的として作品をつくろうと思わせるような動機付けを「外発的動機付け」と呼びます。

2つ目の理由は、その作品をつくること自体が楽しいので、作品をつくるというものです。

例えば、自分が「これだ」と思える世界を描くことの快感を求めて絵を描いたり、体に走る繊細な心地よさを求めて踊りを踊ることなどがこれにあたります。

このような、自分の内部から沸きおこる喜びを目的として作品をつくろうと思わせるような動機付けを「内発的動機付け」と呼びます。



実は、この二つの動機付けの違いが、その人の住む世界を変えてしまう程の影響力を持っているのですが、その説明は後にして、まずはある研究者たちが行った調査の結果を紹介しましょう。

研究者が発見した、驚くべき事実

「モチベーション3.0」(ダニエル・ピンク著 大前研一訳 講談社2010年)という本の中で、ある3人の研究者が発見した、常識に反する実験結果が紹介されています。(同書66ページより。マーク・レッパー,デイヴィッド・グリーン,リチャード・ニスベットによる実験)
今回から何回かの記事は、この「モチベーション3.0」を教科書にして進めていこうと思っています。今の時代に必要なことが、わかりやすく書かれた本だと思います。

話を実験結果に戻しましょう。

この実験は、自由時間に絵を描いて遊んでいる、絵を描くのが好きだと思われる幼稚園児を対象に行われたといいます。

つまり、絵を描くこと自体を楽しいと感じている、絵を描くことに内発的動機を感じている子どもたちに対して実験を行ったということでしょう。

この実験では、それらの絵を描くのが好きな子供たちを3つのグループに分けました。それぞれのグループには次のような違いをつけて実験が行われました。

グループ1絵を描いたら報酬(賞状)がもらえることを、あらかじめ子供たちに知らせ、実際に報酬をもらったグループ
グループ2絵を描く前に報酬(賞状)がもらえることを知らせていなかったが、絵を描いた後に報酬(賞状)を渡したグループ
グループ3絵を描く前に報酬(賞状)があるとも伝えず、実際に絵を描いても何ももらえなかったグループ
グループ1の子供たちは、絵を描いたら賞状をもらえることを知っていました。ただでさえ絵を描くのが好きな子供たちです。きっと、賞状をもらおうと頑張って絵を描こうとしたことでしょう。

このグループの子供たちは、賞状をもらいたいという外発的動機を持ちながら絵を描いたことが予想されます。
グループ2の子供たちは、絵を描く前は、賞状をもらえるとは知りませんでしたが、絵を描いた結果、賞状をもらいました。大好きな絵を描いた結果、賞状までもらえたのですから、きっととても嬉しかったことでしょう。

このグループの子供たちは、絵を描く前には賞状をもらえると知りませんでしたので、絵を描いた動機は、絵を描くことを楽しみたいという内発的動機付けだったことでしょう。ただし、その結果として賞状という外的な報酬はもらっています。
グループ3の子供たちは、グループ1や2の子供たちは違って、賞状はもらえず、いつもと同じようにただ絵を描いただけでした。

つまり、絵を描きたいという内発的動機付けによって絵を描き、その結果、絵を描くのが楽しいという内的な報酬だけを受け取っていたと予想できます。

では、この子供たちに、もう一度絵を描く機会を与えたら、子供たちはどのような反応を見せるでしょうか?

この実験では、2週間後の自由時間に子供たちに紙とペンを与え、研究者が密かに観察していたそうです。

その結果、グループ2とグループ3は、実験前と変わらずに絵を熱心に書いていたのに対し、グループ1の子供たちは、絵に対する興味が大幅に低下したといいます。

前回、あらかじめ賞状をもらえると知らされたうえで絵を描き、実際に賞状をもらったグループ1の子供たちだけが、絵に対する興味を失ってしまったというのです。
グループ1の子供たちは、絵を描くことへの内発的動機付けを低下させてしまったのです。
一方で、同じように賞状をもらったにも関わらず、グループ2の子供たちは、絵に対する興味を失いませんでした。

グループ1の子供たちと、グループ2の子供たちの違いはなんでしょうか?

