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“無秩序交差点”を立て直せ!―秩序を生むのは「外からの強制」か?「内なる優しさ」か?

突然ですが、問題です。


【 問題 】
交差点を思い浮かべてみてください。

まったく秩序のない、混沌とした交差点です。

その交差点には、信号機もなければ、横断歩道もありません。もちろん、歩道橋もなければ、ロータリーになっているわけでもありません。

道を渡りたがっている歩行者が居ても、車は、歩行者のことなどお構いなしで、猛スピードで走り抜けています。

歩行者は歩行者で、わざと飛び出すそぶりを見せたり、道路にゴミを投げ込んだりして、車を止めようとしています。

車同士の場合でも、どの方向から来る車も、我先に交差点に進入しようとしています。

そこらじゅうから、急ブレーキの音や、クラクションが鳴り響く音が聞こえてきます。

まさに、「無秩序」と呼ぶに相応しい状態です。

では、この“無秩序状態”に、秩序をもたらすためには、いったいどうすればいいのでしょうか?

もし、あなたがその世界の神様のような存在だったとしたら、どのようにして、この交差点に秩序をもたらすでしょうか?


いかがでしょうか?ちょっと、考えてみてください。

どんな交差点なら「秩序がある」と言えるのか?(秩序の定義)

「無秩序な交差点に、秩序をもたらすためにはどうすればいいの……?」

一見すると、とても簡単な、子供でもすぐ答えられそうな問題に感じられたかもしれません。

しかし、よくよく考えてみると、案外難しいことがわかってくるはずです。

ですが、まずは、その説明に入る前に、ひとつだけ前置きをさせてください。

当たり前のことをダラダラと書いているだけの退屈な前置きに見えるかもしれませんが、後々、この記事のポイントになる部分ですので、少し辛抱してお付き合いください。


その前置きというのは、「秩序ある状態」というのが、どういう状態なのかをあらかじめ決めておきたいということでです。

「秩序ある状態」を定義しておくということですね。

まずは、辞書で秩序の意味を調べてみましょう。


  1. 物事を行う場合の正しい順序・筋道。「―を立てて考える」
  2. その社会・集団などが、望ましい状態を保つための順序やきまり。「学校の―を乱す」

辞書の意味には、「望ましい状態を保つための順序やきまり 」という言葉がありました。

交差点について、この「望ましい状態」を考えると、だいたい次のような感じになるでしょうか。


人や車が、事故を起こすことなく、効率的でスムーズに通行できている状態。

そのような状態を保てるように、規則正しく人や車が通り抜けられている交差点が、「秩序ある交差点」と呼ぶにふさわしいでしょう。


と、ここまでは説明するまでもない、当たり前の話です。

大切なのは、ここからです。

考えてみて頂きたいのですが、私たちは、いったいなぜ、交差点が秩序ある状態の方が望ましいと感じるのでしょうか?

「なぜって、事故に遭うのも嫌ですし、かといって、長々と待たされるのも嫌ですから。やっぱり、交差点に秩序があって、安全にスムーズに通り抜けられるといいですね。」

普通に考えれば、だいたい、こんな感じでしょう。


ところで、この「事故に遭いたくない」というのは、あえて言い換えるなら、「安心して」通り抜けたいと言うこともできます。

「待たされるのが嫌」や「スムーズに」も、「イライラさせられることなく。できれば心地よく。」と言い換えることもできます。

つまり、私たちが秩序を求める背景には、「安心したい」とか、「心地よく居たい」というような望みがあるわけです。

ですから、この記事で考える「秩序ある状態」も、この目的を反映したものにしておきましょう。


秩序がある交差点の定義
人や車が、安心しながら心地よく、事故に巻き込まれることなく効率的でスムーズに、規則正しく通行できている状態。

人や車が、規則正しく整然と通り抜けていく交差点。事故やトラブルも、滅多なことでは起こらない交差点。

目に見える現象面だけに注目すれば、これらの条件が満たせれば、交差点の秩序を守れるようにように思えます。

しかし、もう少し深く考えると、秩序の背景には「安心」や「心地よさ」などの要素があるのだから、これらの要素も秩序の必要条件に含めてしまおうというわけです。


さあ。こんな前置きが、いったい何の役に立つのでしょうか?

