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『恥ずかしい服装』の不思議―認知的不協和とセルフイメージから考える【引き寄せシリーズ5】

うわぁ!恥ずかしいっ……。
あなたの顔は、まるで湯気が出ているのではないかと思ってしまうほど熱くなっています。

あなたは、少しうつむきがちになりながら、早歩きでいそいそと街を通り抜けていきます。

すれ違う人の視線が気になって気になって、顔を上げることができないのです。

まさに、穴があったら入りたい心境のあなた。

いったい何が起こったのでしょうか?

実は、普段は地味でなるべく目立たない格好をしている、恥ずかしがり屋さんのあなた(という設定で読んでみてください)が、今日は事情があって、少し派手目の格好で外を歩かなければならなくなってしまったのです。

と言っても、本人は恥ずかしがっていますが、傍から見れば、恥ずかしいどころか、いつもより似合っているし、TPOにもあっているように見えます。

10人に聞けば9人は「今日の方がいい!」と言いそうなくらい似合っているのです。


…………。

どうでしょう?想像できましたか?

地味目の恰好が好きな人に、派手目な恰好をさせようなどとすれば、とても嫌がりそうなことが容易に想像できますね?

(逆に、派手目が好きな人に地味目な恰好をさせようとしても、とても嫌がると思いますが。)

でも、よく考えてみると、これってとても不思議ではないでしょうか?

TPO(時、場所、場合)をわきまえないような場違いな格好や、一部の人にしか好まれないような奇抜な格好であれば恥ずかしい気持ちになるのもわかります。

でも今回の場合は、10人に聞けば9人は「普段の格好より、今日の格好の方がいい!」と答えるのではないかという程似合っています。

決して、場違いな格好でも、奇抜な格好でもありません。
けれども、普段からなるべく目立たない格好しているタイプの人に、そんな恰好をさせようものなら、ものすごい勢いで恥ずかしがる姿を容易に思い浮かべることができてしまいます

「いつもより似合ってるはずなのに、なぜか恥ずかしい……。」

いったいなぜ、このような不思議な現象が起こるのでしょうか?

今回の記事では、「認知的不協和」という心理学の考え方と、前回の記事『監獄の中で、あなたは…。スタンフォード監獄実験とセルフイメージから考える』でも紹介した「セルフイメージ」という考え方をもとに、この不思議について考えていきたいと思います。

そして、この不思議を解き明かすことで、いわゆる「引き寄せの法則」についての理解も同時に深まってしまうように、この記事は書かれています。

どうぞ、続きをお楽しみください。

ただ単に、慣れてないから恥ずかしいだけなんじゃ……

では、さっそく、普段とは違う格好で外を歩くことの恥ずかしさの原因について考えていきましょう。

普通に考えれば、

「いつも通りの格好は慣れているから何も感じない。普段と違う格好は慣れていないから、気恥ずかしさを感じる。」
単純にそれだけのことに思えます。


しかし、このことについてもう少し深く考えてみると、別の事実が見えてきます。

まずは、普段とまったく違う格好をしたときには、必ず気恥ずかしい気持ちになるのかについて考えてみましょう。

例えば、冒頭に書いたような、普段は目立たない地味な格好をしてい人が、ある日突然、少し派手目の洒落た格好で外出することになった場合はどうでしょう?

人の目がなくても、鏡の前に立つだけで、なにか恥ずかしいような気持ちになってくるかもしれません。

その姿で、普段の自分を知っている友人に会ったりすれば、もうドキドキものかもしれません。


一方で、普段は私服勤務をしている人が、久しぶりの出張のために、もう十年以上は着ていなかったスーツを着ることになったとというような場合はどうでしょう。

その人は、鏡の前に立ち、着慣れないスーツ姿を見て恥ずかしそうにしているでしょうか?普段は私服で接している職場の同僚に会うとき、その人の鼓動は速まるでしょうか?

もちろん、多少の違和感はあるかもしれませんが、そんなに恥ずかしいということはないと思います。


これらのことから考えると、単純に「慣れている」、「慣れていない」の違いだけで気恥ずかしい気持ちになるわけではないようです。

ではいったい、この違いは何によって生まれるのでしょうか?

