「お前ばっかり楽してずるいぞっ!」
「そうだ、そうだっ! 俺たちが毎日どれだけ大変な思いをしているのか、わかってるのか!?」 ある日突然、あなたの耳に、こんな罵声が飛びこんできました。
どうやら、どこかで喧嘩が始まったようです。
その声のする方に目をやると……。
驚いたことに、その声の主は、なんとあなたの「手」や「足」だったのです。
いったい、何が起こったのでしょうか?
喧嘩の行方
手や足は、なおも罵声を浴びせることをやめようとしません。
「俺たちは、毎日忙しく働いているのに、口はいつも食べるばかりでずるいぞ!」
「歩くのだって、重いものを持ち上げるのだって大変なんだぞ!!」
手と足が、いつも食べてばかりの口を、激しく責め立てます。
「もう俺たちは、食べ物を探しに歩き回ったり、口まで食べ物を運んでやったりはしないからな!」
手と足はそう言うと、楽をしてばかりの口を懲らしめるために、本当に口に食べ物を運ぶことをやめてしまいました。
しばらくして、口の様子を見てみると、どうやら食べ物が手に入らなくなって困った様子を見せています。
手と足の作戦は見事に成功したのです。
しかし、時間がたつにつれ、思いもよらないことが起こり始めます。
なんと、忙しく働くことをやめて休んでいたはずの手や足までも、元気がなくなってきてしまったのです。
手や足が食べ物を口にあげなかったので、手や足にも栄養がいきわたらずに、結局は手や足自身が困ることになってしまったのでした……。
この物語は、以前どこかで聞いたことがある物語を、私なりに思い出しながら書き起こしたものです。
もう、いつ聞いたのかも覚えていないくらいの曖昧な記憶ですが、おおよそ、こんな感じの物語だったと思います。
ところで、私たちはこの物語から、いったい何を学ぶべきなのでしょうか?
「
手には手、足には足、口には口の本分があるのだから、それぞれが身の程をわきまえて生きなさい」
普通にこの物語を解釈すれば、このように映るかもしれません。
このように解釈をすると、もしかしたら
「
もし手に生まれたら、一生、全身に尽くさなきゃいけないってこと……?」、
「
口に生まれなきゃ、幸せになれないってこと……?」
というような、
すこし嫌な気持ちになられた方もいるかもしれません。
しかし、
私が言いたいことは、「我慢しなさい」とか「自分を抑圧しなさい」というようなことではありません。
今から少しの間、手の生き方について考えながら、このことを読み解いていきましょう。
自分以外の誰かになろうとすると……
まず最初に、手が、手以外の生き方を目指したらどうなるのか考えてみましょう。
例えば、手が、ときには俊敏に疾走し、ときには悠然と歩く、力強い足のような生き方に憧れていたとしましょう。
そして、足のようになろうと必死で自分を鍛えて「逆立ち歩き」で過ごし始めたらどうでしょう?
画像:“足” by sumiisan 確かに、
必死に努力をすれば、一時的にはそんな生活も成り立つかもしれません。
頑張って目標を達成していく自分に、高揚感や満足感すら感じるかもしれません。
しかし、そんな生活を長く続けていたらどうでしょう?
積み重なった無理が、やがて努力や頑張りの限界を超えて、手や、全身の健康を損なってしまうかもしれません。
どんなに努力して頑張っても、「手は足にはなれない」という現実を突き付けられ、どうしようもない虚しさを味わうことになるかもしれません。 あるいは、
手が、口(消化器官)のような運ばれてきた食べ物をただ味わって食べるだけの生き方を望んだらどうでしょう?