グループ1の子供たちは、絵を描く前に「賞状が欲しい」という外発的動機付けを与えられていたのに対して、グループ2の子供たちは、絵を描き始める時点では、賞状がもらえるとは知らなかったので、外発的動機付けは与えられていなかったと考えられます。

このことから考えると、「賞状が欲しい」という外発的動機を持って絵を描いた事が、絵を描くことに対する内発的動機に悪影響を与えてしまったのではないかと考えられます。

もし、外発的動機付けが内発的動機付けを妨害するということが一般的な事実であれば、これは驚くべき事実です。

現在の社会は、外的な報酬で人をコントロールしようという意図で溢れています。

多くの企業で従業員のモチベーションを上げるために導入されている成果主義は、従業員から仕事自体に楽しみを求めること(内発的動機付け)を奪っていることになります。

テストでよい点を取ったら欲しいものを買ってあげると、子供の勉強へのやる気を引き出しているつもりになっている親は、かえって子供が学ぶこと自体を楽しもうという気持ちを邪魔しているのかもしれません。

私たちが当たり前に合理的だと思い込んでいる社会のシステムが、実はまったく合理的ではないものだということになってしまいます。

【 更新情報 】

「外発的動機」が「内発的動機」を奪う

この外発的動機付けが、内発的動機付けを奪うという現象は、この事例に限った特殊な出来事なのでしょうか、それとも一般的によくある事だと言えるのでしょうか。

レッパーとグリーンは、その後子供たちの実験を何度か繰り返し、同じ結果を得た。やがて別の研究者も大人を対象にした実験で同様の結果を得た。外的な報酬――とくに、これをしたらあれがもらえる、という交換条件つきの予期された報酬―によって、第三の動機付け(内なるモチベーション)が消え去る場面を、研究者たちは繰り返し目の当たりにしたのだった。
ダニエル・ピンク著 大前研一訳 「モチベーション3.0」講談社(2010年)P.68より
どうやら、外発的動機付けが、内発的動機付けを奪うという現象は、一般的によくあることだと言えそうです。

さて。ここまで読まれればもう説明の必要はないと思いますが、この「外発的動機付けが、内発的動機付けを奪うという現象」こそが、前回の記事で紹介したゲーム好きの子供をゲーム嫌いの子供に変えてしまう方法が効果があるという根拠の1つなのです。

「根拠の1つ」と言ったのは、他の角度からも根拠を示すこともできるからなのですが、1つの記事にまとめて書こうとすると長くなりすぎるので、改めて別の記事を描きたいと思います。
前回の記事で紹介した方法では、ゲームを期日までにクリアできたら子供が欲しい新しいゲームソフトあげること、さらに、毎日のゲームの進み具合に応じてお小遣いをあげることを約束して、子供の外発的動機を刺激しました。

このことによって、子供が純粋にゲームを楽しみたいという内発的動機付けを低下させてしまうことが予想できるのです。

外発的動機が、私たちの日常生活にも影響を与える影響

ここまで、外発的動機付け(あれが欲しいから、これをします)が、内発的動機付け(楽しいからやるんです)を妨害するということについて説明してきました。

このことは、私たちの日常生活にどのような影響を与えるのでしょうか?

現在の社会の多くのシステムが、人間は外発的動機を刺激することでコントロールできることを前提に設計されていますし、多くの人がそのことを当然のことのように受け入れています。

一番わかりやすい例でいえば、少なくとも現在の日本の社会では、仕事はお金や社会的ステータスなどの外的な報酬の為にするものだと一般的に認識されていますし、社会もその認識を前提に設計されているように見えます。

その結果何が起こるかは、もうお分かりだと思います。

お金や社会的ステータスなどを求めて、外発的動機付けの為に働けば、仕事自体を楽しむために必要な内発的動機付けが抑えつけられてしまいます。「趣味を仕事にすると、その趣味が嫌いになる」というようなことを耳にすることがありますが、その大きな理由の一つは、趣味を仕事にした途端、外発的動機が顔を出してくるからでしょう。

全員とは言わないまでも、仕事をしている人の多くが「やりたくないけど仕方なく働いている」と感じていることと無関係だとは思えません。

もっと極端な言い方をすれば、外発的動機付けが、現在の大人たちの多くが起きている時間のほとんどを費やしている仕事から楽しみを奪っているという側面もあるといえるのです。

実験結果が導き出す、1つの希望

私たちは、あまりにも「やりたくないけど仕方なく働いている」状態に慣れすぎてしまっているので、そのことにあまり違和感を感じず、むしろ当然だとすら思っていまいがちです。

しかし、私たちは、起きている時間の多くを「やりたくないことを仕方なくする」ために使うような状態を続けていて、本当にいいのでしょうか?

