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【和楽的回答編】和と我―大切なのはどっち?天使と悪魔の分かれ道

この記事は、

【問題編】和と我―大切なのはどっち?天使と悪魔のささやきを見破れ!

に対する【和楽的回答編】として書かれた記事です。


【問題編】を読まずにこの記事にたどりついてしまった場合には、是非、【問題編】からお読みいただくことをお勧めします。

天使と悪魔の言葉

では、前置きはこのくらいにして、本題の【和楽的回答編】に入っていきましょう。

和を大切にしなさい。和を乱さず、平和が大切ですよ。

我を大切にしなさい。自分を満たすことが大切ですよ。

この二つの言葉のうち、どちらが天使の言葉でどちらが悪魔の言葉なのか?

それが、【問題編】でした。

その問題に回答するためのポイントだと私が思っているのが、このサイトの名前でもある“和楽”です。


いったい、この“和楽”という言葉にどのような意味があるのでしょうか?

詳しく考えていきましょう。

“和”を成り立たせるもの

例えば、“和”に満たされた集団を思い浮かべてみてください。

家族でも、友人でも、なにかのプロジェクトチームでも、人の集まりであれば何でも構いません。

その集団は、対立や軋轢、ギクシャクした不調和な雰囲気がなく、平和で和やかな“和”の雰囲気につつまれています。
想像することはできましたか?

では次に、彼ら、彼女らの表情を観察してみましょう。

彼らは、楽しそうにしていますか?それとも、退屈そうにしていますか?

悲しみ、不安、喜び、くつろぎ、集中……。

彼女たちの表情を説明するのに、どんな言葉が適切でしょうか……?

どうでしょうか?想像することはできましたか?



私が思い浮かべるのは、“楽”に満たされた、彼ら、彼女らです。



それは、文字通り楽しさを感じている笑顔として表現されるかもしれませんし、楽(らく)にリラックスした表情、楽しさに没頭した集中の表情として表現されるかもしれません。
いったい、この“楽”には、“和”の形成にどのような役割を果たしているのでしょうか?
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“楽”のない世界

それは、逆のパターンを考えてみればすぐにわかります。

例えば、楽しさのかわりに“退屈”や“無気力”を、

楽(らく)な感覚のかわりに“緊張”や“苦痛”、“息苦しさ”を、

楽しさに没頭し集中するかわりに“ハリのなさ”や“無力感”、“空虚さ”、“集中を乱す雑音”を。

そんな、“楽”とは程遠い感覚の中で生きていたとしましょう。

そんなとき、あなたなら、周囲の人と“和”を築くことができますか?
普段なら気にならない些細なことにイライラしてしまったりしませんか?
私には、そんな経験は何度もあります。

それがもう少しエスカレートするとどうでしょう?

例えば、楽しそうにしている人を目にしたとしましょう。

そんなとき、「オレはこんなに頑張っているのに」、「私はこんなに自分を犠牲にしているのに」という気持ちが浮かんでくるかもしれません……。

そんな気持ちで人に接すれば、隠しているつもりでも、どこか関係がギクシャクしてしまうものです。
さらに、人によってはその気持ちを隠すこともなく、自分が満たされていないことの腹いせに、人の“楽”を奪おうとさえするかもしれません。

例えばそれは、部下や後輩に、必要以上に細かいことをグチグチ言うことや、異性を自分の思い通りにしようとすることとして現われるかもしれません。

子どもであれば、それが「いじめ」という形であらわれるかもしれません。

そして、子供が持っているこの心理は、当然、大人にも内在されていると考えるのが自然でしょう。

もちろん、大人になるほど理性での抑圧や、理屈での正当化、打算による猫かぶりなどが上手くなるので、表立った「いじめ」はあまり見られなくなります。

しかし、そうやって表面的な“和”を装ったとしても、心の奥に渦巻くイライラは解消するどころか、積み重なるばかりです。

実際、大人の世界には、正当な権利の行使や正義の主張に見せかけた、事実上の「いじめ」があちこちに存在することは、誰も否定が出来ないのではないかと思います。

大人の「いじめ」がさらに厄介なのは、その当事者さえも正しいことをしている、されていると思い込んでいることが少なくないことです。


そして、さらに悪いことに、社会的地位が高く、組織の指導的立場にいる人がこの状態になってしまったとしたらどうでしょう?