認知的不協和とは? ― 自分の中での葛藤と、辻褄あわせ

実は、これらのことは「認知的不協和」という心理学の考え方から解釈することが出来ます。

まずは、この認知的不協和という言葉について説明してみましょう。

認知的不協和(にんちてきふきょうわ、英: cognitive dissonance)とは、人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、自身の態度や行動を変更すると考えられている。

有名な例として、イソップ物語のキツネとすっぱい葡萄の逸話が知られる。

Wikipediaではこのように説明されています。
ちなみに、この中の「キツネとすっぱい葡萄の逸話」というのは、だいたいこんな物語です。

ある日、キツネが、おいしそうなぶどうが木に実っているのを見つけました。

しかし、ぶどうは高いところになっていて、どうしても食べることができません。

どうやら、ぶどうに手が届かないという現実を受け入れるしかなかないようです。

キツネは、「どうせあのぶどうはすっぱいに決まっている」と負け惜しみを言って去っていってしまいましたとさ。

この物語では、キツネに2つの認知が生まれました。

  • あのぶどうはおいしそうだ(食べたい)
  • ぶどうは高いところになっていて、手が届かない(でも、食べれない)
この2つの認知は、「食べたい。でも、食べれない」という不協和な気持ちを生み出すことになりました。

そして、この不協和を解消する為に、

  • あのぶどうはおいしそうだ(食べたい)
という認知を、

  • あのぶどうはすっぱいに決まってる(食べたくない)
という認知に変化させ、「食べたくない。だから、食べない」と思い込むことによって不協和を解消しようとしたのです。



認知的不協和の説明にちょうどいい具体例は、他にはないのでしょうか?

Wikipediaでは、次のような例も紹介されていました。

よく挙げられる例として、「喫煙者」の不協和がある。
喫煙者が喫煙の肺ガンの危険性(認知2)を知る
認知1 私、喫煙者Aは煙草を吸う
認知2 煙草を吸うと肺ガンになりやすい
このとき、認知1と認知2は矛盾する。「肺ガンになりやすい」(認知2)ことを知りながら、「煙草を吸う」(認知1)という行為のため、喫煙者Aは自分自身に矛盾を感じる。そのため喫煙者Aは、認知1と認知2の矛盾を解消しようとする。
自分の行動(認知1)の変更
認知3(認知1の変更) 私、喫煙者Aは禁煙する
認知2 煙草を吸うと肺ガンになりやすい
一番論理的なのは認知1を変更することだ。「喫煙」(認知1)を「禁煙」(認知3)に変更すれば、「煙草を吸うと肺ガンになりやすい」(認知2)と全く矛盾しない。

これが小さなことならば、自分の行動を修正または変更することで足りる(例えば、漢字を間違って覚えていたならば、正しい漢字を覚えなおせばよい)。しかし、喫煙の多くはニコチンに依存する傾向が強いため、禁煙行為は苦痛を伴う。したがって、「喫煙」(認知1)から「禁煙」(認知3)へ行動を修正することは多大な困難が伴い、結局は「禁煙」できない人も多い。その場合は、認知2に修正を加える必要が生じてくる。

新たな認知(認知4または認知5)の追加
認知1 私、喫煙者Aは煙草を吸う
認知2 煙草を吸うと肺ガンになりやすい
認知4 喫煙者で長寿の人もいる 認知5 交通事故で死亡する確率の方が高い
「喫煙者で長寿の人もいる」(認知4)を加えれば、「煙草を吸う」(認知1)と「肺ガンになりやすい」(認知2)との間の矛盾を弱めることができる。そして「交通事故で死亡する確率の方が高い」(認知5)をつけ加えれば、肺ガンで死亡することへの恐怖をさらに低減することができる。


なるほど。なんとなくわかってきました。

自分の中に矛盾ができると、不協和(不快感)がうまれてきます。
これが認知的不協和ですね。

自分の中に不協和(不快感)がうまれれば、当然、それを解消したくなります。
不協和の解消が難しくない場合には、簡単にその不協和を解消してしまうでしょう。

けれども、簡単には解消できない場合には、(他人から見れば不合理でしかないような理屈をつくってでも)自分の中で辻褄を合せてしまうのですね。

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セルフイメージとは? ― 自分を見つめる私の眼

「認知的不協和」という考え方をひととおり説明したところで、もう1つ、「セルフイメージ」という言葉について説明させてください。

引き寄せの法則をちょっと科学的にシリーズ」の1つ前の記事「監獄の中で、あなたは…。スタンフォード監獄実験とセルフイメージから考える」でも、セルフイメージという言葉については説明しましたが、復習の意味も込めて、もう一度簡単に確認しておきましょう。