言うまでもありませんが、手には食べ物を咀嚼して、消化・吸収するような能力は存在しません。そもそも味覚もないので、食べ物を味わうことすらできません。
ちょっと想像したくはありませんが、
それでも無理やり、歯のように硬くもない手で食べ物を砕き、胃酸(塩酸)のような消化液をかけて手の上で食べ物を消化しようとすれば、手は物凄い苦しみを味わうことになるでしょう。まるで拷問です。
どうやら、
手が、手以外の存在になろうとすれば、苦しみが訪れるのは避けられないようです。
もちろんこれは、
足や口が、器用に細かく繊細な作業をこなしてしまう手に憧れ、手のようになろうとしても同じことが起こるでしょう。
私たちを惑わす“見せかけの楽”と“取り繕った和”
「口は何もしないで楽をしていても、いつもおいしい食べ物が運ばれて来て、楽しそうでいいなぁ……。」
手が口を見て、こんな風に思い浮かべる「楽でいいな」とか「楽しそうでいいな」というような思いのことを、私は“見せかけの楽”と呼んでいます。 なぜ “見せかけ” なのかと言えば、
手にとってはそんな生活を手に入れても、少しも“楽”しくもなければ、“楽”でもないからです。
思い出してください。
手には味覚がないので、食べ物を楽しむことなんてできません。
口のように咀嚼が得意な構造でもなければ、消化器官のように消化が得意な構造でもありません。
それでも必死に頑張って、手がそれをしようとすれば、“楽”とは程遠い苦行になってしまいます。
もちろん、口のような生活に憧れ、
それを手に入れようと目標に向かって努力している時や、やっとの思いでそれを手に入れた瞬間は「夢がかなった!」と充実感や嬉しさを感じることもあるかもしれません。
しかし、その先に待っている現実は残酷です。なぜならば、手が口のような生活を実現したところで、文字通り、手にはその生活の喜び(おいしさ)を味わうことができないのです。
“見せかけの楽”が長く続くはずもなく、いずれ、それは自分を本当に満たしてくれるものではないという現実に向き合わざるを得ない時がくるのです。
無理をして、いろいろと取り繕って、必死に努力して、
「自分の夢」ではなく「他人の夢(口の人生)」を手に入れたところで、満たされない現実が待っているということですね。
そして、そんな風にして、決して満たされることのない
“見せかけの楽”に翻弄されているときに、相変わらず楽しそうにしている口を目にしたらどうでしょう。
「なんでアイツばかり……」という気持ちになり、上で紹介した物語のように、
口をこらしめて反省させたいという気持ちになるかもしれません。
あるいは、さすがに口に食べ物を与えないと自分まで困ってしまうことには気がついて、
みんなが平等になるようなルールを作ろうとするかもしれません。
それは例えば、「
全員が1日当たりの消費カロリーが同じになるだけ働こう」というようなルールかもしれません。
このようなルールをつくって秩序や安定を手にしようとすることを、私は“取り繕った和”と呼んでいます。
なぜならば、それは、
秩序や安定といった和を取り繕って演出しているだけに過ぎないからです。
【 参考記事 】
一見、みんなに平等が訪れるように見えたとしても、
そんなことがすれば、体はボロボロになってしまいます。
もし、口や瞼(まぶた)が、足と同じ消費カロリーになるように働き続けたらどうでしょう?
一日中、口をパクパク、瞼をパチパチさせはじめたらどうでしょう?
そうなってしまえば、
“体という社会”の健康的な営みなど、望むべくもありません。
また、瞼のような小さな存在がどんなに努力をしても、足と同じだけのカロリーを消費することなどほとんど不可能です。
やがて、
より多くのカロリーを消費出来た者が偉く、それが出来なかったものは価値が低いというような、暗黙の価値観も出来始めるかもしれません。
その価値観が定着してくると、今度は、
少しでも多くのカロリーを消費して“勝ち組”になれば、楽になれると思い込む者が現れはじめます。
新たな“見せかけの楽”の登場です。
“取り繕った和”という環境が、また新しい“見せかけの楽”を生み出してしまったのです。
そして、そんな
“見せかけの楽”に魅せられた人々は、今度はカロリーを少しでも多く消費するゲームを始めます。
そんな風にして、全身の各組織が我先にとカロリーを消費することに血眼になり、必要もない運動ばかりに熱中しはじめれば、
体に供給されるエネルギーの総量が足りないというエネルギー問題が起こるかもしれません。
代謝で生まれた
老廃物の処理が追いつかないという環境問題も起こり始めるかもしれません。
困った人々は、
足などのカロリーを大量に消費できる大きな組織こそが諸悪の根源と考えて、彼らを規制するための新たなルール(“取り繕った和”)を求め始めます。
「一律に皆が同じカロリーというのは平等ではない。体重1グラムあたりのカロリーが同じになるようなルールにするべきだ!」
「いや、それはおかしい!それでは水分や脂肪が多い組織が不利になってしまうじゃないか!筋肉量当たりのカロリーにするべきだ!!」
「それじゃあ、筋肉はないけど大量にカロリーを消費する脳はどうするんだ!?」
そこで交わされるのは、事の本質を見落とした、見当はずれな意見ばかりです。
“見せかけの楽”の暴走に嫌気がさした人々が、“継ぎ接ぎだらけの和”を、さらに取り繕おうとしているのです。
そうやって、
“見せかけの楽”が“取り繕った和”を生み出し、“取り繕った和”が“見せかけの楽”を生み出すという悪循環を続けるうちに、みんなが暮らす“体という社会”は健康を失ってしまうかもしれません。
手に与えられた、本当の喜び
では、体が健康を取り戻すためには、いったいどうすればいいのでしょうか?