こんなことを言うと、「そんなこと言ったって、仕事をしなきゃ生活出来ないんだから仕方ないじゃないか」と言われそうです。

しかし、そんなことはありません。

実は、上で紹介した調査結果は、1つの希望を示してくれています。

それは、絵を描くことに対する興味を失ったのは、あらかじめ絵を書けば報酬をもらえると知らされていたグループだけであって、報酬を貰えると知らずに絵を描いた子供たちは、たとえ報酬を貰ったとしても、絵を描くことへの興味を失わなかったということです。

絵を描く楽しみを奪ったのは、報酬への期待(外発的動機)なのであって、結果的に報酬をもらったこと自体が絵を描く楽しみを奪ったわけではないのです。

「内発的動機付け」と「外発的動機付け」 小さな違いが、人生を変える

これは、大きな希望を示してくれています。

私たちが、「お金や地位・肩書などの社会的ステータスの為に仕事をする」という外発的動機を軸とした発想から、「楽しいと感じることを仕事にした結果、お金や社会的に認められるという外的な報酬がついてくる」という内発的動機を軸とした発想へと至ることができれば、もはや「やりたくないけど仕方なく働く」という状態から抜け出すことが出来るのです。

この時、お金(外的報酬)をとるか、楽しさ(内的報酬)をとるかという、2つの動機付けの対立からくる葛藤はなくなり、楽しさ(内的な満足)もお金(外的な満足)も同時に満たすことが出来るのです。

外的報酬(お金や地位・肩書など)から始めるのか?それとも、内的報酬(純粋に楽しむこと)から始めるのか?

このほんの小さな違いが、人生を根底から大きく変えてしまいます。


外的報酬(お金や地位・肩書など)を最初に求めれば、さらにお金や地位・肩書を得るためには、それまで以上に努力して「やりたくもない仕事」をしなければなりません。

かといって、ただ純粋に楽しむこと(内的報酬)を求めて「やりたくもない仕事」をやめてしまえば、お金や地位・肩書を失ってしまうという二者択一の道の道が待っています。

どちらかを求めれば、もう一方が犠牲になるという、内発的動機と外発的動機が対立する世界です。


逆に、最初に内的報酬(ただ純粋に楽しむこと)を求めて、その結果として外的報酬(お金や地位・肩書など)がついてくる道を選べば、さらに楽しむことは、さらなる外的な報酬に繋がります。

楽しむほどに豊かになるという、内的な欲求と外的な欲求のどちらも犠牲にする必要がない、調和のとれた世界です。


外的な満足を先に求めるのか?内的な満足を先に求めるのか?
この小さな違いが住む世界を変えてしまう程の違いを生む影響力を持っているのです。

そして、これは仕事に限った話ではありません。

例えば、趣味であっても「勝ちたい」、「認められたい」という思いから始めるのと、「楽しいから」という思いから始めるのでは、後に大きな違いを生むことになるでしょう。

もちろん、「楽しさを求めた結果、お金がついてくるのなんて、そんな幸運は滅多にあるもんじゃない」とか「そんなことが出来るのはスポーツ選手や芸術家、科学者などの一部の職業だけだ」などと一般的に思われているだろうということは私も認識しています。

現在の社会システムは、外発的動機付けによって人を動かすことを前提に設計されています。

ですから、内的な満足を求めた結果、外的な豊かさを得るような生き方は、現在の社会では流れに逆らうような生き方となります。

流れに逆らわなければならないのですから、そのような生き方は、社会の中で“普通の生き方”をしている限りは手に入ることはないでしょう。そして、流れに逆らって進むことは決して楽な道でもないことは確かでしょう。

「楽しさを求めた結果、お金がついてくる」なんてことを滅多にない幸運だと捉えたくなるのも仕方がないことかもしれません。

しかし、もしその意志があり、その為の方法を学ぶなら、そんな生き方を実現する事も決して夢物語ではないと、私は思っています。

これについては、また改めて別の記事に書こうと思っています。
(別の記事に書きました → 内なる情熱を生きたいと願う『あなた』へ贈る物語


そして、この記事の最後に書いておきたいのは、一見すると社会の流れに反するような内発的動機付けを軸とした生き方が、より大きな目で見れば、むしろ時代の流れ沿った生き方だということです。

【 参考記事 】
地球と人類とあなた自身のために、今あなたに出来ること

外発的動機付けによって人を動かすというシステムは、もはや上手く機能しなくなってきています。より大きな時代の流れから見れば、流れに逆らっているのは、むしろ現在の社会システムの方です。

このことについても、何回かに分けて書いていこうと思っています。

人間がつくった社会システムなど、時代とともに移り変わるものです。外発的動機により人を動かすという現在の社会システムも、今後ますます崩壊へと向かうでしょう。

現在の社会の流れに沿って生きることは、目先だけを見れば、流れに沿った賢い生き方かも知れません。しかし、そんな賢く見える生き方も、より大きな時代の流れによって、社会の仕組みの流れの方向が変わってしまえば、逆風にさらされることになります。

外的な見返りの為ではなく、自分の内なる求めに応じて働くこと。

そんな、一見すると社会の流れに反するような生き方ですが、より大きな時代の流れから見れば、追い風によって応援されているのです。
warakunomichi