セルフイメージとは、文字通り、「自分自身に対して抱いているイメージ」のことです。

「私は○○だ」というように、自分自身に向けられたイメージのことですね。

例えば、「私は優しい人間だ」とか、「私は努力家だ」とか、「私は教師だ」などが考えられます。

今回の記事に沿った例としては、例えば、「私には地味な格好がふさわしい」とか、「どうせ私にオシャレな服は似合わない」とか、そんな感じでしょうか?

もちろん、「私はどんな服でも格好いい / 美しい」とか、「私は○○系の服が似合う人間だ」というようなセルフイメージを持った人もいるでしょう。

あるいは、今回の記事で扱うよりも少し深めの例ですが、「私には価値がない」というセルフイメージと、「ブランド物には価値がある」という価値観が合わさって、ブランド物を買いあさる現実を引き寄せる人もいるかもしれません。

が、話がそれてしまうので、詳しくは触れません。

恥ずかしい服装と認知的不協和

では次に、先ほどの普段と違う格好をする時の気恥ずかしさについて、認知的不協和の考え方を使いながらひも解いていきましょう。


例えば、普段、誰に頼まれることもなく地味目な格好をしている人は、「私には、地味目の格好がふさわしい」というセルフイメージをもっているはずです。

(そうでなければ、不協和が生じて、地味目な格好をしたくなくなるはずです。)


ですから、その人が実際に目立たない格好をしている時は、特に不協和は起こりません。

  • 私には地味目の目立たない格好がふさわしい
  • 私は目立たない地味な格好をしている
しかし、もしその人が派手な格好をしなければならなくなってしまったとしたらどうでしょう?

  • 私には地味で目立たない格好がふさわしい
  • 私は派手な格好をしている
セルフイメージと実際のふるまいに食い違いが生じて、不協和が起こっていますね。

この不協和が、「恥ずかしさ」として現れているのだと考えられるのです。


もちろん、この不協和の現れ方は、必ずしも「恥ずかしさ」に限られる訳ではありません

例えば、裕福な育ちで高級ブランドで身を固めることに慣れている(「私には高級ブランドがふさわしい」というセルフイメージをもっている)人が、安売り店で売られている服を着なければならないことがあったとしましょう。

そんな時には、「恥ずかしさ」を感じることもあるかもしれませんが、「みじめさ」として不協和を感じることもあるかもしれません。


また、このような不協和は、なるべく目立たないような地味な格好をしていた人が、派手な格好をした時だけに起こるわけでもありません

普段、派手目の格好をしている人に地味目な格好をさせても、○○系ファッションが大好きな人にそれとは全然タイプが違う××系ファッションをさせたときにも、同じように不協和が起こることが多いでしょう。

どちらの場合も、セルフイメージと実際の振る舞いに差が出来てしまうからですね。


あるいは、それまでは自信満々で○○系の格好をしていた人が、「実はあまり似合ってないかもしれない」と思わされてしまうきっかけがあり、急に恥ずかしくなってしまうということもあるかもしれません。

これなどは、まさに、認知的不協和の好例です。

「私には○○系が似合っているから、○○系の格好をしている」という矛盾のなかった認識が、「私には○○系は似合わないかもしれない。けれども私は○○系の格好をしている」という矛盾を抱えた認識に変わった途端に、「恥ずかしさ」という不協和が顔を出してきたのですね。




ところで、ここで思い出してみてください。

出張のために何年も着ていなかったスーツを着た人は、慣れていない服装をしたにもかかわらず、特に恥ずかしがっている様子はありませんでした。

これは、いったいなぜなのでしょうか……?

その答えは、もう簡単ですね?

たとえ何年もスーツを着ていなかったような場合でも、その人のセルフイメージが、その人がスーツを着ることを自然なことだと捉えているなら、不協和は発生しないと考えられるのです。

スーツを着ている自分を自然に感じられるのであれば、たとえ10年ぶりのスーツでも、不協和は発生しないのです。

  • 私がスーツを着るのは自然なことだ
  • 私はスーツを着ている
しかし、(こういう人は滅多にはいないと思いますが、)仮に反骨精神旺盛な人がいたとして、その人はスーツを着ることを「誰かに服従していることの象徴」と捉えているような場合があったとしたらどうでしょうか?