私の答えは、「
手は、手に与えられた喜びを、全身に貢献しながら味わえばいい」というものです。
勘違いしないで頂きたいことは、
これは決して、我慢して、努力して、自分を押し殺して必死に頑張るということではないということです。
それでは、“取り繕った和”に逆戻りです。
そんな頑張りがが必要になるのはむしろ、手が、口や足として生きようとした時だというのは既に書いた通りです。
では、
手が、手に生まれたことに感謝せざるを得ないほどに輝くときは、どんなときでしょうか?
それは、筆を握り、ときには力強く、ときには繊細なタッチで絵を描く時かもしれません。
あるいは、躍動するリズムと一体になって楽器を操るとき、神業としか言えないような緻密な作業を流れるようにこなすとき、魂からわき出るような言葉をキーボードに打ち込むとき、繊細にしなやかに舞い踊るとき、愛する人に優しく触れるときかもしれません。 そんなときには、
手は、手に生まれたことを心から感謝せざるを得ないのではないでしょうか?
もちろん、それぞれの手にとって、もっとも輝く場面は違うでしょう。
一人ひとり、それぞれの手に個性があるのですから当然です。
しかし、
手がもっとも輝くのは、手に与えられた輝きを放っているときをおいて他にないでしょう。
そんな風にして与えられた喜びや楽しさをことを、私は“楽”と呼んでいます。 それは、本当は手として生まれたはずの人が、足や口として生きることを望み、いくら努力しても満たされずに、「もっと、もっと!」と
“見せかけの楽”を渇望している状態とはまったく次元の異なる喜びです。
ここで先ほどの、「
手には手、足には足、口には口の本分があるのだから、それぞれが身の程をわきまえて生きなさい」という言葉を思い出してみてください。
今度は、この言葉が、先ほどとは少し違って見えるのではないでしょうか?
手が、手に与えられた人生を生きるということは、決して幸せを諦めたり我慢したりすることではなく、最高の喜びをもたらしてくれることなのです。
逆に、
手の生き方から外れて足や口の生き方を望めば、外れた分だけ辛い思いをすることになります。
もし、手が手に与えられた“楽”を心の底から味わうことができたとしたら、どうでしょう?
例えば、リズムと一体になって楽器を操っているときに、
「アイツのほうが消費カロリーが少ないのはズルい」というような思いが浮かんでくるでしょうか?
おそらく、
そんなくだらないことを考えている暇があったら、もっと“楽”を味わうことに集中したいと感じるのではないでしょうか?
それどころか、
手が“楽”を味わうのに必要なカロリーを供給してくれる口や消化器官に感謝の念すら抱くかもしれません。
そんな風にして生まれる秩序や安定のことを、私は“和”と呼んでいます。 “和”と“楽”の両立
ここでポイントとなるのは、
“楽”を味わっていたからこそ“和”が生まれたということです。
なぜならば、
自分が“楽”ではなく、苦しんだり辛い思いをしていれば、ついついその原因を他者に投影してしまうことは誰にだってあることだと思うからです。
「口がいなければ、自分にもエネルギーはやってこない。」
そんなことは
頭ではわかっているけれど、どうしても、楽して楽しんでいるように見える口が許せない。
こんな
不平等な体という世界が許せない。
そう感じてしまうこともあるのではないでしょうか?