そんなとき、彼(彼女)が率いる企業なり、社会団体なり、国なりの組織は、どんどん“和”の雰囲気から遠ざかっていくことでしょう。

例えば、自分が満たされないイライラの代償として支配欲を内部に向ければ、その集団には抑圧と、抑圧に対する反抗が渦巻き、目に見える争いや、目に見えない争いの火種がくすぶる、対立だらけの集まりになってしまうかもしれません。

そしてそんな集団が、今度はそのイライラを外に向けたとしたらどうでしょう?

そんなとき、今度は組織同士の争いの種が蒔かれることになるでしょう。

それが国と国であれば、戦争という究極の不和が起こることもあるでしょう。

“楽”を失った人々が“和”のある関係を築くのは、至難の業だと言わざるを得ないのです。

“楽”に満たされた人々

しかし、このことを逆に考えれば、“楽”に満たされた人々は、自然と“和”のある関係を築くことができると言うこともできるのではないでしょうか?

だって、考えてみてください。

既に、楽しくて、楽(らく)な毎日を送っている人が、わざわざ誰かから何かを奪おうと争いを始めたり、足の引っ張り合いや、支配、抑圧をしたりするでしょうか?

例えば、自分の“楽”に没頭している子供を思い浮かべてください。

その子に、「あの子をいじめてきなさい」と命令したとしたらどうでしょう?

その子はきっと、たとえ命令されたとしても、「いじめ」などには手を染めないことでしょう。

もし、「いじめ」を行ったとしても、それは命令に背いた罰を恐れて、しぶしぶ「いじめ」を行ったに過ぎないでしょう。

なぜならば、誰だって「いじめ」よりも楽しいことがあるにもかかわらず、わざわざいじめなどには手を染めたくはありません。
「いじめ」なんてやっている暇があるなら、もっと楽しいことをやりたい!

そう思うのではないでしょうか。

イライラしてるから、人をいじめたくなるのです。

“楽”に満たされていれば、つまらないことに腹を立てたりはしなくなるものです。


それどころか、もし本当に自分が満たされていれば、人を助けようという気持ちすら芽生えるのではないでしょうか?
しかし、逆に自分が満たされないときには、人を助ける余裕などなくなってしまいます。

そうです。

“楽”には、自然と“和”が成り立つのを助ける作用があるのです。

もし、“楽”を生きているように見える人が、満たされない欲望をむさぼるように、誰かを抑圧したり争いばかり起こしているとしたら、それは手に入れても満たされることのない見せかけだけの“楽”を手に入れたに過ぎないでしょう。

“楽”を成り立たせるもの

“和”のある関係を築くためには、“楽”が大切であることはわかりました。

では次に、その“楽”の実現のためには何が必要なのか考えてみましょう。

今度は、“楽”に満たされた人々をイメージしてみてください。

穏やかな楽しさや、没頭するようような楽しさ、リラックスした楽な感覚……。

そんな感覚に満たされた彼ら、彼女たちは、どんな環境に生きているでしょうか?


――どうでしょう?思い浮かべることは出来ましたか?



私が思い浮かべるのは、“和”に包まれた、彼ら、彼女らです。



“楽”のためには“和”が必要だと言っていたかと思えば、今度は“和”のためには“楽”が必要だという話になってきてしまいました。

いったい、どういうことなのでしょうか?

“和”のない世界

このことも、逆パターンを考えてみれば、すぐにわかります。

例えば、誰かから奪うことばかり考えている人や、人に勝つことだけに夢中な人、自分の価値を証明するために人を小バカにしたような態度をとる人、自分の都合のためなら人がどうなっても意に介さない人……。

そんな人だらけの、不和が蔓延した集団を想像してみてください。

もしあなたが、そんな集団に放り込まれたらどうでしょう?

そこでは、あなたが心から楽しそうにしている姿など見せようものなら、すぐにあなたの足を引っ張ろうとする人が現れることでしょう。

あなたが信頼関係を築こうと努力しても、相手はあなたを利用することしか考えていないかもしれません。

誰もが、自分が貧乏くじをつかまされないようにと、あなたにそれを押し付けようとしています。

自分の満足のためだけに、あなたのことを都合よくコントロールしようと考える人も出てくるでしょう。

それは、直接的にあなたの自由を奪い、何かを強制するという形で現れるかもしれません。

あるいはもっと巧妙に、あなたが自発的にそうしたいと感じているかのように思いこませながらも、間接的にコントロールしてくるかもしれません。

依存すること、させることで人を支配しようとする人も出てくることでしょう。

もちろん、彼ら彼女らにとって、あなたの“楽”などというものは二の次、三の次です。自分の都合のためならば、そんなものは眼中には入りません。


さて。そんな環境であなたは、“楽”に満たされながら生きることができるでしょうか?
おそらく、それは簡単なことではないでしょう。

あなたは、周囲のプレッシャーを感じて、必要以上に「私も大変な毎日を送っているのだ」という風に装いたくなるかもしれません。

油断していれば“負け組”になるという不安や恐れ、貧乏くじを掴ませられるのではないかという疑心暗鬼の中で、あなた本来の“楽”などに目を向けている余裕など、まったくなくなってしまうかもしれません。