そんな場合には、その人に無理やりスーツを着せようとすれば、荒れた中学生に真面目な生徒のような格好をさせようとしたときのような心理的抵抗(不協和)を示すかもしれません。

  • 私は反骨精神旺盛だ。(私は誰にも従わない!!)
  • 私は、服従の象徴であるスーツを着ている。(私は服従している……)
その心理的な不協和が生まれるメカニズムは、こんな感じですね。


このように認知的不協和の考え方をつかって考えると、どうやら、セルフイメージの範囲外に外れたときに心理的な抵抗(恥ずかしさなどの不協和)を感じるということになりそうです。

慣れているか、慣れていないかは、必ずしも関係するわけではないのですね。

認知的不協和・セルフイメージと、引き寄せの法則

ところで、この「セルフイメージから外れたときに心理的な抵抗を感じる」という考え方から、言えることはないでしょうか?

自分がセルフイメージの範囲から外れてしまった時に心理的な抵抗を感じる。
このことを言い換えれば、

自分がセルフイメージの範囲内にいるときに、心理的に安定する。 (少なくとも、セルフイメージの範囲外にいるときに比べれば)
と、言い換えることも出来るでしょう。

  • セルフイメージの範囲内にいると、心理的に安定する。
  • セルフイメージの範囲から外れると、心理的に不安定になる。

ちょっと想像してみていただきたいのですが、ある時突然、あなたがグラグラ揺れる不安定な足場に立たされてしまったとしたら、まず何をするでしょうか?

おそらく、急いで安定した足場を探して、そちらに飛び移ろうとするのではないかと思います。

それと同じように、人は普通、不安定な気持ちでいるのは好きではありませんから、セルフイメージの範囲から外れて不安定な気持ちになってしまったときには、意識的にせよ無意識にせよ、自然と心理的に安定する場所(セルフイメージの範囲内)に向かおうとするのではないでしょうか。

つまり、あなたがセルフイメージから外れたときには、セルフイメージの範囲内にあなたを引き戻そうとする力が作用するということです。


そうです。

認知的不協和という現象から考えると、人には、「自分自身に対して抱いているイメージ(=セルフイメージ)通りの自分でいたい」という力がはたらくだろうと考えられるのです。

これは、自分がしているイメージ通りの自分になる方向の力がはたらくということですから、まさに引き寄せの法則が主張する通りの力がはたらくといえるのではないでしょうか。

認知的不協和が、引き寄せの法則を否定する!?

ただし、ここでもう1つ考えなければならないことがあります。

それは、認知的不協和の考え方から考えると、対立する認識のどちらか一方が変われば不協和が起こらないということです。

例えば、

  • 私は○○な人間だ
  • でも現状では、私は△△な状態だ
と認知的不協和を感じていた人が、その不協和を解消する為に、

  • 私は○○な人間だ
  • ○○の方が落ち着くから、○○になった
となれば、自分のイメージ通りの人間になってしまったのだから、まさに「引き寄せの法則」通りです。


しかし、△△に慣れてしまって、

  • 私は△△な人間だ(セルフイメージが△△ に変わった
  • 私はいままで通り△△な状態だ
という風に不協和状態から抜け出した場合には、「思いや信念が、外の世界をつくる」どころか、「外の世界によって、思いや信念が変わった」ということになります。

例えば、とても優しかった人が、「看守役」を演じているうちにセルフイメージが変わってしまい、元の優しかった人とは別人のような振る舞いをしているような場合(参考:スタンフォード監獄実験)ですね。

これは、「内なる世界である信念(セルフイメージ)が外の世界(振る舞い)をつくる」どころか、「外の世界によって信念を変えられてしまっている」わけですから、捉え方によっては、引き寄せの法則とは真逆の出来事に思えます。


あるいは、今回の「服装のはなし」についても、例えば次のような場合が考えられます。

先ほどの「自分には地味な格好がふさわしい」というセルフイメージを持った人が、派手目の格好をしている場合を考えてみましょう。

このとき、認知的不協和が発生し、その人は恥ずかしさなどの心理的な抵抗を感じることになります。

しかし、例えば仕事上の事情で、その人は今後もその格好を続けなければならなかったとします。

すると、最初は抵抗を感じていたとしても続けているうちにその格好に馴染んでしまって、派手目の格好をしている自分を自然に感じるようにセルフイメージも置き換わっていくことでしょう。