ハッキリ言って、この段階では、私が何を言いたいのかよくわからないかもしれませんが、それは読み進めるうちに自然にお分かり頂けると思います。

まずは、なにはともあれ、問題の答えを考えてみてください。

あなたが、その世界の神様のような存在だったとしたら、いったいどのようにして、秩序の乱れきった交差点に秩序をもたらすでしょうか?

2つのアプローチ ― 外面的アプローチと内面的アプローチ

答えは出ましたか?

あなたの答えは、どんなものだったでしょうか?


まず思いつく答えとして、もしかしたら、交通ルールを整備するという答えを思い浮かべられたかもしれません。

たしかに、この「ルールを整備する」というのは、一番初めに思いつきそうな考えですし、私たちの世界の交差点もルールによって秩序が守られているように感じられます。

これは、ルールをつくり、交差点を使う人たちに外面からアプローチしていく方法ですね。


あるいは、神の力を使って、人々の心に「思いやり」や「譲り合いの精神」を埋め込むというのはどうでしょう?

皆が「思いやり」や「譲り合いの精神」を持てば、たしかに、交差点の無秩序状態も改善に向かうように思えます。

ルールが、その人の外側から行動を強制するものなのに対して、こちらでは、その人の内面にある「思いやりの心」にアプローチしています。


「北風と太陽」の童話では、外から強制する北風よりも、心を動かす太陽の方が効果的だということになりましたが、この場合はいったいどうなるのでしょうか……?

先に結論を書いてしまいますが、私は、あえて、「“ルール”(外面的アプローチ)も、“思いやり”(内面的アプローチ)も、それだけでは、秩序をもたらすことは出来ない」と言いたいと思います。

もちろん、この手の問題に、絶対的な正解というものはあり得ないでしょう。

しかし、「ルールを強化するだけ」、「思いやりの心を持つだけ」では秩序をもたらすことが出来ないのは、ほぼ間違いないのではないかと思います。

それは、いったいなぜなのでしょうか?

少しずつ考えていきましょう。

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ルールから、秩序は生まれるのか?

まずは、ルールをつくることによって秩序をつくりだそうという考えについてです。

これは、「車は左側通行」「歩行者は右側通行」「歩行者優先」「左折優先」などの決まりをつくることで、交差点に秩序をもたらそうという考え方ですね。

信号機や横断歩道も用意して、「赤は止まれ」などのルールを決めるのもいいでしょう。

しかし、ルールを整備しただけでは、交差点には秩序は訪れません

例えば、せっかくルールがつくられても、それが守られなければ意味がありません

これは説明するまでもありませんね。

どんなに立派なルールができたとしても、そのルールを守る人がいなければ、そんなルールは存在しないも同然です。

では、せっかくつくったルールが無視されないようにするためには、いったい、どうすればいいのでしょうか?

例えば、ルールを守らせるために、強制力を用意するというのはどうでしょう?

簡単に言えば、ルールを破った人には罰を与えるということです。

この方法に、それなり以上の効果があることは、私たちもよく知っている通りです。

例えば、私たちの世界でも、パトカーの目の前で盛大にスピード違反をする車は、まずいませんね?

ルール違反の罰を受けることになるのが目に見えているからです。

しかし一方で、監視の目がないところでは、平気な顔でスピード違反をする人がいるのもまた事実です。

他にも、ルールの「抜け穴」を目ざとく見つけて、ルールを明確に破ることなく、秩序を乱す人も現れるかもしれません。

さらには、その気になりさえすれば、「ルールを守ること」自体を悪用することだってできてしまいます。

例えば、「遵法闘争」という言葉をご存知でしょうか?

その昔、ストライキ権が認められていなかった国鉄が、労働争議のために使用した戦術です。

Wikipediaから引用してみましょう。

例えば列車前方の線路上に鳥がいた場合、ほぼ必ず鳥は逃げるため通常はそのまま走行しても全く問題がない。ところが順法闘争では「線路上に障害物を発見したから」等という理由で列車を停止させるなどし、ダイヤを乱す行為が平然と行われた。列車過密輸送により規程を守っていると列車が遅れてしまうというように違反が常態化している場合もあったが、規程で定められた上限よりも極端に速度を落としたり危険を感じたと称して停止したりすることもあった。


なるほど、「過剰にルールを守ること」で乗客に迷惑をかけ、それを経営層に対するプレッシャーにしようという戦術ですね。

その結果、いったい何が起きたのでしょうか?