自分が少しでも“勝ち組”になることに必死になるあまり、争い、勝ち抜くことこそが一番の“楽”なのだと思い込んでしまうこともあるでしょう。

「これが“楽”だ」と主張する誰かの言葉に乗せられて、手に入れても決して満たされることのない、見せかけの“楽”の虜になってしまうこともあるでしょう。

典型的な例をあげるとすれば、お金儲けだけしか見えなくなってしまった人や企業が、商品を買わせるために、あなたを見せかけの“楽”の虜にしようと、あの手この手を使ってくることがあるかもしれません。

それが、本当にあなたの為になるかどうかは問題ではありません。

その商品さえ手に入れれば“楽”が手に入ると、あなたに思い込ませることだけが彼(彼女)らの目的なのです。

このような活動を、もう少し耳触りのよい言葉にすると「広告宣伝活動」となります。

もちろん、現実の世界のすべての広告宣伝活動がそうだと言いたいわけではありません。誠実な人や企業も少なくないでしょう。

しかし、相手に与える影響、ましてや第三者・社会に与える影響などにはまったく興味がなく、自分のことしか考えられない人だらけの不和が蔓延する社会では、そんな不誠実な「広告宣伝活動」が横行することでしょう。


さらに悪いことに、その洗脳的とも言える価値観の強制は、「広告宣伝活動」だけでなく、「教育」や「娯楽」などと呼び名を変えながら行われることでしょう。


しかし、そうやって押し付けられた価値観による幻想の“楽”を手に入れたとしても、あなたは満たされず、その幻想をつくりあげた誰かが利を得るばかりです。

もっと言ってしまえば、自分の利だけのために幻想をつくりあげたその誰かさえも、利は得ても“楽”は得ることができません

その満たされない心は、いくら手に入れても満たされない利に囚われ、さらなる負のスパイラルが巻き起こされるのです。

もうこれ以上の説明は、不要でしょう。

“和”が乱れ切った環境で“楽”を生きることは、至難の業だと言えるのです。

“和”につつまれた人々

逆に言えば、“和”のある関係は、だれもが自然に“楽”を生きることを助けてくれるでしょう。

想像してみてください。

信頼や助け合いの心で結ばれた集団に、苦しんでいる人がいたとしたらどうでしょう?

そんな集団であれば、きっと、その人が“楽”へ向かうのを助けようという人が現れるのではないでしょうか。

“和”のある関係は、自然と“楽”が成り立つのを助けるのです。
もしその集団が、臭いものに蓋をするように、苦しんでいる人など存在しないかのように振舞っているとしたら、それは表面的に“和”を取り繕っているだけに過ぎないのです。

“和”が“楽”を助け、“楽”が“和”を助ける。しかし――。

“楽”が“和”の成立を助け、“和”が“楽”の成立を助ける。

和と楽の間には、どうやら、そんな関係が隠されているようです。

これが、別の記事で「和をもって楽となし、楽をもって和となす」と書いたことの具体的な例でもあります。

しかし注意しなければいけないのは、それはあくまでも本当の“和”や、本当の“楽”の話だということです。

表面的に取り繕った“和”は真の“楽”を奪い、見せかけだけの“楽”は真の“和”を奪うことになりかねません。


例えば、表面的に“和”を取り繕っている場面を想像してみてください。

そんなとき私たちは、「集団の“和”のためには個人の“楽”を抑圧し封印することも致し方なし」とすることが少なくありません。

しかし、そうやって“楽”を奪われた人は何を思うでしょう?