もしかしたら、それをきっかけにして、派手な格好に目覚めてしまうかもしれません。

このことは、考えていることや信じていることなどの内側の状態が、その人の体験する外側の世界をつくるという引き寄せの法則に反するような現象に思えます。

しかし、このようなことは当たり前に起こる出来事で、似たような経験は誰にでもあるのではないかと思います。


「な~んだ、やっぱり引き寄せなんてインチキだったんだ」

そう結論付けることは簡単ですが、ちょっと待ってください。

実は、この一見すると引き寄せの法則を否定するような出来事の裏には、見落とせない力が隠されているのです。

それは、その人は、徐々に派手目な格好に馴染んでいったにしても、馴染むまでの間は恥ずかしさなどの心理的な抵抗を感じていただろうということです。

これは、セルフイメージ通りの自分でいるようにと、心理的な力がかかり続けていたということです。

なにが言いたいのかといえば、セルフイメージ通りの自分を引き寄せようとする力は、間違いなくはたらいていただろうということです。

ただ、その「引き寄せの力」が「仕事の都合という他の力」より弱かったというだけの話なのです。

セルフイメージ通りの自分を引き寄せようとする力が存在していたという意味では、この出来事は、引き寄せの法則の作用を必ずしも否定するもではないと考えられます。


さらに、もっと言ってしまえば、その人は「自分には地味な格好がふさわしい」という信念よりも、もっと強い信念を持っていたのではないかと思います。

例えば、「生きていくために仕事は絶対に必要」、「仕事のために必要であれば嫌なことも我慢するのが当然」というような信念です。

その場合には、「自分には地味な格好がふさわしい」という信念よりも、さらに強く信じていた信念どおりの現実を引き寄せたのだと言うこともできるでしょう。

(決して、このような信念が正しいと言いたいわけではありません。また同様に、間違っていると言うつもりもありません。人それぞれ、自分の好きな信念を選べばいいと思います。)

認知的不協和・セルフイメージと引き寄せの法則

前回の記事『監獄の中で、あなたは…。スタンフォード監獄実験とセルフイメージから考える』と、今回の記事では、「人には、セルフイメージ通りの自分になろうとする力がはたらく」ということについて説明してきました。

前回の記事では、「スタンフォード監獄実験」を例にしながら、人には役割(セルフイメージの一種)通りの人間になろうとする傾向があることを説明しました。

そして今回の記事では、「認知的不協和」の考え方をもとに、人にはセルフイメージ通りの自分で居ようとする力がはたらくのだという説明をしてきました。

なぜならば、セルフイメージ通りの自分でいると心理的に安定して、セルフイメージの範囲から外れると心理的に不安定になってしまうからですね。

そして、そのセルフイメージ通りの自分になろうとする力は、服屋で服を選ぶような日常のほんのささいな場面から、犯罪などとは縁遠い普通の人を暴力をふるうような人間に変えてしまうような場面前回の記事参照)まで、人生の多くの場面ではたらいています。

ここまで説明すれば、いわゆる「引き寄せの法則」と呼ばれるような作用が、私たちの人生に大きな影響を与えているだろうと言っても問題ないレベルまできているのではないかと思います。

ようやく、「引き寄せの法則をちょっと科学的にシリーズ」も、ある程度のところまで来ることが出来たと思います。


しかし、お伝えしたいことは、まだまだたくさんあります。

次回の記事では、さらに追い打ちをかけるように、人生にチャンスを引き寄せるメカニズムについて考えていきたいと思います。


それから、最後に少しだけ補足です。

この記事の中では、「地味な格好」、「派手な格好」などの表現を多数使っております。

これらは、わかりやすい例として使っただけであり、決して、どちらが「良い」とか「悪い」などと主張したいものではありません。

それらは、一人ひとりの個性や好みであり、一概に否定されるものではないと思います。

この記事を書いている私自身、正直、服装には無頓着で、「最低限、人に迷惑をかけたり嫌な気分にさせたりするようなことがなければいいかなー」程度にしか服装には興味がない人間です。

warakunomichi