だからこそ私は、
自分にとって“楽”で“楽”しめる方法で、自分に与えられた“天与の才能”を発揮することが大切なのだと思っています。
手は、
生まれながらにして、繊細な動きができるような構造でこの世に生れてきます。
そして、
足は力強く全身を支えられる構造、
口は食べ物を咀嚼するのに適した構造、
消化器官は食べ物を消化するのに最適な構造で生まれてきます。
そのような、
生まれながらに与えられた“天与の才能”を、自分にとって“楽”で“楽”しい方法で発揮するのです。
もちろん、
同じ手という組織でも、一人ひとりの手にとって、“楽”で“楽”しい方向性は異なります。
例えば、職人の手は精密な作業を寸分の狂いもなく成し遂げるときに“楽”を感じるかもしれません。
母親の手は、優しく子供に触れるときに“楽”を感じるかもしれません。
そして、
各自が“楽”に満たされることで“和”のこころが生まれ、“和”のこころを持った一人ひとりが、自分の“楽”を全身に貢献するかたちで発揮するようになったとしたらどうでしょう?
手が“楽”しみながら生活の糧を手に入れる仕事をすることで全身に貢献し、足が“楽々”と歩いて全身を移動させることで貢献し、口が「“楽”して、“楽”しんでばかりいること」で貢献するような状態です。
そんな風にして成り立つ全身の“和”は、全身の健康を助け、手や足や口がさらに“楽”に生きることを助けてくれるでしょう。
全体の“和”が一人ひとりが“楽”に生きることを助け、一人ひとりが“楽”に生きることが今度は全体の“和”を支える。 そうやって成り立つ“和”や“楽”が、“取り繕う必要のない和”であり、“見せかけではない楽”であると思います。
そして、
そんな風に生きることこそが、本当の意味で自分らしく生きることであり、与えられた才能を活かすこと、貢献すること、使命や天命を生きることであると思うのです。
【 参考記事 】
どんな呼び方をするかは問題ではありません。私にとっては、これらはすべて同じことだと思っているからです。
大切なのは、
手が手に与えられた喜びを追求することと、全身に貢献することを両立すること。
つまり、
“和”と“楽”の両立です。
これこそが、
このサイトの名前である“和楽”が象徴することの1つなのです。
体の健康と、私たちの社会の健康
“和楽”を成り立たせることが、どれだけ素晴らしいことなのかはわかりました。
また、一人の人間の手や足や口の間では、確かに“和楽”が成り立つことがありそうなこともわかりました。
しかし、
私たち人間が生きる社会でも、そんなことが成り立つことがあるのでしょうか?
そう思われたとしても、それは、ある意味当然です。
手や足や口の例えでは、
私たち人間が手や足や口のすべてを包括する存在だからこそ、手や足や口の暴走も協調も容易に認識して捉える事ができました。
しかし、こ
の物語に登場する手に心の底からなり切ることができたとしたら、そのことを理解することは遥かに難しくなるかもしれません。
なぜならば、
全体を見る視点から切り離されて手の視点だけになり切れば、確かに、いつも楽をして食べてばかりの口のことを羨ましくも見えてくるからです。
こんなことを書いている私自身も、本当に手の立場に立たされたとしたら、口に対して羨望の眼差しを向けないかと問われれば、「そんなことはない」と断言する自信はありません。
同様に、私たち人間も、
一人ひとりの個人の視点から誰かを見れば、「瞼に自分と同じだけのカロリーを消費することを求めて、無理な瞬きを強要するような暴走」を当たり前のことのように思ってしまっても無理はないのかもしれません。
もともと
全身の各組織が協力し合うことで成り立つ構造になっている人間の体と、
各個人がそれぞれバラバラの意志を持って生きているように見える人間社会を同列に語ることなど出来ないという意見が出たとしても仕方ありません。
では、
私たちの暮らす人間社会では、体のように“和”と“楽”の循環を成り立たせることはできないのでしょうか?