1970年代にはこの順法闘争が頻発した。通勤電車におけるダイヤの乱れと混雑が助長、恒常化したために利用者の不満は大きく、埼玉県の上尾駅を中心とする乗客による暴動(上尾事件)や、首都圏の複数の駅における同時多発的な暴動(首都圏国電暴動)に発展する場合もあった。


なんと、「過剰にルールを守る」という行為が、この平和な日本で、同時多発的に暴動が起こるほど事態につながったというのです。


つまり、悪意さえあれば、「ルールを守ること」で、意図的に迷惑をかける(秩序を乱す)こともできるということです。

それも、「おとなしい日本人」が暴動が起こるほどの、特大の迷惑です。

もちろんこれは、鉄道での出来事ですが、その気になれば、バスやタクシーだって同じことができるはずです。

それどころか、バスがノロノロ運転をすれば、一般の車まで進めなくなってしまいますので、その悪影響は鉄道以上かもしれません。


これらのことから考えると、単純にルールを決めて、そのルールを守らせるための強制力を用意する「だけ」では、秩序を守ることは難しそうに思えます。





もちろん、「それならば!」と、さらに細かいルールをつくり、それこそ箸の上げ下ろしまで見張る勢いで監視をすることで秩序を守ろうという方向性も考えられないことはありません。

しかし、細かいルールをつくるといっても限度というものがあります。

ルールを増やしたり、監視を強化したりすれば、それにともなって、必要なコストも莫大なものになっていきます。

【 参考記事 】

例えば、新しいルールをつくったり、つくったルールを時代や情勢に合わせて軌道修正したり、ルール違反を見張ったり、ルール違反の疑いが本当にルール違反なのか判断したり、ルール違反を犯した人に罰を与えたりするのに必要なコストのことです。

そのコストは、ルールを細かくすれば細かくするほど、監視を強化すれば強化するほどに、莫大になっていきます。

しかし、それだけ莫大なコストをかけたとしても、悪意を持った人がいる限り、ルールの抜け穴を利用する人や、「遵法闘争」のようにルールを利用して秩序を破壊しようとする人とのイタチゴッコは続くことでしょう。

そして何よりも、ルールや強制力で縛りつけることで生まれる秩序は、ギスギスした秩序になってしまいます。


【 参考記事 】


というよりも、ルールや監視の強化で、人々をがんじがらめに縛りつけた結果生まれる秩序は、本当に秩序と呼ぶにふさわしいものなのでしょうか?

そんな風にして、表面的な行動や振る舞いだけを、秩序的なものに見せかけることが、本当の秩序と呼べるのでしょうか?

思い出して下さい。

「秩序ある交差点」とは、「安心して、心地よく」通り抜けられる交差点のことでした。

もし、ちょっとした交差点の渡り方の“お作法”まで細かく監視され、少しでも間違いがあったら、厳しく追及され、罰金を取られたり、逮捕されたりしたらどうでしょう?

誰も、そんな交差点を、安心して渡ることなどできなくなってしまうでしょう。

そうです。この記事のはじめに書いた、「秩序ある交差点の状態」の定義から外れてしまうのです。


きっと、やっている本人たちも好きでやっているわけではないでしょうから、例に使うのは申し訳ない気もするのですが、北朝鮮のマスゲームのようなイメージが近いかもしれません。

何百、何千という人たちが、一糸乱れぬ完璧な秩序で演技をしているけれど、見ていて、どこか落ち着かない。

画面に映し出される満面の笑みが、どうしても不気味に感じられてしまう。

際限のない「ルール」や「強制」の行きつく先は、北朝鮮のマスゲームのような、「完璧な秩序」になってしまうでしょう。

それは、文字通り演技であって、演出された秩序に過ぎません


私は、このような演出された秩序のことを“取り繕った和”と呼んで、本当の意味での“和”(秩序)とは区別して考えています。

本当の意味での秩序(“和”)は、もっと内側から滲みだしてくるものだと思うからです。

外から強制して、無理やり秩序的に振る舞わせるのではなく、一人ひとりの内側から滲みだしてくるものだと思うのです。

「思いやり」や「譲り合い」は、秩序を生み出せるのか?