抑圧され、コントロールされ、都合よく扱われる側から、抑圧し、コントロールし、都合よく扱う側になりたい。

勝ちたい、優位に立ちたい、思い通りにしたい、復讐したい。

彼ら、彼女らは、そうやって、たとえ手に入れても満たされることのない、見せかけだけの“楽”に心奪われるかもしれません。

そうして、“楽”から遠ざかりイライラした心や、見せかけの“楽”を奪い合う心が、今はまだ表面化していない不和の種を、つぎつぎと撒き散らすのです……。


表面的に“和”を取り繕っても、それはありのままの“楽”を見失わせ、本当の“楽”を見失った人々は、次なる不和の種を撒き散らす――。
まさしく、悪循環以外の何物でもありません。


余談ではありますが、その悪循環を断ち切り、真の“和楽”とともに生きていくための情報を発信することが、このサイト“和楽の道”の目的でもあります。

この記事のように、直接的にそのことに触れている記事から、まったく“和楽”などということに触れていないものまで含めて、原則的に“和楽の道”のすべての記事や活動が“和楽”とともに生きることにつながるようにと意識して行われています。

ぜひ、すでに読まれている場合でも、もう一度味わいながら他の記事もゆっくり読んでみることをおすすめします。

天使と悪魔の言葉――その答がいよいよ明らかに!

ところでこの記事の目的は、次の言葉のうち、どちらが天使の言葉で、どちらが悪魔の言葉なのかを考えることでした。

和を大切にしなさい。和を乱さず、平和が大切ですよ。

我を大切にしなさい。自分を満たすことが大切ですよ。

ここまで読んで頂いたあなたであれば、もう十分おわかりだとは思いますが、一応私の答えを書いておきましょう。


どちらの言葉も天使の言葉でもあり、悪魔の言葉でもある。

それが、この問題に対する【和楽的回答】です。


ここまで説明してきた“和”と“楽”の関係と、天使と悪魔の言葉に出てきた“和”と“我”の関係を考えてみましょう。

“和”はそのまま“和”に対応するとして、自分を満たすという意味で“楽”を捉えれば、“楽”は“我”を満たすことだと言うことができます。

天使と悪魔が、大切にするようにと説く“和”と“我”は、それぞれ“和”と“楽”に対応していると捉えることができるのです。


と言うことは、どうでしょう?

もし、天使と悪魔の言葉を、「“和”と“我”のどちらかを満たすために、どちらかもう一方を犠牲にしなさい」という意味で捉えれば、それはどちらも悪魔の言葉になってしまいます

なぜならば、“和”と“楽”のどちらかを犠牲にして、もう一方を求めても、やがてどちらも成り立たなくなってしまうからです。



しかしもし、“和”によって“我”を成り立たせ、“我”によって“和”を成り立たせるという視点でこの問題を捉えることができたらどうでしょう?


最初の、「和を大切に」に従って、“和”を実現することができれば、それは同時に“我”を満たされることにつながります。


逆に、「我を大切に」に従って、“我”を満たすことをができれば、それは同時に“和”が成り立つことにつながります。


天使と悪魔の言葉だと思っていた言葉は、実はどちらに従っても結局は同じ場所にたどり着く、同じことを2つの側面から言った天使の言葉だったと言うこともできるのです。

天使と悪魔の分かれ道

何が言いたいのかといえば、天使と悪魔の言葉だと思った言葉は、実は、天使の言葉にすることもできれば、悪魔の言葉にすることもできる、中立的な言葉だったということです。

と、言うことはです。

その中立的な言葉を、天使のものにするのか、悪魔のものにするのかの運命の分かれ道がどこかに存在しているはずです。




そして私たちは、人生の様々な場面で、自分でも意識しないうちに、その分かれ道のどちらかを選んでいることになります。

では、その運命の分かれ道は、いったいどこに存在しているのでしょうか?

また、その分かれ道をうまく乗り越えて、活用していくにはどうしたらいいのでしょうか?
このことについては、また別の記事に書きたいと思います。

天使と悪魔の分かれ道

それよりも、ここでは一度、あなたの頭を整理する時間をとりたいと思います。

ぜひ、【問題編】で出したあなたの答えと、【和楽的回答】を見比べる時間をとってみてください。

もちろん、【和楽的回答】はあくまでも【和楽的回答】でしかありません。

ですから、【和楽的回答】を「正しい答え」としては捉えずに、ぜひ、「あなたの答え」を「あなたにとってより役に立つ答え」にバージョンアップしていくための踏み台として【和楽的回答】を利用して頂ければと思っています。

あなたの人生のプラスにするために、いったいどんなことが、【和楽的回答】から受け取れるでしょうか?

大切なのは、少しの時間をとって、あなたの考えをもう一度深く味わってみて欲しいということです。

この時間をとるか、とらないかで、あなたが受け取るものが、きっと大きく変わることでしょう。


また、別の記事に書く予定の「天使と悪魔の分かれ道」の活かし方についても、一度あなた自身の考えを出してからお読みいただければと思っています。

warakunomichi