私は、そんなことはないと思っています。 例えば、ほんの一例をあげるなら、
神話と形容されるほどの成長を遂げていたころのソニーでは、ある程度以上の“和”と“楽”の循環が成り立っていたことの片鱗が見てとれます。
【 参考記事 】
そもそも、
もし私たち人類の歴史が、足は一歩も歩くこともせず、手も口に完全に食べ物を運ばないような、“和”も“楽”もまったくないような状態だったとしたならば、人類はとっくの昔に絶滅してしまっているはずです。
そうでないということは、
私たちの社会は、少なくとも最低限の“和楽”は成り立たせているはずなのです。
しかしそれは、体で例えるならば
、生命維持は出来ているけれども決して健康とも言えないような状態かもしれません。
例えば、
あなたは日々の生活の中で、こんなことを感じたことはありませんか? 周囲からの要求や無言のプレッシャーを受けて、
自分のやりたいことや才能を封印せざるを得ないと感じてしまう……。
それは、
あなたがあなた以外の存在として生きること。まるで
逆立ち歩きをしたり、足で箸を持つことを求められているような気分です。
そして今度はあなた自身が、
ときには自分でも気付かずに、ときには「自分も我慢して頑張っているのだから」という気持ちから、人に逆立ちをすることを求めてしまうこともあるかもしれません。
やがて、
互いに逆立ちを要求し合うような“綱引き”の縄に全身を縛られ、ますます身動きが取れなくなってしまうこともあるかもしれません。
“和”が乱れ、“楽”が抑圧された状態です。
あるいは、視野の拡がりが足らないばかりに、
善意から問題を引き起こしてしまうこともあるかもしれません。
例えば、私たちが手を構成する細胞のひとつひとつだったとしましょう。そして、
私たちの集合が組織する手は“見せかけの楽”に夢中になっているような状況だったとします。
そんな時、
その手の細胞である私たちが手を諌(いさ)めることをせずに、手と協調したとしたらどうでしょう?
それは、
手という組織レベルでは“和”に見えるかもしれません。
しかし、
全身の視点から見ればそうは見えないはずです。
和楽の道
思い出してみてください。
あなたが生まれ育った家族、学校生活、部活動、アルバイト、社会人生活、これまでに経験してきた人間関係……。 あなたのこれまでの生活の中で、そんな体験をしたことはないでしょうか? 残念ながら、私には思い当たる節がたくさんあります。
なにが言いたいのかといえば、
私たちが実現している“和楽”は、生命の維持くらいは出来ていても、決して健康とは言えないような、まだまだ“見せかけの楽”や“取り繕った和”がこびりついた純度の低いものでしかないということです。
私は、
その“和楽”の純度を高めていくことが、地球と人類と、そして何よりもあなた自身のためになるのではないかと考えています。
【 参考記事 】
少し、考えてみてください。
あなたは、あなたがいったいどんな存在として生まれてきたのか気付いていますか……?
手として、足として、それとも口として生まれたのでしょうか?
あなたは日々の生活を逆立ちして過ごすような生き方をしていませんか?
足で箸を持つことを、互いに強制し合うような社会に疲れてしまってはいないでしょうか? 私たちは、
そんな状態を乗り越えていかなければならないと、私は考えています。
どうせ努力するのなら、手が足として生きようと努力するよりも、手は手だけに与えられた幸せを、足は足だけの幸せを、口は口だけの幸せを最大限受け取りながら、全身が協調しながら生きていける健康な体をつくるための努力をしたほうがよいのではないでしょうか?
「私たちは本当に健康になれるのだろうか?」、「本当に、“和楽”の循環などということが成り立つのだろうか?」
私がこのサイトでしたいのは、そのような議論ではありません。
なぜこんなにも、人生は“楽”しく、世界は平“和”なのか――? 思わずそう呟いてしまうほどの、“和楽”がめぐる毎日を成り立たせるための実際の力、そして道となること。 それが、
“和楽の道”が存在する理由です。
私は、そんな道を選びたいと思っています。
あなたは、どの道を選びますか――?