では、外からの強制では秩序は生まれず、内側から滲みだすものが必要なのだろすれば、例えば、皆が「思いやりの心」を持てば、秩序が生まれるのでしょうか?

そうであればいいのですが、残念ながら、必ずしもそうとは言えません

同じように、交差点を例に考えてみましょう。

先ほどの、無秩序極まりない交差点を思い出してください。

その無秩序は、皆の「自分勝手な振る舞い」によってつくりだされていたわけです。

しかし、ある時突然、みんなの心が一瞬で変わってしまったと想像してみてください。

誰もが、互いに対しての「思いやりの心」や「譲り合いの心」に目覚め出したのです。

その時、この交差点には秩序がもたらされ、スムーズな交通が実現しているでしょうか?
私には、ちょっと、そうだとは思えません。

例えば、交差点に進入しようとした車が、お互いに「お先にどうぞ!」と譲り合いの精神を発揮したらどうでしょう?

交通量が少なければ、「お先にどうぞ!」「ありがとう!」と、スムーズに流れるかもしれません。





しかし、交通量が増えてくるとどうでしょう?

すべての道から進入してきた車が、一斉に譲り合いの精神を発揮して車を止めた結果、誰も交差点に進入できなくなってしまうようなことがあるかもしれません。

動き出すタイミングを失った車たちは、皆、停車しながら「お先にどうぞ」と譲り合っています。

そして、見る見るうちに増えていった自分の後ろで交差点待ちをしている車を見て、「いかん、いかん。このままじゃ交差点がマヒしてしまう」と焦って飛び出した車同士が衝突事故を起こしてしまうかもしれません。





お互いに善意でとった行動が、裏目に出てしまうことがあるのですね。

まあ、事故にまで発展してしまうことは少ないにしても、しっかりと信号が設置され、信号のルールも守られている交差点に比べれば、1時間当たりにさばける車の量は、遥かに少なくなってしまうでしょう。

それに、必ずしも起きるというわけではなくても、少なくとも、事故が起こる可能性は高まると思えます。

ということは、どうでしょう?

「人を思いやる心」も、「譲り合いの精神」も、「優しさ」も、それだけでは秩序を生み出すことはできないのです。

「外からの強制」に頼りすぎる罠。「内なる思いやり」に頼りすぎる罠。

「外からの強制」だけでも、「内側からあふれる優しさや思いやり」だけでも、本当の意味での秩序は生まれない――。
長々と書いてはきましたが、考えてみれば当たり前のことです。

当たり前のことではあるのですが、気を抜いていると、私たちは、ついつい、これらの罠にかかってしまいがちです。

「外からの強制」ばかりに頼りすぎてしまったり、「内側からの優しさや思いやり」に頼りすぎてしまうという罠です。


例えば、私たちの社会では、何か問題が起こると、すぐに「ルールや罰則の強化」という話がまず出てきます。

それは社会全体にかかわるような出来事はもちろんのこと、家庭の中でも起こっています。

例えば、子供のテストの結果が悪かった時であれば、「学校から帰ったら、毎日○時間勉強すること。勉強が終わるまでは○○禁止!」、「テストで○点以上取れたら、おこずかい○円!」、といった具合ですね。

(ちなみに、この方法は子供を勉強嫌いにしてしまう可能性があるので注意してください。参考記事 ▶ ゲームが大好きな子供でさえ、あっという間にゲーム嫌いに変えてしまう驚くべき方法


あるいは学校でも、クラスで何か問題が起これば、「仲良しなクラス」を取り繕うために、外からの強制が行われることがあるでしょう。

「みんな仲良く」のようなスローガンがつくられ、先生は、子供たちに「仲良さげな行動」をとらせようと躍起になるのです。

例えば、少し前に、組み体操が危険だということで問題になったことがありましたが、一方では、「団結力を養うのに効果的」というような意見もあったと思います。

もちろん、組み体操をやりたいと感じている生徒が、十分に安全を配慮したうえで、組み体操に情熱を燃やすことには何の問題もありません。

しかし、そういう場面では、組み体操になど興味がない生徒を「クラスの和を乱す悪者」に仕立て上げ、上からの強制力と、周囲からのプレッシャーで、無理やり「情熱を持って取り組んでいるフリ」をさせるようなことが、よくあります。

これが、本当の意味での団結(全体の“和”)と呼べるでしょうか?
程度の差こそあれ、私には、こういうやり方の本質の部分に、北朝鮮のマスゲームと同じ匂いが感じられてしまいます。

外からの力(先生からの強制や、先生に従順な生徒や組み体操に積極的な生徒からのプレッシャー)で、表面的な秩序(皆で、組体操という1つの目標に向けて団結している姿)を装うやり方に対してです。

学校生活中の中では、こういうやり方を、手を変え品を変え、何度も何度も繰り返し体験するわけですから、そういう環境で育った子供が大人になるころには、条件反射的に「何か問題が起こったら、外からの力で強制することで秩序を守るのが当然」と考えるようになるのも、ある意味では仕方がないことなのかもしれません。

そう。私たちは、何気ない日常生活の中で、思った以上に頻繁に、「秩序を守ろうとして“和を取り繕って”しまう」という罠にはまってしまっているのです。

“和を取り繕う”ことで、新たな“不和の種”を撒いていることにも気付かずに……。(詳しくは、参考記事をご覧ください。)

【 参考記事 】


そうかと思えば、こんな事例もあるでしょう。

例えば、これまで、長いこと、細々と続いてきた仕事があったとします。

その仕事の現場には、3人のスタッフが居たのですが、特に仕事の割り振りや進め方などについてルールや決まりがあるわけではなく、各自がそれぞれ、自分が思うように仕事を進めていました。

とは言っても、決して、3人の仲が悪かったというわけではなく、むしろ、互いに思いやりもあり、仲は良かったと言った方が正確な状況です。

各自が個人プレーで仕事を進めていたのは、これまで、それで問題が起こらなかったからというだけのことです。

細々と仕事を続けている間は、それで、なんの問題もありませんでした。

しかし……。

ある雑誌で紹介されたのをきっかけに、急に仕事が激増して、現場が大忙しになると状況が変わって来ます。

あまりの仕事量に、これまで通りのやり方では仕事が回せなくなってしまったのです。

そこで、3人で対策を話し合うことにしたのですが、いざ話し合いを始めてみると、なかなか話がかみ合いません。

これまでの仕事のやり方が3人ともバラバラで、お互いがどのように仕事をしていたのかがわからないので、相手が何を言っているのかが理解できないのです。

それでも粘り強く話し合いを続けた結果、「人を増やすしかない」という結論になり、応援の人に来てもうことになりました。

しかしそこで、また次なる混乱が起こります。

AさんとBさんとCさんでは、同じ仕事についてまったく別のやり方をするように指示をするので、応援の人も混乱してしまって、仕事にならなくなってしまったのです……。





この職場では、思いやりもあり、仲も良い3人が働いていたのですが、仕事が増えたのがきっかけとなり、職場の秩序が崩れて、大混乱になってしまったのです。

程度の差はあるにしても、多くの職場で、似たような話を見聞きしますので、もしかしたらあなたも、こんな経験をされたことがあるかもしれません。


ところで、もし、この職場に「この作業は、こういう風に進める」というような、共通のルールがあったとしたらどうでしょう?

そうであれば、混乱はもっと小さくて済んだかもしれません。

なぜならば、お互いの作業がイメージできるので、話し合いもスムーズに進んだでしょうし、仕事のやり方が決まっていれば、応援に来てくれた人も、もっと早く戦力になれたはずだからです。

そうです。

内側からにじみ出る「思いやり」や「優しさ」だけに頼っていたのでは、職場の秩序を守ることはできなかったのです。


あるいは、多くの人が善意から被災地に送った支援物資が、現地で適切に仕分けて、必要な場所に届けるための「ルール」や「決まり」が整備されていないばかりに、倉庫に山積みになっているだけで無駄になってしまうということもあるでしょう。

これも、「思いやり」や「優しさ」だけでは、秩序が生まれないことの実例です。


このように考えると、私たちは、思った以上に日常的に、「罠」にかかってしまっていることがわかります。

「外からの強制」ばかりに頼りすぎてしまったり、「内側からの優しさや思いやり」に頼りすぎてしまうという罠です。

では、“本当の意味での秩序”をつくりだすためには、いったいどうすればいいのでしょうか?

それについては、また、別の記事を書きたいと思っています。

(とても1つの記事に書ききれる内容ではないので、それに関連する記事を、いくつも書くことになると思います。)

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